ひかりが机に手をついて、息を整える。
「……で、どこだよ。今どこで起きてる」
紗夜が苛立ちを隠さずに言う。
「範囲が広がってるなら、待ってたら間に合わない」
澪人は喉を鳴らして、視線を落とした。
「僕のログ……さっきから、引っ張られてる」
俺はペンを置いた。
机の端に積んであった白いファイルを一冊引き寄せ、開く。
ページの角を揃えて、必要なところだけ指で押さえる。
「順番に言う。まず場所。発生源はこの二点」
俺は地図の印刷を机の真ん中に置く。
赤丸が二つ。中心と、少し離れた住宅地。
「今“起きてる”っていうより、“広がってる”。中心から波が外へ押し出されてる」
ひかりが地図を見る。
「波って?」
俺は次に、グラフの紙を一枚滑らせた。
「LUCIDログの波形。感情の揺れを数値化したものだ。心拍、声の揺れ、表情の変化――それをまとめて“波”にしてる」
グラフの線が、平らに潰れていく。
「今はこの波が潰れてる。喜怒哀楽が出ない状態。ゼロに寄せられてる」
「……何これ」
ひかりの声が少しだけ硬くなる。
紗夜が唇を噛む。
「NOCTがやってる?」
「そう。NOCTは“奪う”んじゃない。薄める。怒りも悲しみも喜びも、まとめて薄くする。本人は楽になることがある。だから気づきにくい」
俺は資料の写真ページを開いて、三枚だけ見せた。
交差点の人波。教室の子ども。家の中。
「症状。驚かない。泣かない。怒らない。笑わない。言葉は出るけど、温度がない。“大丈夫です”しか残らない」
澪人が小さく息を吸った。
「……戻せるの?」
俺は答えを急がない。
澪人を見て、ひかりを見て、紗夜を見る。
「戻せる。完全じゃない。だが戻せる」
ひかりの目が少しだけ強くなる。
「どうやって」
俺は次のページ――手順の項目を指で叩いた。
「対処は四段階。一、避難誘導。二、封鎖。三、発生地点の特定。四、鍵の確保。ここが一番大事だ」
澪人の肩がわずかに揺れる。
「……鍵って」
「朝倉。お前だ」
ひかりが反射で言う。
「澪人が狙われるってこと?」
「狙われる。NOCTはお前のログを“引き金”にして、薄める範囲を広げる。お前が動くほど、引っ張られる。だからここから動くな」
紗夜が食い気味に言った。
「それじゃ遅い。私が行く」
俺は紗夜を見る。声は上げない。
資料の地図を指でなぞる。
「獅堂。行くなら、ひかりと一緒だ。単独は切り捨てに近い。薄められた空気の中だと、判断が鈍る。感情が削られる。二人で互いを戻せ」
紗夜が眉を上げる。
「……参謀、容赦ない」
「必要だから言う。――勝つより、戻すのが先だ」
ひかりが一拍置いて、頷いた。
「分かった。戻す。……そのために、戦う」
俺は最後に、短くまとめた。
地図、波形、手順のページをきっちり揃える。
「よし。順番を守れ。俺が外を回す。二人は、指示が出てから動け。澪人はこの部屋から出るな」
沈黙が落ちる。
全員の視線が、同じ方向に揃う。
監督の声。
「カット。……うん、今の、分かりやすい。斎音、いい」
プロデューサーが小さく笑った。
「説明なのに、説明っぽくないの、すごく助かる」
俺は短く頭を下げる。
「ありがとうございます」
助監督がすぐに声を出した。
「今の芝居のまま、手元と目線、寄りでもう一回。――よーい」
現場がまた静かになる。
カメラが近づく分、俺の指先が全部映る。
「アクション」
同じ台詞。
同じ資料。
でも、寄りだと“情報”より“癖”が出る。
俺は紙を滑らせる角度を変えない。
ページをめくる速度も、指で押さえる位置も揃える。
斎音がずっとこうやって戦ってきた、って見えるように。
「順番に言う。まず場所。発生源はこの二点」
ひかりが地図を見る目が、さっきより鋭い。
紗夜の苛立ちも、余計な動きが消えて芯だけ残る。
澪人は呼吸を整えて、言葉を待つ。
「LUCIDログの波形。感情の揺れを数値化したものだ」
俺の指がグラフをなぞる。
線が潰れていく箇所で止める。
「ここから先は、“平和”に見える。だから厄介だ」
紗夜の目が揺れた。
寄りのカメラがそれを拾うのが分かる。
俺は最後を締める。
「勝つより、戻すのが先だ」
ひかりが一拍置いて頷いた。
「分かった。戻す」
監督の声。
「カット。OK。寄りも取れた」
空気が戻る。
照明が動き、スタッフが静かに移動する。
監督がモニターを見ながら、こちらに目を向けた。
「ハヤト君、今のね。言葉がちゃんと人に入る。それと、間がいいの。相手が受け取る時間を作れてる。すごく助かるわ」
俺は短く頭を下げる。
「ありがとうございます」
プロデューサーが続ける。
「あと、斎音の“几帳面さ”が画で伝わった。資料を揃える癖、残していこう。作品の記号になるから」
「承知しました」
助監督が段取り表を見て声を出す。
「次、会議室の外につながる動き入ります。ひかりと紗夜は廊下へ。澪人は残って、斎音が指示を飛ばす」
監督が頷いて言った。
「そう。ここから斎音の“裏で回す”が見えると、視聴者が安心する。ひかり、紗夜、前に出る。斎音、外を整える。澪人は鍵。――全員の役割、今ので揃ったから」
白石さんが防寒の上着を着直しながら、笑う。
「参謀がいると、ほんと助かる」
桐谷さんも軽く頷いた。
「分かってる。……行く」
神崎さんは少しだけ緊張した顔で、俺に目を向ける。
「僕、残るの……怖いけど。斎音がいるなら、耐えられる気がする」
俺は澪人を見る。
言葉を選んで、短く置いた。
「怖いままでいい。動くな。俺が守る」
澪人が小さく頷く。
「……うん」
監督が手を叩く。
「よし。じゃ、次いくわよ。――廊下、スタンバイ!」
会議室のセットの外。
廊下の照明が切り替わる。
スタッフの足が早くなる。
俺は資料を閉じて、端を揃えた。
机の上を一度、何もない状態に戻す。
参謀の仕事は、こういうところから始まる。
芝居の中でも、現場でも。
助監督の声。
「よーい」
「アクション」
ひかりと紗夜が廊下へ飛び出す。
俺は会議室に残ったまま、通信端末を手に取った。
表に出ない戦いが、ここから始まる。