家に帰ると、いつも通りの夜があった。
命は台所で湯を沸かしてて、恵はテーブルの上を整えてる。
俺が帰った気配に気づいて、二人とも顔を上げた。
「おかえりなさいませ」
恵が先に言う。今日は“九条の顔”じゃなくて、家の中の声だ。
「……おかえりなさい」
命も短く続ける。目が柔らかい。
「ただいま」
それだけ言って、鞄を置く。
現場の空気はもう抜けてる。いつもの俺に戻す。
命が湯呑みを差し出した。
「……温かいです。飲みますか」
「飲む」
口にすると、肩が少し落ちる。
今日のことは――当然まだ言わない。
恵がちらっと俺を見る。何か察してそうな目だ。
でも聞かない。恵もそういう距離の取り方ができる。
「……明日、学校のあとも予定がありますか」
命が聞く。
「ないと思う」
「……そうですか」
それ以上は詰めない。命らしい。
翌日。
放課後、レンと合流した。
レンはいつもより落ち着いてる。昨日を越えた顔だ。
レンは息を吐く。
「……隼人、現場また行きたい。でも、いきなり台詞増えるのは……まだ怖い」
「わかる」
レンは俺が同意したのが意外だったのか、目を瞬いた。
その時、スマホが震えた。
浅野さんからだ。
『二人とも今、話せる? 電話でいい』
俺はレンに見せる。
「浅野さん」
「……出て」
俺はその場で折り返した。
「もしもし。浅野さん」
『お疲れ。昨日の現場、評判よかった』
『特に天城くん。監督がべた褒め』
『で、次の話。天城くんに“台詞多め”の案件を持ってきた』
心臓が少しだけ跳ねた。
でも声は変えない。
「どんな」
『Webドラマ。全8話』
『準レギュラー。毎話出る。天城くん、今回の役は学園の“憧れ枠”』
『作品の中で、視線を集める位置に立つ、派手に動くより立ってるだけで画が持つ人が必要』
『あなたは、そこが強い。今週、顔合わせと軽い読み合わせ。行ける?』
俺は即答した。
「行く」
横でレンが息を止めたのが分かる。
『よし』
浅野さんの声が少しだけ笑ってる。
『で、佐久間くん。君は別で入れる』
『スチール撮影*1。ギフトのポスター素材。撮影一日』
『台詞なし。立ち位置と表情だけ。向いてるよ』
レンが小さく頷く。
電話越しに聞こえたのか、浅野さんが続けた。
『無理に合わせなくていい。二人は二人で積み上げる。大丈夫?』
レンが小さく言った。
「……大丈夫です、浅野さん」
『いい返事』
『詳細送る。天城くんは読み合わせの場所、佐久間くんは撮影場所』
『時間だけ守って。余計な心配はしないでいい』
「分かった」
『じゃ、また』
浅野さんは切った。
スマホの画面が暗くなる。
レンが、少しだけ声を落として言った。
「……隼人、準レギュラー、すごいね」
「やりたい」
俺が言うと、レンが笑った。
「……隼人は、そう言うと思った」
「本格的にやる」
言ってから、自分で思う。
これ、俺の中でちゃんと“欲しい”って感情だ。
レンは一拍置いて頷く。
「……僕は、スチールでいい」
「まず、上手く立つのを覚える」
「それでいい」
レンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……日和に何買うか、そろそろ決めないとね」
「最後はベッドで決めろよ」
「……うん」
レンの声が、ほんの少しだけ上がる。
「僕、ちょっと燃えてる」
「いいな」
俺は短く返して、歩き出した。
家に戻ると、命が本を読んでた。
恵はスマホで何かを調べてる。二人とも顔を上げた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
俺は水を一口飲んでから、言う。
「今週、予定入る」
命の指が一拍止まる。
でも表情は崩れない。
「……学校のあと、ですか」
「そう」
恵が目を細める。
「今週、放課後に用事がある。ふふ。隠している顔ですわね」
「勘がいいな」
「当然ですわ」
命は俺を見て、静かに言った。
「……無理は、しないでください」
「しない」
短く返す。
命は頷く。
「……はい」
恵が軽く息を吐いた。
「では、必要なものがあれば、言ってくださいませ」
「大丈夫だ」
俺は自室に戻って、浅野さんから届いた資料を開く。
Webドラマのタイトル。役の説明。スケジュール。
“準レギュラー”。
次の札が、もう手の中にある。
俺は、やる。
レンも、やる。
命の誕生日と、クリスマス。
恵のクリスマス。
その前に――俺は、もう一歩、進む。
机の上に、スマホを置く。
浅野さんからのメッセージが残っていた。
『ギャラは月末締め、翌月15日振込。明細は後で送るね』
画面を消して、資料を閉じる。
名前と時間と場所だけが、頭に残った。余計なことは考えない。
ドアの外から、足音。
命の気配は、静かだ。ノックも小さい。
「……隼人さん」
「どうした」
ドアを少し開けると、命が立っていた。
いつもの顔。整ってる。けど、目だけがこちらを確かめている。
「……お風呂、先に入ります」
「分かった」
命は頷いて、一拍置いてから言った。
「……帰りが遅くなる日、連絡は、いただけますか」
「する」
短く返すと、命の肩がほんの少しだけ落ちた。
安心の方に落ちる。
「……はい」
命はそれだけ言って、廊下を戻っていった。
俺はスマホを手に取って、カレンダーを開く。
水曜、放課後。
土曜、レンのスチール。
自分の予定は、必要な分だけ入れる。
通知がもう一つ増えた。レンからだ。
『隼人、日和にバレそう。どうしたらいい?』
俺は短く返す。
『顔に出すな、言うのは最後』
すぐに返事。
『……努力する』
レンらしい。
俺はスマホを伏せて、息を吐いた。
やることが増えると、余計なことが減る。俺はそっちの方がいい。
リビングに戻ると、恵がソファで本を閉じたところだった。
目が合って、恵が微妙に視線を逸らす。珍しい。赤いのが分かる。
「……」
「……」
黙ったまま、数秒。
恵が先に負けた。
「見ないでくださいませ」
「見てない」
「見ています」
「見てた」
恵が頬を押さえる。
「……昨日のこと、思い出すからですわ」
「俺も」
言った瞬間、恵が固まった。
そのあと、耳まで赤くなる。
ベッドの上で甘い言葉を投げかけたのだった。
「……あなた、ああいう事を、さらっと言うの、ずるいですわね」
「可愛かったから」
短く言うと、恵は小さく息を吐いた。
照れて、でも嬉しそうな息。
「命さん、どこまで察してますの?」
「詳しいことは聞かない」
「そう」
恵は本を抱え直す。
「家の中が整っているの、ありがたいですわ」
俺は頷く。
「崩さない」
その言葉に、恵が少しだけ笑った。
「では、わたくしも、崩しません」
真正面から言われると、妙に強い。
九条の強さじゃない。身内の強さだ。
浴室の方から、湯の音が聞こえる。
命が先に入ったらしい。
俺は立つ。
「俺も入る」
「……はい」
俺は浴室の前で止まって、スマホを取り出す。
浅野さんからのメッセージをもう一度確認して、画面を消す。
秘密は、守る。
でも、逃げない。
湯気の向こうに、家の温度がある。
俺はそれを崩さないまま――外で、もう一歩進む。