白石さくらが高瀬紡ぎ役
土曜の朝。外はもう明るい。
玄関で靴を履いていると、命が廊下の端に立っていた。恵も一緒だ。いつもの並び。
「……行ってらっしゃいませ、隼人さん」
「行ってくる」
恵がきっぱり言う。
「帰りの目安だけは送ってくださいませ」
「分かった」
命が一拍置いて頷く。
「……無理は、しませんように」
「しない」
短く返して、外に出る。
門を出たところでスマホが震えた。
浅野
『本番(土)
集合 8:20/回し 9:30
場所:廊下セット→階段セット
小道具あり
到着したら連絡』
隼人
『了解。着いたら送る』
そう返して、歩幅を上げた。
スタジオに着くと、昨日より空気が速い。準備が進んでいて、スタッフの声が迷わない。
浅野さんに顔だけ出す。
「着きました」
「うん。今日は“走り”が多い。水を飲むの忘れないで」
「了解」
廊下セットに入ると、白いテープが床に貼られている。俺の位置、紡の位置、透花の位置。カメラの位置も決まってる。
監督が俺を見て言った。
「瀬良、今日は言葉を少し増やす。説明はしないでいい。止める言葉だけ」
「分かりました」
「紡は焦る。透花は中心で動かない。瀬良が“行く方向”だけ作る」
「了解」
助監督が声を張る。
「廊下、走りいきます! よーい!」
「スタート!」
高瀬紡役――白石さくらさんが封筒を抱えて廊下に出る。足音が速い。追いかけるのは視線だ。
前から取り巻き役の子が二人、わざと立つ。通れる幅が一気に狭くなる。
「急いでるね。代理さん」
白石さんが足を止める。迷いが顔に出る。
俺は前に出ない。距離は保ったまま言う。
「止まるな」
白石さんが俺を見る。
「……はい」
「右」
言葉はそれだけ。
白石さんが右へ避けて通る。取り巻きの子たちが一瞬だけ押し黙る。
その後ろで、透花役の中田涼子さんがゆっくり出てくる。笑ってる。笑ったまま、空気を握る。
「瀬良くん、優しい」
「優しくない」
俺は短く返す。
「遅れる方が困る」
透花が笑う。
「それを優しいって言うの」
「カット!」
監督がすぐ言った。
「いい。今の『止まるな』効いた。もう一回。瀬良は声をもっと落とす。強くしない」
「了解」
二回目。
「スタート!」
同じ流れ。
同じ場所。
でも、間が違う。
白石さんが止まりかける。
「止まるな」
声を落とす。押しつけない。
白石さんが迷わず動く。
「右」
白石さんが息を吸って、右へ抜ける。
「カット。OK!」
監督が頷いた。
「それ。瀬良は“言わないのに決める”が強い」
助監督が叫ぶ。
「次、階段セット! 移動!」
階段セットは狭い。人が集まるほど息が詰まる。
だから、紡の焦りも、透花の余裕も映る。
監督が言う。
「ここは透花が封筒の意味を出す。瀬良は言葉で守らない。方向だけ」
「分かりました」
白石さんが封筒を握り直す。
中田さんが軽く言う。
「いこ。紡ちゃん」
「はい」
助監督の声。
「よーい!」
「スタート!」
紡が階段を上がってくる。取り巻きが下で笑う。
「それ、大事なやつじゃん。落としたら最悪だね」
紡の指が強くなる。
透花が上から言う。声は柔らかい。
「落とさないでね。紡ちゃん」
紡が頷く。
「……はい」
紡が曲がり角で迷いかける。
俺は一歩だけ近づいて言う。
「違う。こっち」
紡がすぐ向きを変える。
「……分かりました」
「カット!」
監督が頷いた。
「OK。今の『違う』いい。瀬良が“正解だけ渡す”感じが出てる」
現場が少し緩む。スタッフが次の準備に入る。
浅野さんが近づいてきた。
「このあと外観、数カット。終わりは夕方」
「了解。帰りの目安、送っとく」
「うん。助かる」
俺はスマホを出して、短く送る。
隼人
『今日は夕方まで。終わったら連絡する。』
返信はすぐ来た。
命
『はい。お帰りを待っています。』
短い。
でも、それで十分だ。
俺はポケットにスマホを入れて、白いテープの上に戻った。
土日の撮影は続く。カットは積み上がる。
止まるな。
違う。こっち。
言葉を増やしても、やることは同じだった。
外観のセットに移る。校門前。夕方の光を作るために、照明が少しだけ色を変えている。
「外観、いきます!」
助監督の声が走る。
「透花、先。取り巻き、揃えて。紡、少し遅れて出る。瀬良は横切りで空気を変える」
監督が俺を見る。
「瀬良。台詞は一言だけ。短く。強くしない」
「分かりました」
白石さくらさんが小さく息を吸って、位置に立つ。
中田涼子さんは笑ってるのに、中心の距離が崩れない。
「よーい」
「スタート」
透花が門を出る。取り巻きが綺麗に揃う。
その後ろから、紡が出る。提出を終えたはずなのに、まだ落ち着かない顔。
視線が集まる。
集まるだけで、歩きづらくなる。
紡が一瞬だけ立ち止まりかけた。
俺は横切りながら言う。
「止まるな」
それだけ。
紡が息を飲んで、足を出す。
透花が振り返らずに言う。
「紡ちゃん、遅いよ」
責めてるようで、責めてない。中心の言い方だ。
「……すみません」
紡が小さく返す。
取り巻きが笑う。
「代理って忙しいね」
透花が笑って切る。
「うん。忙しい方が、使えるでしょ」
軽いのに鋭い。
空気が一瞬で静かになる。
「カット!」
監督が頷いた。
「いい。今の透花の『使える』、強い。瀬良の『止まるな』も効いた。もう一回、寄り」
寄りになると、逃げがなくなる。
俺は言葉を減らす。目線を増やす。
「よーい、寄り!」
「スタート!」
紡の足が迷いかける。
俺は横切りながら、声を落として言う。
「……行け」
紡が頷く。
自分で動いたみたいに見える。
「カット。OK!」
監督が手を上げた。
「ラスト、歩きだけ。台詞なし。透花の抜けと、紡の遅れと、瀬良の横切り。三人の距離で見せる」
「了解」
「よーい」
「スタート」
透花が先に抜ける。取り巻きが半歩遅れて揃う。
紡は少し遅れて出てくる。提出を終えたはずなのに、まだ視線の重さが残っている。
俺は横を通るだけ。
言葉は使わない。
紡の足が、止まりかける。
その瞬間だけ、俺は視線を落とす。
止めない。触れない。
ただ、先に歩く。
紡が一拍遅れて、足を出す。
自分で越えたみたいに見える。
「カット!」
監督が頷いた。
「OK。——今日はここまで!」