監督が俺を呼ぶ。
「今日は瀬良を一段進める」
「止めるだけじゃない。紡を“通す”。線の向こうへ置く」
「分かりました」
「台詞は増やす。短いまま、決める言葉」
監督が紙を見て言った。
「『ここは通る。俺が言う』」
俺は頷いた。
「言える」
「段取りいきます!」
助監督が声を張る。
白石さくらさんが廊下の端に立つ。
今日は走らない。歩く。視線の中を。
中田涼子さんは少し離れた位置。
中心は中心の距離のまま、噂を見下ろす側にいる。
「よーい」
「スタート」
廊下。
紡が歩く。手元は空。
提出は終わった。でも、空気は終わってない。
前から、別のクラスの女子が二人来る。
声は小さい。でも、聞こえる。
「ねえ、あの子じゃない?」
「透花の“代理”の」
紡の肩が一瞬だけ固くなる。
歩幅が乱れそうになる。
そこへ、注目グループ側の子がわざと大きめに言う。
「代理が調子乗ったらしいよ」
「瀬良くんが庇ったって」
視線が集まる。
紡が足を止めそうになる。
俺は廊下の横から出る。
止めるためじゃない。通すために。
紡の横に並ぶ。半歩前。
俺は前を見たまま言う。
「ここは通る」
廊下の空気が止まる。
誰かが笑う。
「瀬良くんが言うなら、特別?」
俺は視線を動かさずに返す。
「特別じゃない」
「俺が言う」
短い。
でも、その二行で、線が引き直される。
紡が息を吸って、足を出す。
止まらない。
後ろで、透花が笑う声がする。
「……瀬良くん、強いね」
俺は返さない。
返すと空気が揺れる。今は揺らさない方がいい。
紡が小さく言う。
「……ありがとうございます」
俺は同じ速さのまま言う。
「前見ろ」
「はい」
それだけでいい。
「カット!」
監督が頷いた。
「いい。今の瀬良の二行で、紡が“外側じゃない”になる」
「もう一回。瀬良は声をさらに落とす。強さを見せない」
「了解」
二回目。
「スタート」
噂が飛ぶ。視線が刺さる。
紡が乱れそうになる。
俺は並んで言う。
「ここは通る」
間を置いて。
「俺が言う」
紡が頷いて、歩く。
自分で越えたように見える。
「カット。OK!」
監督が手を上げた。
「今ので決定。次、外観で締める。噂が校門まで出る」
助監督が叫ぶ。
「外観、移動!」
外観(校門前)。
人の数が増える。
噂は教室だけじゃ終わらない。外に漏れて、視線の数になる。
「よーい」
「スタート」
透花が中心のまま歩く。
紡が少し遅れて付く。もう逃げない顔。
俺は横切りで入る。
今日は止めない。通す。
紡が門をくぐる瞬間、誰かが言う。
「代理、もう代理じゃなくない?」
笑い声が混じる。
俺は横を通りながら、短く言う。
「気にするな」
紡が頷く。
「……はい」
透花が振り返らずに言った。
「紡ちゃん。次、こっち」
紡が迷わず動く。
中心の指示を受けてるのに、もう“従ってるだけ”には見えない。
「カット!」
監督が頷いた。
「OK。これで“転”が回った。次が決着だ」
撤収の声が上がる。
俺は水を受け取って、一口飲む。
浅野さんが近づいた。
「今日の瀬良、よかった。言葉が増えたのに、キャラが壊れてない」
「必要なら言う」
「そのままで。次でクライマックス」
「了解」
命に連絡を送る
スマホが震える
『お疲れさまです。温かいものを用意しています』
短い。
でも、それで十分だ。
俺はポケットにスマホを入れて、帰り支度を始めた。
次で、線を越える。今度は“戻れない”方へ。
撤収が始まると、現場の人の動きが一気に現実に戻る。
照明が落とされ、テープが剥がされ、カメラがケースに収まっていく。さっきまでの廊下が、ただのスタジオの通路になる。
白石さくらさんが、壁の方に寄って小さく息を吐いた。
「……疲れますね」
「疲れる」
俺は短く返す。
白石さんが笑った。
「でも、楽しいです。怖いけど」
中田涼子さんが水を持ってきて、白石さんに渡す。
「怖い時は、怖い顔していいんだよ」
「怖い顔、できるかな」
中田さんが軽く肩をすくめる。
「できるよ。今の廊下、ちゃんと出てた」
白石さんが少しだけ目を丸くする。
「出てました?」
「出てた」
俺も言った。
「止まりかけたところ、ちゃんと踏ん張ってた」
白石さんは一拍置いて頷く。
「……ありがとうございます」
ああいう場面は、褒め言葉が効く。
でも、言い過ぎると軽くなる。だから短く、確実に。
監督がスタッフと話しながらこちらを見た。
「天城君、最後の外観の『気にするな』、よかった」
「了解です」
「次、決着は教室で撮る。瀬良は“言うべき一言”が来る」
監督はそこまで言って、少しだけ間を置いた。
「増やすけど、長くしない。短いのに、逃げ道を塞ぐ一言」
「分かりました」
浅野さんが横で頷く。
「今日はこのあと、簡単にカメラテストだけやって終わり。立ち位置確認だけ」
「了解」
カメラテストはあっさり終わった。
教室セットに戻って、机の配置と、目線の高さと、距離を確かめるだけ。
助監督が声を張る。
「本日、全行程終了! 忘れ物確認! お疲れさまでした!」
「お疲れさまでした」
現場の声が揃って返る。
中田さんが俺に軽く手を振った。
「ハヤトくん、また来週」
「よろしくお願いします」
白石さんも頭を下げる。
「またお願いします」
「お疲れ」
俺は短く言う。
浅野さんがスマホを見ながら歩いてきた。
「帰り、混みそう。駅まで一緒に出る?」
「出ます」
「よし。じゃ、外で」
スタジオの外に出ると、空気が冷たかった。
息を吐くと白い。現場の熱が、体の外へ抜けていく。
浅野さんが歩きながら言う。
「今日の瀬良、良かった。噂を止めるんじゃなく、通した」
「止めても増える」
「そう。だから通した」
浅野さんは少し笑った。
「君の役、そういう理屈が似合う」
「俺も、そう思う」
浅野さんが横を見る。
「明日、家で台本読める?」
「読める」
「じゃあ、次の山の台詞だけ送る。短いから」
「了解」
浅野さんはそれ以上は言わない。
管理者として必要なことだけ言って、あとは任せる。それが浅野さんのやり方だ。
駅のホームで、スマホが震えた。
命からのメッセージが、もう一通増えている。
命
『恵さんも一緒におります。お帰りの時間が分かりましたら、教えてください』
恵もいる。いつもの形だ。
俺は短く返す。
隼人
『今電車。着いたら送る』
送って、画面を伏せる。
周りの乗客の顔を見ない。今は役じゃない。役の視線は、現場に置いてきた。
揺れる車内で、俺は今日の台詞を思い出す。
「ここは通る」
「俺が言う」
言葉は短い。
でも、あれは“守る”の形だ。
次はもっと決定的になる。
紡が自分で越える。透花が迷いを捨てる。瀬良が一言で押す。
その一言は、まだ知らない。
知らないけど、分かる。
次がクライマックスだ。
最寄り駅に着いた。
改札を抜けて、冷たい空気の中を歩く。
門が見えたところで、スマホがまた震える。恵だった。
恵
『今、玄関に灯りを点けましたわ。足元にお気をつけて』
俺は短く返す。
隼人
『分かった』
門をくぐる。
線のこちら側へ戻る。
次に越える線が、もう見えているのに。
今は、帰る。今夜は、温かいものを食べる。
それで十分だ。