リビングへ行く前に、俺は一度、廊下で足を止めた。
俺は執事室の方へ向かって声を掛ける。
「渡会さん」
すぐに足音が来る。
「はい、隼人さま」
渡会風香さんが一礼した。
背筋が真っすぐで、目線は落ち着いている。いつも通りだ。
「メイドの皆さん集めてください」
「承知いたしました」
渡会さんが手短に合図を出すと、執事とメイドの皆さんが静かに揃った。
人数が増えても、廊下の空気は乱れない。
俺は用意していた包みを並べる。
ハンカチとマフラー。色味だけ、少しずつ違う。
「皆さんに」
俺は言う。
「これ。使ってください」
一人ずつ受け取って、頭が下がる。
「ありがとうございます、隼人さま」
声は揃っているのに、機械じゃない。
手の取り方が丁寧で、ちゃんと“受け取った”って分かる。
「寒いから」
俺は短く続ける。
「無理しないで」
「はい」
返事が静かに返ってきて、皆さんは一礼して下がっていく。
廊下が少しだけ広くなった。
残ったのは、渡会さんだけ。
俺は小さな箱を一つ、手元に残していた。
他と同じ包みじゃない。音も出さない。
「渡会さん」
「はい、隼人さま」
渡会さんもハンカチとマフラーがあるけど、それだけじゃない
俺は小さな箱を一つ差し出す。
包みの角は崩れていない。渡す前から、もう“丁寧”になってる。
「これ」
「使ってください」
渡会さんは受け取る。
表情は変わらない。目元も口元も、いつも通りだ。
「……私に、でございますか」
「渡会さんが御堂家を回してくれてる。凄く助かってます」
渡会さんは一拍置く。
その“間”だけが、普段より長い。
「恐れ入ります」
声も崩れない。
でも、箱を持ち直す指が一度だけ丁寧になる。
爪が当たらないように、角を避ける。そういう触り方。
渡会さんは箱を開ける。
中は細身の万年筆。余計な飾りがない、仕事の道具。
渡会さんの呼吸が、少しだけ浅くなる。
表情は変わらない。
なのに、空気が変わったのが分かる。
「名入れはしてない。個人名は仕事上邪魔になるかもしれないから」
「……はい」
渡会さんが言う。
「承知いたしました。大切に使います」
言葉は事務的なのに、箱を閉じる動きがやけに慎重だ。
閉じたあと、もう一度だけ手のひらで重さを確かめる。
必要以上に。
「この家の手順は、私が守ります」
渡会さんが言った。
「隼人さまが迷わないように」
「うん」
俺が短く返すと、渡会さんは一礼する。
深くも浅くもない。いつもの角度。
でも、違う。
“礼”じゃなくて、何かを決めた一礼だ。
仕事の熱が、静かに芯へ入った感じ。
俺が歩き出すと、背中に声が届く。
「……ありがとうございます」
渡会さんが言う。
「大切に使います」
丁寧すぎない。
でも、軽くもない。
そのまま俺はリビングへ向かう。
振り返らなくても分かる。渡会さんは、いつも通り立っている。
いつも通りの顔で、静かに喜んでいる。
廊下の端で渡会さんに渡してから、俺はリビングへ戻った。
扉を開ける前に、声が聞こえる。
千佳の声だ。
弾んでる。
「見て見て!」
千佳が言う。
「これ、限定色なんだって! やばくない?」
俺が入ると、千佳はすぐに振り向いた。
手にしているのは恵からもらったペン。箱も綺麗で、光り方が上品だ。
「ハヤト兄!」
千佳が言う。
「これ、すごいよ! 書き心地もいいやつだって!」
「落ち着け」
「落ち着いてる!」
千佳は勢いよく言って、すぐ姿勢を正す。
「……落ち着いてます!」
綾乃さんが笑った。
「かわいいですね」
恵が微笑む。
「良い反応ですわ」
由紀子姉さんが淡々と言う。
「声は大きい」
「大きくない!」
千佳が言い返してから、周りの視線に気づく。
咳払いして、声量を下げた。
「……大きくない、です」
そのやり取りだけで、部屋が少し暖かくなる。
澄乃さんが楽しそうに言った。
「千佳は、嬉しいと声が先に出るのねえ」
「出る!」
千佳が頷く。
「だってさ、かわいいのにちゃんとしたやつなんだよ!」
千佳はペンを大事そうに握って、机の上のメモに試し書きを始めた。
文字が丸い。書きながら、にやにやしている。
「うわ、すべる……!」
千佳が言う。
「これ、私、テスト全部これで書く!」
「全部はだめ」
由紀子姉さんが淡々と言う。
「鉛筆指定がある」
「そこ、現実!」
千佳が口を尖らせる。
でもすぐに笑って、また書き始めた。
綾乃さんが千佳の頭を撫でる。
「嬉しそうですね」
「ちゃんと大事にしてね」
「する!」
千佳が頷く。
「これ、宝物にする!」
恵が上品に言った。
「宝物は、扱い方が出ますわ」
「雑にすると、宝物の方が逃げますの」
「逃げない!」
千佳が即答して、ペンをそっと置き直す。
置き直し方が不自然に丁寧で、綾乃さんと沙織と澄乃さんが同時に笑った。
俺はその三人を見て言う。
「……今親三人みたいな顔してる」
綾乃さんが少し照れる。
「三人って言われると、ちょっと照れます」
母さんが笑う。
「まあ、でも……悪くないかも」
「そうねぇ」
澄乃さんも頷く。
「千佳が嬉しいのが、何よりですわ」
千佳はペンを眺めながら、ふと思い出したみたいに言った。
「命姉にも見せた!」
「命姉、すごいって言ってた!」
命が小さく頷く。
「……はい」
「とても、良い色です」
千佳が満足そうに笑った。
俺はその様子を眺めて、肩の力を抜く。
騒がしいのに、うるさくない。
こういう団らんは、長くなくていい。
短くて、ちゃんと温かいのがいい。
千佳の笑い声を聞きながら、俺は包みの残りを指先で確かめた。
次の順番が、頭の中で整っていく。
渡す。
慌てない。
今日の中心へ、ちゃんと辿り着く。