年末の夜は、家の中の音まで静かになる。
時計の針が進む音が、いつもより近い。
キッチンの方から、湯気の匂いが流れてきた。
醤油の香り。だしの香り。そこに、炭のような香ばしさが混じる。
渡会風香が盆を持って現れる。
大きめの器が人数分。湯気が立っている。
「年越しそばをご用意いたしました」
渡会風香が言う。
「温かいものです」
「地鶏を入れております」
「地鶏」
沙織が言う。
「勝ち確じゃないですか」
「沙織さん」
由紀子姉さんが言う。
「日本語」
「勝ち確は日本語よ」
沙織が即答する。
「ほら、今の子使うでしょ」
由紀子姉さんが淡々と言った。
「千佳が真似する」
「真似する!」
千佳が言った。
すぐ声を落とす。
「……真似しません!
「よろしいです」
陽菜乃さんが言う。
丁寧な口調なのに、止める力がある。
「まずは、いただきましょう」
「はい」
綾乃さんが丁寧に言う。
「皆さま」
「熱いのでお気をつけくださいね」
椀が並ぶ。箸が揃う。
家の手順が、静かに整っていく。
「坊や」
澄乃さんが言う。
「一番熱いの、取っちゃだめよ」
「取らない」
俺が言う。
「命が取る」
「……取りません」
命が言う。
でも、俺の器の位置を少しだけ直す。
恵が器を覗き込んだ。
「香りが良いですわ」
恵が言う。
「地鶏の脂が、出汁を邪魔せず厚くしています」
「」
「説明がうまい」
沙織が言う。
「食レポできるじゃん」
「褒め言葉として受け取りますわ」
恵が上品に返す。
全員が揃ったのを見て、綾乃さんが言う。
「では」
「いただきます」
「いただきます」
声が重なる。
静かに箸が動き始める。
俺は一口すすった。
だしが先に来る。甘すぎない。濃すぎない。
次に地鶏の香ばしさが追いかけてきて、喉の奥でほどける。
鶏の身は柔らかい。
噛むと旨味が出て、そばの香りが立つ。
温かいのに、重くない。
「……おいしい」
命が小さく言った。
声は抑えてるのに、はっきりしてる。
「でしょう」
綾乃さんが丁寧に言う。
「風香さんがだしを整えてくれました」
「ありがとうございます」
命が言う。
短いけど、ちゃんと届く言い方。
「恐れ入ります」
渡会風香が一礼する。
表情は変えない。
でも、動きが少しだけ柔らかい。
「うまっ」
千鶴さんが言って、はっとする。
「……おいしいです!」
「よろしいです」
陽菜乃さんが頷く。
「ただ、急いで食べてはいけません」
「はい!」
千鶴さんが即答する。
その直後、すすってむせる。
「……っ」
「千鶴」
綾乃さんが言う。
「落ち着いてくださいね」
「はい、お母様」
千鶴さんが頷いて、水を飲む。
澄乃さんが楽しそうに笑った。
「ふふ、年越しらしいわねえ」
千佳が言う。
「むせるのが年越し?」
「違うわよ」
澄乃さんが言う。
「揃って食べてるのが、よ」
その言葉が、意外とまっすぐだった。
俺はもう一口すすって、湯気を吸う。
陽菜乃さんが箸を置いて言った。
「お母様」
陽菜乃さんが言う。
「今年も、お疲れさまでした」
「陽菜乃」
綾乃さんが丁寧に返す。
「あなたも、です。よく頑張りましたね」
「ありがとうございます」
陽菜乃さんは頭を下げる。
丁寧なのに、温度がある。
「ハヤトさん」
恵が言う。
「今年」
「色々ありましたわね」
「うん」
俺が短く返すと、恵は上品に微笑んだ。
「来年は」
「もう少し、整えていきましょう」
「整えるって言い方、好きだな」
俺が言う。
「性分ですわ」
「九条家の血?」
沙織が言う。
「血って言い方」
由紀子姉さんが言う。
淡々と釘を刺す。
「じゃあ、育ち」
沙織が言う。
言い直しが早い。
「環境が、人を作るでしょ」
「恵は、それが上手い」
「それなら、まだ分かる」
由紀子姉さんが言う。
俺は器を持ち上げて、最後のだしを飲む。
地鶏の旨味が残って、体の芯まで温かい。
箸を置く音が、あちこちで小さく重なる。
こたつの中の熱が、ゆっくり上がってくる。
「おかわり、ある?」
沙織が言う。
「あります」
渡会風香が言う。
「少しだけ、残しております」
「少しだけか」
沙織が言う。
「じゃあ、勝負じゃん」
「沙織さん」
由紀子姉さんが言う。
「勝負にしないで」
「冗談」
沙織が即答する。
「勝負にしたら、千佳が泣く」
「泣かない!」
千佳が言った。
すぐ声を落とす。
「……泣きません!」
「よろしいです」
陽菜乃さんが言う。
「年の瀬です」
「争いは控えましょう」
「争いって言い方」
沙織が言う。
「平和なのに」
千鶴さんがそっと手を挙げた。
「私」
千鶴さんが言う。
「おかわり、欲しいです」
由紀子姉さんが言う。
「量を言え」
「えっと」
千鶴さんが言う。
「……少し!」
「少しだな」
千鶴さんが頷く。
嬉しそうに頷きすぎて、首が早い。
綾乃さんが丁寧に笑った。
「では」
綾乃さんが言う。
「風香さん」
「少しずつ、よそいましょう」
「承知いたしました」
渡会風香が言う。
器を受け取る手が、静かに正確だ。
恵が湯呑みを持つ。
「年越しは」
恵が言う。
「食べた後が、一番気が緩みますわ」
「緩んでいい日だろ」
俺が言う。
「そういう話です」
恵が上品に返す。
否定じゃない。念押しだ。
「命様」
渡会風香が言う。
「おかわりは、いかがなさいますか」
「……少しだけ」
命が言う。
「ありがとうございます」
渡会風香が頷いて、器を受け取る。
澄乃さんが俺を見る。
「坊や」
澄乃さんが言う。
「ちゃんと、噛んで食べてる?」
「食べてる」
俺が言う。
「噛んでる」
「ふふ」
澄乃さんが笑う。
「じゃあ安心」
千佳がみかんの籠に手を伸ばして、皮を剥き始めた。
こたつの上に、橙色が増える。
「ねえ」
千佳が言う。
「年越したらさ、宿題やる」
「えらい」
沙織が言う。
綾乃さんが丁寧に言う。
「千佳は、やると言ったらやります」
「……やる」
千佳が言った。
すぐ声を落とす。
「……たぶん」
「たぶんを消しなさい」
陽菜乃さんが言う。
丁寧なのに、逃げ道がない。
「はい!」
千佳が即答する。
陽菜乃さんが箸を置いて、改めて周りを見る。
こたつの端から端まで、人がいる。
それを確かめるみたいに、一人ずつ視線が滑る。
「こうして揃うのは」
陽菜乃さんが言う。
「やはり、良いものですね」
「でしょ」
沙織が言う。
軽いのに、ちゃんと同意の声。
「揃ったら、なんか勝てる気がする」
「何に」
由紀子姉さんが言う。
「来年に」
沙織が言う。
言い切りは短い。
命が小さく頷いた。
「……はい」
「来年も」
命が言う。
「一緒に、過ごします」
その言葉が落ちると、部屋の温度が少しだけ上がった気がした。
俺は命を見る。命は視線を逸らさない。
「うん」
俺は短く返す。
年越しそばの湯気が、まだ消えない。
こたつの中で足が当たって、すぐ引く。
それが変にくすぐったい。
外は冬だ。
でも、家の中は温かい。
だから、次の年も行ける。