廊下セットの空気が、最後のテイクでふっとほどけた。
「カット。——OK。今日はここまで!」
助監督の声が走って、現場が一斉に動き出す。ライトが落ち、ケーブルが巻かれ、次の班が入る準備を始める。撮影の終わりは静かじゃない。けど、俺の中だけは静かになっていく。
監督が俺のところに来た。
「止める、余韻、導く、全部繋がった。君、盛らないのが強いな」
「ありがとうございます」
「礼はいい。次は別ロケ。今日みたいに“削る”で頼む」
浅野さんが横から紙を出す。
「次の予定。平日、放課後に軽い合わせが一回。土日はロケがもう一日」
俺は頷いた。
「撤収、押してますか。終わり、どのくらいですか」
浅野さんは手元の進行を見て答えた。
「予定より少しだけ。今から出れば、遅くてもこのくらい」
「分かりました。家に一言入れます」
「そうして。未成年なんだから、そこはちゃんとして」
スマホを取り出す。命に短く送る。
『今終わった。これから帰る。遅くなるけど戻る。』
送って、画面を伏せる。
帰り道、電車の窓に自分の顔が映る。
制服でも、セットでもない。いつもの俺に戻っていく途中の顔。
ポケットの中で、香盤の紙が少しだけ角を立てている。
今日撮ったのは、あのドラマの“始まり”だ。
主人公を止める。
説明しない。
導く。
短い台詞と、短い間。
それだけで成立するのが、怖いくらいに面白い。
スマホが震えた。
命
『はい。お疲れさまです。気をつけて。待っています。』
短い。けど、ちゃんと届く。
俺も短く返す。
『帰ったら言う』
家に着くと、玄関の灯りがついていた。
靴を脱いだ瞬間、廊下の奥から足音がする。
命が出てきた。表情は薄い。でも、目が真っ直ぐだ。
「……お帰りなさいませ、隼人さん」
「ただいま」
命の手が、俺の腕を探して、そっと添えられた。家の中でも自然になってる。
「お茶を、入れます」
「頼む」
台所の湯気が立つ。湯呑みが二つ、音を立てずに置かれる。
命は座っても、距離を詰めすぎない。ただ、視線だけは外さない。
「……今日の“用事”は、無事に済みましたか」
「ああ終わった」
短くても、ちゃんと“恋人の時間”になる。
そのとき、襖の向こうから澄乃さんの声がした。
「坊や、帰ったの?」
「はい。澄乃さん」
襖が少し開いて、澄乃さんが顔を出す。怖さはない。いつも通り柔らかい。
澄乃さんは命を見る。
「命、ちゃんと話せてる?」
「……はい。今、ちょうど」
「いいわね。続けなさい。私はそれで満足」
それだけ言って、澄乃さんは襖を閉めた。
音が静かで、優しい。
命が小さく息を吐く。
「……お婆様、嬉しそうでした」
「澄乃さんはそういう人だ」
「はい」
命は湯呑みを両手で包んで、言った。
「明日もちょっと行ってくる」
命が頷く。
「はい」
命の指先が、俺の袖を軽く摘んだ。引き留めるほど強くはない。けれど、離さない程度に確かめるみたいな力。
「……遅くなりますか」
「少し」
「……分かりました。では」
命は小さく息を吸って、言葉を整えた。
「無事、戻ってきてください」
「戻る」
命が、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……はい」
それだけで終わる。深掘りしない。約束だけ残す。
襖の向こうから、澄乃さんの声がやわらかく届いた。
「坊や。明日も頑張るのね」
「はい。澄乃さん」
「無理はしないでね」
「分かりました」
「うん。いい子」
声が消えて、家の静けさが戻る。
日曜の朝。土曜より少し遅い。外はもう明るい。
スマホが震える。
浅野
『本番(二日目)
集合 8:40/回し 10:00
教室セット→外観(校門前)
到着したら連絡』
俺は短く返す。
隼人
『了解。向かいます。』
玄関で靴を履くと、命が廊下の端に立っていた。起こしたくなくて音を立てないようにしてたのに、気づかれてる。
「……行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
命は頷く。昨日より言葉が少ない。心配を増やさない言い方。
「……帰宅の目安は」
「昼過ぎ。押したら連絡する」
「はい」
命は一歩だけ近づいて、俺の袖に触れない距離で止まる。
「……お気をつけて」
「分かった」
そのまま家を出る。空気が冷たい。頭が冴える。
スタジオは昨日と違うフロアだった。今日は教室セット。机が並び、窓の外の光も作られている。
浅野さんに到着だけ伝える。
「着きました」
「うん。今日は教室から。代理を引き受ける場面、分かりやすく撮る。君は“出番は短いけど空気を変える”カットが多い」
「了解」
監督が手を叩いた。
「二日目いくよ。今日は“輪の内側”の圧を見せる。主人公が代理として入ってくる、その瞬間の空気を作る」
主人公役が教室のドア前に立つ。緊張を隠す顔。
上位層の子たちが机の周りにいて、視線が揃っている。輪の中心は、椅子に座ったまま微笑む。
俺は教室の後ろ側。壁にもたれて、目線だけで存在感を出す位置。
派手な台詞はない。けど、ここで“俺がいる意味”が必要になる。
「よーい、スタート!」
主人公が入ってくる。言われた通り、代理の紙を握ってる。
「……あの、今日、代わりに来ました。一条透花さんに頼まれて……」
空気が止まる。
輪の中の誰かが、わざと遅れて笑う。
「へぇ。代理って、そういうのもアリなんだ」
主人公が言葉に詰まる。そこで、俺は動かないまま視線だけを上げる。
監督が求めてるのは、ここだ。
“輪”が崩れそうなときに、俺が線を引く。
短い台詞。
「……時間、無駄だ」
言い切って終わりじゃない。言い切った後の間で、教室の空気を戻す。
輪の中心の子が、ふっと笑って空気を受け取る。
「……そうだね。じゃ、始めよっか」
主人公が息を吸って、席に向かう。
「カット!」
監督が頷く。
「いい。今の“無駄だ”は効いた。押し付けじゃなく、線だけ引いてる。もう一回、寄りで」
寄り。逃げがきかない。
昨日と同じ。盛らない。削る。
「よーい、寄り……スタート!」
主人公の視線が揺れる。輪の圧が見える。
俺はそこに一言だけ落とす。
「……やるぞ」
導く側に切り替える。短く、迷わせない。
「カット。OK」
二日目も、積み上がっていく。
次は外観(校門前)。
“注目の輪”が外でも見える場面だ。
助監督が叫ぶ。
「外観いきます! 移動! 段取り早く!」
俺はジャケットの襟を整えて、外の光の中へ出た。
昨日より、少しだけ風が強い。
でも、役の芯は変わらない。
止める。
余韻を残す。
導く。
その繰り返しで、二日目も進む。