読み合わせから数日。
放課後の短い打ち合わせと、週末の準備が積み重なっていった。
スーツ合わせ。
腰のベルト位置。首元の影。袖の長さ。
鏡の前で、スタッフが遠慮なく直していく。
「ハヤト君、こっち、もう少しだけ詰めるね」
「はい。お願いします」
アクションの基礎は、派手な技じゃなかった。
立ち方。視線。重心。息。
“参謀”は、動きが少ない分、全部が目立つ。
「止まる時、足を鳴らさないで。音が出るとね、強さが軽く見えるの」
アクション班の女性が言う。
「承知しました」
声のトーンの確認もあった。
大きくしない。届ける。
怒鳴らない。切る。
「そこ、最後の一音だけ落として。怖くじゃなくて、“決めてる”って感じ」
監督が穏やかに言う。
「はい」
そして、撮影当日。
まだ空が暗い。
スタジオの入り口に、スタッフのコーヒーの匂いが漂ってる。
人の足音が早い。短い声が飛ぶ。紙が動く。
俺は入館証を受け取って、いつもより小さく息を吸った。
「おはようございます。天城隼人です。本日よろしくお願いいたします」
通るスタッフが、次々に返してくる。
「おはようございますー」
「よろしくね、ハヤト君」
「衣装、先に行けるよ」
案内された控室に入ると、すでにスーツが掛けてあった。
ネクタイも、指定の結び方のメモ付き。
俺は余計なことを考えず、着替える。
鏡の中の自分が、少しだけ“役”に近づく。
ドアがノックされる。
「ハヤト君、準備できたら、スタンバイお願い」
「はい。すぐ行きます」
廊下に出ると、現場の音が増した。
モニターの前に椅子が並び、ケーブルが床を走っている。
ライトが一つ、目に刺さるくらい明るい。
浅野さんが近づいてきて、声を落とした。
「ハヤト君、最初は喋らなくていい。立つだけ。目線だけ。分かるな」
「はい」
「主役の二人、今ちょっと硬い。ハヤト君が落ち着いてると、全体が締まる」
「承知しました」
監督が手を上げる。
周りが一瞬で静かになる。
「じゃあ行くわよ。第1話、シーン12。参謀、初登場。──スタンバイ」
俺は指定の位置に立つ。
目線の先。相手役の立ち位置。距離。
息を整える。
「本番。──よーい」
一拍。
「アクション」
空気が変わる。
俺は、“参謀”としてそこにいるだけでいい。
ここから始まる。
『ルーシッドライダーズ』の撮影が。
──「参謀、初登場」。
俺は台本で読んだ通りの位置に立って、息を落とした。
動きは少ない。だから、少しのズレが全部目立つ。
相手役の二人が、カメラの向こうで構える。
主役のライダー役。もう一人のライダー役。
スーツのシルエットだけでも、現場の空気が一段変わる。
監督の声が飛ぶ。
「はい、今から怪人の情報が入る。二人が焦る。そこで参謀が“止める”。ハヤト君、目線だけでいい。言葉はまだ」
「承知しました」
浅野さんが俺の横で小さく頷く。
「見て、止める。余計な動きなし」
俺は短く返した。
「はい」
カチン、と現場の音が止まる。
俺は“止める側”の空気を、体に作る。
相手役の片方が言う。
「行くぞ、今なら間に合う!」
もう片方が被せる。
「待て、判断が──」
そこで、俺の番。
台詞はない。
ただ、一歩だけ前に出る。音を立てない。
息を吸って、二人を見る。
──止まれ。
それを言葉じゃなく、目線で伝える。
相手役が、ほんの少しだけ動きを止めた。
台本にはない“間”が、自然に生まれる。
俺はその間を壊さない。
顔を作らない。眉も動かさない。
ただ、そこに立つ。
監督の手が上がる。
「カット」
すぐに次が来ると思った。
でも、監督の声が柔らかい。
「うん、今の、いいわ」
周りのスタッフが一瞬だけ顔を上げる。
空気が少しほどける。
監督はモニターを見たまま言った。
「ハヤト君、歩幅そのまま。止まり方もそのまま。音がしない。助かる」
「ありがとうございます」
助監督がイヤホンを押さえながら言う。
「カメラ、目線拾えてます。今の“止めた”感じ、きれいに出てます」
制作の女性が笑って頷いた。
「現場が落ち着くの、ありがたいね。最初って、どうしても散るから」
俺は返す言葉を短くする。
「承知しました」
監督が手元の台本に指を置いた。
「じゃあもう一回だけ。今のままでいい。ハヤト君、最後に“顎”だけ、ほんの少し落として。強くじゃなくて、締める感じ」
「はい。やってみます」
浅野さんが俺にだけ聞こえる声で言う。
「今の、いい。無駄がない。──そのまま積め」
俺は頷いた。
もう一度、静かになる。
「よーい」
「アクション」
同じ流れ。
同じ一歩。
同じ目線。
最後だけ、顎を少し落とす。
“止める”が、少しだけ重くなる。
相手役の二人の呼吸が、そこで揃った。
監督が、短く言う。
「……カット。OK」
その一言で、現場が動き出す。
スタッフがライトを調整して、次の準備に入る。
衣装の人が俺に寄ってきた。
「ハヤト君、ネクタイの角、今ので完璧。次も同じ感じでお願い」
「はい。ありがとうございます」
浅野さんが資料を見ながら言う。
「次、台詞入る。短いけど、重要」
俺は台本のページを開いた。
参謀としての“最初の一言”。
そこで、監督がモニターから顔を上げる。
「ハヤト君」
「はい」
「今の立ち方、忘れないで。あれがこの作品の背骨になる。──頼りにしてるわ」
俺は少しだけ息を整えて、丁寧に返した。
「ありがとうございます。期待に応えます」
次のシーン番号が呼ばれる。
台詞がある。
ここからが、本当の始まりだ。