助監督の声。
「よーい」
「アクション」
ひかりと紗夜が廊下へ飛び出す。
足音が遠ざかって、会議室のセットが一瞬だけ静かになる。
俺は残る。
机の上の資料を閉じて、端を揃える。
余計な紙は一枚も出さない。
参謀は、場を散らさない。
通信端末を手に取る。
画面に、現場のマップと簡易の波形が並ぶ。
澪人が椅子の背にもたれないまま、息を吐いた。
「……僕、ここにいていいのかな」
俺は視線を上げずに答える。
「ここが一番安全だ。動けば、引っ張られる」
澪人は頷く。
頷き方が、まだ不安を隠し切れていない。
俺は端末を操作して、短く指示を飛ばす。
「封鎖班。交差点A、通行止め。誘導は二本先まで。避難は“急がせない”。走らせると余計に波が乱れる」
返答が返ってくる。
文字だけの「了解」。現場の速さ。
澪人が小さく目を見開いた。
「……走らせない、って。そんなことまで」
「ある。薄められてる時は、強い刺激が逆効果になる」
俺は続ける。
「救急。倒れた人がいても、叫ぶな。声は抑えろ。“落ち着いてる”ふりをするな。本当に落ち着かせる」
澪人が喉を鳴らす。
「……斎音って、冷たい人かと思ってた」
「冷たくしないと、崩れる」
俺はそこで初めて澪人を見た。
短く、置く。
「でも、守るためだ」
澪人が小さく頷いた。
「……うん」
そのタイミングで、会議室の外からスタッフの声が聞こえる。
「カメラ位置、もうちょい左!」
「音、拾える? 廊下反響するから注意!」
「ひかり、紗夜、立ち位置確認お願い!」
監督の声が遠くから飛ぶ。
「ひかり、今の入り、もう半歩だけ速く。
紗夜は焦りすぎない。ひかりを見てから動くの」
「はい」
「了解です」
二人の返事が重なった。
浅野さんが会議室の入口に顔を出す。
「ハヤト君。今、通信の手元も撮りたいって。寄り、いける?」
「はい」
監督がすぐに言葉を継ぐ。
「斎音の“裏で回してる”が見えると、視聴者が安心するの。端末操作、手順、目線。そこ、全部画で欲しい」
「承知しました」
俺は端末を持ち上げて、椅子を少しだけ引く。
画角に入る位置を確認する。
指先が映る角度。画面の反射。光の当たり方。
助監督が来て、床に小さなテープを貼った。
「ここ。手元寄りで撮ります。斎音は座って、肘は机。目線は画面、たまに澪人。――お願いします」
「はい」
澪人が、少しだけ背筋を伸ばした。
「僕は、何すればいい?」
監督が優しく言う。
「澪人はね、見られてるだけで緊張してていい。斎音の言葉で落ち着いていく。その変化、欲しいの」
澪人が小さく頷いた。
「……分かりました」
俺は端末の画面を開いた。
波形がまた一段、平らになっている。
――広がってる。
俺は息を落とす。
「朝霧、聞こえるか」
廊下の向こう。通信越しに、ひかりの声。
『聞こえる!』
「走るな。足を止めろ。周りの人を見ろ。薄まってる。刺激を入れると、余計に崩れる」
『……分かった』
紗夜の声が重なる。
『場所は?』
「地図送る。二点。まず外側を切れ。中心に突っ込むな」
『了解』
俺は画面を操作して、ルートを送った。
指先が迷わない。
迷えば、それが画面に出る。
監督の声。
「……カット。いい。今の手元、斎音そのもの」
プロデューサーが頷く。
「“裏で回す”が一発で分かった。助かる」
俺は短く頭を下げる。
「ありがとうございます」
助監督がすぐに続ける。
「次、同じ流れで角度変えます。斎音の顔、もう少し欲しい。――よーい」
現場がまた静かになる。
同じ状況を、別の角度で押さえる。
芝居は、そうやって形になる。
そして――作品の“背骨”も、少しずつ固まっていく。
撮影初日が終わる頃には、外はもう暗かった。
スタジオの廊下はまだ明るい。
でも、頭の中はずっと同じ音が鳴ってる。
「よーい」「アクション」「カット」。
監督がモニターの前から顔を上げて、手を叩いた。
「今日はここまで。おつかれさま。――明日は朝から別班で撮るから、役者さんは解散でいいわ」
スタッフの声が重なる。
「おつかれさまでしたー」
「ありがとうございました!」
俺も頭を下げる。
「おつかれさまでした。ありがとうございました」
浅野さんが近づいてきて、資料を軽く叩いた。
「ハヤト君、いい滑り出しだ。今日の“斎音”、現場が助かった」
「ありがとうございます」
「ただ、次からは“疲れてる時の斎音”も必要になる。余裕の顔だけじゃ、参謀は嘘になる」
「……承知しました」
浅野さんが笑う。
「その反応がもう斎音だな」
更衣室でスーツを脱いで、私服に戻す。
ネクタイの跡が首に残ってるのが、地味に現実だった。
廊下に出ると、ひかりと紗夜と澪人が揃っていた。
三人とも上着を羽織ってる。
撮影の疲れがあるのに、目はまだ起きてる。
ひかりが言った。
「斎音の通信、助かった。あれ、ずるい。安心しすぎる」
「ずるいか?」
俺が短く返すと、紗夜が口元だけで笑った。
「ずるいよ。ああいうの、前線にいると反則」
澪人が少しだけ笑って、すぐ真面目に戻る。
「僕、今日ずっと緊張してたけど……斎音の声、落ち着いた。役なのに」
「役でも、嘘は入れない」
俺が言うと、ひかりが小さく頷いた。
「それ、好き」
紗夜がすぐに突っ込む。
「軽く言うな。照れるだろ」
「照れない」
「照れてない顔が一番怖い」
そのやり取りで空気が少しだけ緩んだ。
現場の外に出た瞬間、やっと“人”に戻れる。
監督が通りすがりに手を振る。
「明日もよろしくね。ハヤト君、台詞の最後、もう一段落とすと刺さるから。次、試そ」
「承知しました。よろしくお願いいたします」
外に出ると、冷たい風。
現場の熱が一気に引く。
駅までの道を歩きながら、スマホを確認する。
通知がいくつか溜まってた。
レンから。
『今日はどうだった?』
日和から。
『生きてる?初日で倒れてない?』
命からも来ていた。
『お疲れさまです。帰り、寒いので気をつけてください』
俺は歩きながら、短く返す。
『無事。ちゃんと進んだ』
レンにはそれだけ。
日和には。
『倒れてない』
命には、少しだけ言葉を足す。
『ありがとう。帰る』
送信して、スマホをポケットに戻す。
電車の窓に、自分の顔が映る。
疲れてる。
でも、嫌じゃない。
“勝つより、戻す”。
あの台詞が、頭の中でまだ鳴ってる。
作品の言葉なのに、俺の言葉にもなっていく。
家に着いたら、明日の台本をもう一回読む。
必要なら、間を作り直す。
積むだけだ。
明日も。