土曜の朝は早い。
まだ空が白くなりきってない時間に、俺は起きた。
スマホを見る。浅野さんから来てる。
浅野
『集合 6:45/ホテル裏口(搬入口)
服装:黒か紺の無地(上着・パンツ)
持ち物:学生証、飲み物、マスク、髪留め(必要なら)
※関東エリア+Web。情報は口外しないでね』
レンにも転送してある。既読はついてる。
寝室の方を見ると、命と恵はまだ寝ている。
今日は起こさない。
台所に行くと、母さんがもう起きてた。
妊娠してから、朝は無理しないようにしてるのに、こういう時だけ早い。
「おはよ。行くのね」
「行く」
母さんは水を一口飲んで、テーブルに小さな袋を置いた。
「これ」
「のど飴と、カイロ。現場って空調が変なのよ」
「助かる」
「それと」
母さんが目を細める。
「現場で変なことがあったら、浅野さんに言う。いい?」
「分かった」
「よし」
母さんは笑って、手をひらひらさせた。
「じゃ、行ってらっしゃい。天城くん」
母さんがからかって言う。
家の外で「天城くん」って呼ばれるのは慣れないだろうな。
でも、今はそれでいい。
駅でレンと合流した。
レンは思ったより落ち着いてる。
髪も服も整ってて、いつもの静かな顔。
「……おはよう、隼人」
「おはよう」
レンは小さく息を吸って、スマホを見た。
「……場所、搬入口ってなんか本物だね」
「本物だ」
「……うん」
それだけ言って、レンは前を向いた。
緊張を外に出さない。今日のレンは、そういうモードだ。
ホテルの裏口は、もう“現場”だった。
台車が行き来して、スタッフがイヤホンで話してる。
コーヒーの匂いと、機材の金属の匂いが混ざってる。
「天城くん、佐久間くん」
呼ばれて振り向くと、浅野さんがいた。ジャケットにID。仕事の顔。
「時間どおり。いいね、まず受付。ここにサイン。体調は? 眠いとかはある?」
「大丈夫」
「……僕も大丈夫です」
浅野さんは頷く。
「よし、じゃあ控室行こう。今日のCM、規模は大きめ、全国じゃないけど、関東一円で流れる。Webも回す」
レンが一瞬だけ目を丸くした。
「……関東」
「そう」
浅野さんはさらっと言う。
「だからって、やることは同じ。指示を聞く。勝手に増やさない」
「分かった?」
「分かった」
「……はい」
控室は静かだった。
机に台本と、簡単な説明紙。
タイトルは『冬のギフトフェア』。
設定は“ギフトカウンターで受け取る客”。俺とレンは別のカットで同じ役回りをやるらしい。
浅野さんが紙を指でトントン叩く。
「段取り確認。衣装はスーツ。メイクは薄く整える程度、台詞は一言。目線と手の動きが大事。顔、固めない。怖くない顔で」
レンが小さく頷く。
「……怖くない顔」
俺は台本を開く。台詞は一行。
『ありがとうございます』
それだけ。
浅野さんが言った。
「面談でやったの、そのまま。丁寧、嬉しい、の二種類このCMは“嬉しい”寄りでいく」
レンが一拍置いて、息を吐く。
「……やる」
衣装に着替えて、控室を出る。
廊下を歩くだけで、空気が変わる。
ホテルの絨毯、照明、音の吸われ方。そこに機材の音が混ざって、別世界になる。
撮影フロアに着くと、セットが組まれていた。
「じゃあ、まず佐久間くんから」
浅野さんが言う。
レンが前に出た。
レンは落ち着いてる。立ち姿がちゃんとしてる。
監督が声をかける。
「佐久間くん、ここに立って。目線はこの人」
「受け取って、少し驚いて、笑って」
「台詞は最後ね」
「……はい」
レンが紙袋を受け取る。
驚く。笑う。台詞。
『ありがとうございます』
声は、想像よりしっかり出た。
落ち着いてるのに、必要なところで届く声。
監督が言う。
「いいね」
「もう一回。同じで、笑いを少しだけ柔らかく」
レンは一拍置いて頷いた。
「……はい」
二回目。
今度は表情が少しだけほどける。
撮影が止まる。
「OK!」
レンが小さく息を吐いた。
その瞬間、浅野さんがレンの肩に近づいて、低い声で言う。
「今の、すごく良かった、“作ってない”のに伝わる」
レンが、ほんの少しだけ照れる。
「……ありがとうございます、浅野さん」
声量がちょっと上がりかけて、レンが自分で気づいて口を押さえる。
「……あ」
浅野さんは笑った。
「出ていい、現場は、届く声が正義」
レンが小さく頷く。
「……はい」
「天城くん、一つだけ。現場では“目線”と“呼吸”、それだけで画が変わる」
「分かった」
浅野さんは俺の顔を見て、ほんの少し笑った。
「……さすが、って言うのは早いか。でも、期待してる。次、天城くん」
呼ばれて前に出る。
撮影フロア。
セットはギフトカウンター。冬の装飾と紙袋。
スタッフの動きが速い。音が多い。けど、俺は落ち着く。
こういう空気は、知ってる。
小さい頃から、母さんの現場に何度もいた。
“邪魔にならない場所”と、“今は動くな”って空気の読み方を、体で覚えてる。
「次、天城くん行こう」
監督が呼ぶ。
俺は立ち位置のテープを見る。
足先を合わせる。肩の高さを揃える。
台詞は一言でも、ズレたら全部やり直しになる。そこは分かってる。
「天城くん、落ち着いた感じで。嬉しいけど、騒がない、受け取り方丁寧に」
「はい」
口から敬語が出た。
現場では、それが一番ラクだ。
紙袋を受け取る。
目線は相手役の目。
手の動きは、速すぎない。
『ありがとうございます』
一回目で、監督が手を上げた。
「いい……なんだけど、もうちょい“温度”が欲しい。言葉は変えない。目でやって」
「分かりました」
俺は一拍置く。
母さんがよく言ってたやつを思い出す。
――台詞じゃない。最初に息を変えろ。
息を少しだけ柔らかくする。
目の奥の力を抜いて、ほんの少しだけ笑う。
『ありがとうございます』
カット。
現場が静かになる一瞬があって、次に監督が言った。
「……OK。今の、すごい。台詞は同じなのに、受け取った“重さ”が変わった」
助監督が小声で言う。
「目、いいな」
浅野さんが、横で短く頷いた。
「ね」
監督が俺を見る。
目が、ちょっとだけ鋭くなる。探る目だ。
「天城くん……天城沙織さんの、息子さん?」
空気がまた一拍止まる。
俺は逃げずに言う。
「はい」
監督は笑った。
「そりゃ、分かるわ。“育ち”が現場の動きしてる。マークも見てるし、立ち位置がブレない」
「新人でそれ、なかなかいない」
俺は短く返す。
「……なんとなくです」
「それが才能って言うんだよ」
監督が言い切って、次の指示を出す。
「じゃあもう一回。同じで、最後の一瞬だけ“安心”を足して」
「渡す側が“この客に渡して良かった”って思う顔」
「はい」
二回目。
目線をほんの少しだけ落として、受け取ったあとに一拍だけ頷く。
『ありがとうございます』
「OK!」
監督が即答した。
「いい。抜けがない」
浅野さんが俺の横に来る。
「天城くん、今の完璧だった」
「……」
「褒めてるんだよ?」
浅野さんが笑う。
「ありがとうございます」
待ち時間。
レンと俺は控えスペースで水を飲んだ。
レンは落ち着いたまま、ぽつりと言う。
「……隼人、僕今日さ、“君はここで、こうして”って、ちゃんと役割を渡されたの初めて」
「そうか」
「……うん」
レンの声が、少しだけ弾む。
「なんか、嬉しい」
その言い方がレンらしい。
俺は短く言った。
「次もやれ」
「……やる」
昼過ぎ。撮影が巻いた。
浅野さんが俺たちを呼ぶ。
「二人とも、お疲れ。現場、すごく良かった、このCM関東一円で流れる。Webも回る」
レンが小さく息を吸う。
「……関東」
「うん」
浅野さんは淡々と続けた。
「だからって何か変わるわけじゃない、今の調子で積み上げるだけ」
俺は頷く。
「分かった」
浅野さんは俺を見る。
「天城くん、“沙織さんの息子”って看板は、勝手に付いてくる。でも今日のは、看板じゃない。実力」
俺は短く返した。
「……はい」
レンが俺を見て、少しだけ笑う。
「……隼人、すごかった。言われた通り、空気が変わった」
「見てたか」
「見てた」
レンの声が少しだけ上がる。
「……現場、楽しいかも」
「それでいい」
電車が揺れて、窓に景色が流れる。