教室の山を回収した翌週。
スタジオに入った瞬間、空気が少し硬いのが分かった。
噂のシーンは、現場の外にまで伝染する。
演技じゃなく、空気として。
浅野さんが俺に寄って言う。
「今日が決着。外で刺す。廊下と外観で締める」
「了解」
「台詞は最後に一行だけ。増やす。でも長くしない」
「分かった」
廊下セット。
床の白い線が目に入る。立ち位置のテープ。
撮影用の線なのに、作品の白線に見える。
監督が言う。
「紡はもう迷わない。透花は認めた。でも、中心であることは変えない」
「瀬良は、今日は“止める”じゃない。線を越えさせる」
「よーい」
「スタート」
紡が廊下を歩く。
中心グループの隣に座った翌日だ。だから視線の質が変わっている。
小声が飛ぶ。
「ほんとに、席できたんだ」
「透花が認めたって」
別の小声が刺さる。
「でも、結局さ」
「瀬良が言ったから通れたんでしょ」
紡が一瞬だけ足を止めかける。
その言葉は、紡の努力を否定する形になるから。
透花が少し離れた位置で歩いている。
中心の速度。振り返らない。
紡は、息を吸う。
止まらない。止まらないまま、言葉だけ出す。
「違う」
声は大きくない。
でも、廊下の空気が変わる。
「私が決めた。ここでやるって」
周りが静かになる。
噂は騒ぐほど弱くなる。
そこで、透花が初めて足を止めた。
振り返って、紡を見る。
透花の顔は笑っていない。
中心の顔で言う。
「聞こえた?」
取り巻きたちが固まる。
「私が言った」
「紡ちゃんは、ここ」
短い。
中心が決める声は、言い訳がない。
紡は透花を見て、頭を下げない。
代わりのままじゃ終わらない姿勢のまま、頷く。
「はい」
透花が小さく笑う。
「行こ」
「はい」
それで充分なはずなのに、最後の一刺しが来る。
廊下の端から、誰かが言う。
「瀬良がいなかったら、どうしてたの?」
空気が止まる。
紡の指先が、ほんの少しだけ揺れる。
ここだ。
ここが、瀬良一の最後の役目。
俺は壁際から出る。
紡の隣には立たない。半歩前に出る。
視線をその声の方へ向けて、言う。
「俺がいなくても、同じだ」
間を置く。
「紡が決めたから」
それだけ。
短いのに、逃げ道が消える。
噂の居場所がなくなる。
紡が息を吐く。
その息が、初めて“自由”に見えた。
「カット!」
監督が手を上げる。
でもすぐには笑わない。余韻を壊さないためだ。
「……OK」
その一言で、現場がほどける。
外観のラストカットは台詞なしだった。
透花が先に抜ける。
紡が遅れずに並ぶ。
俺が横切る。
紡は止まらない。
誰の声にも引っ張られない。
「カット。OK! オールアップ!」
助監督が叫ぶ。
「オールアップです! お疲れさまでした!」
拍手が起こる。
大きすぎない拍手。ちゃんと温度のある拍手。
白石さくらさんが目を潤ませる寸前で笑った。
「……終わった」
「終わった」
俺は短く返す。
「お疲れ」
中田涼子さんが軽く頷く。
「いい終わり方だったね」
「はい」
現場の外に出たら、また別の線が待ってる。
でも、作品の線は、ちゃんと越えた。
拍手が落ち着いても、現場の熱はすぐには引かない。
助監督が声を張る。
「オールアップ、段取りいきます! 集合写真、先に撮ります!」
スタッフが忙しく動き出す。ケーブルが巻かれて、照明が落とされて、さっきまでの廊下がただのセットに戻っていく。
白石さくらさんが、俺の方に小さく近づいてきた。
「ハヤトくん」
「ん」
「最後の『紡が決めたから』、助かりました。私、あそこ、目が泳ぎそうだった」
俺は短く言う。
「泳がなかった」
白石さんが笑う。
「……言い方が、瀬良だ」
中田涼子さんが、後ろから合流してきた。
「二人ともお疲れ。いい締まり方だったね」
「お疲れさまでした」
白石さんが頭を下げる。
「お疲れ」
俺も短く返す。
中田さんが俺を見る。
「ハヤトくん、台詞増えても、変わらないのすごい。変に説明しないで、ちゃんと決める」
「必要なとこだけ言う」
「うん。それ」
監督がこちらに歩いてきて、手を上げた。
「三人、集合写真の前に一言。今日のラスト、良かった」
「ありがとうございます」
「透花の『私が言った』、あれが中心」
監督は中田さんを見る。
「紡の『私が決めた』、あれが主人公」
白石さんが小さく息を吐く。
「よかった……」
「瀬良は最後、二行」
監督が俺を見る。
「一行目で空気止めて、二行目で回収した。あれで噂が死んだ」
「了解です」
監督が頷く。
「いい。じゃ、写真行こう」
集合写真は、笑顔が多すぎない。
でも、空気は明るい。
「はい、寄ってください!」
カメラマンの声。
肩が触れる距離に人が並ぶと、現場って同じ方向を向いてたんだと分かる。
「いきます、せーの」
シャッターの音。
「ありがとうございました!」
また拍手が起きる。今度はさっきより軽い。
廊下を抜けて更衣室の方へ向かう途中、浅野さんが追いついた。
「ハヤトくん」
「はい」
「今日で教室と廊下、区切り」
「次は別の場所。話は続くけど、山は一回越えた」
「分かった」
「帰りの時間、家に送って」
浅野さんは淡々と言う。
「急に流れるものがあると、驚くから」
「分かった」
浅野さんが少しだけ口元を緩めた。
「……ギフトのCM、少し前から出てる」
「知ってる」
「現場でも何人か見たって言ってた」
浅野さんは小さく肩をすくめる。
「有名になるとかじゃない。『あ、見たことある』が増えるだけ」
「それでいい」
「その温度で行こう」
更衣室の前で、中田さんが白石さんに声をかけた。
「さくらちゃん、帰り大丈夫?」
「大丈夫です。電車で帰れます」
「無理しないでね。こういう回のあと、変に疲れが来るから」
「はい」
白石さんが頷いて、俺の方を見る。
「ハヤトくんも、ちゃんと食べてね」
「食べる」
「短っ」
白石さんが笑って、少しだけ安心した顔になった。
私服に戻って、スタジオを出る直前。
スタッフの一人が俺に軽く会釈した。
「お疲れさまでした」
「さっきの二行、気持ちよかったです」
「お疲れ」
俺はそれだけ返す。
こういう時、長く話すと軽くなる。短い方がいい。
外に出る。冷たい空気が俺の頬を撫でた。