翌朝。
まだ空が白くなりきっていない時間に、家を出た。
息が白い。手が冷たい。
でも頭は起きてる。昨日より、余計な緊張が減ってる。
駅のホームで台本を開く。
今日の斎音は、会議室じゃない。
外。現場。人が多い場所。
スタジオに着くと、昨日と同じ匂いがした。
コーヒー。ケーブル。ライトの熱。
受付の人がすぐに通してくれる。
「おはようございます」
通りすがりのスタッフが返す。
「おはよう、ハヤト君」
「今日もよろしくね」
控室でスーツに着替える。
ネクタイの結び目を整える。
鏡の中の斎音が、昨日より少しだけ馴染んでいた。
廊下に出ると、もう現場は回っている。
屋外セットの方向から、風の音みたいな機材の音が流れてくる。
助監督が段取り表を持って走ってきた。
「ハヤト君、おはよう! 今日は外シーンから入るよ。斎音、初めて“現場に立つ”回」
「承知しました」
「ひかりと紗夜、もうスタンバイしてる。澪人は少し後。――先に立ち位置だけ確認しよう」
「はい」
外セットに出ると、空気が違った。
冷たい。広い。人の声が散る。
会議室の密度とは逆で、集中しないと薄まる。
ひかりが、肩を回しながらこっちを見る。
「おはよ。今日、外だね」
「おはようございます」
紗夜が手袋を直しながら言う。
「外は動きが増える。斎音、置いてかれないでよ」
「置いていかない」
澪人も合流して、軽く頭を下げた。
「おはようございます。昨日、ありがとうございました」
「おはよう。今日も同じだ」
監督がマイクを持って、全体に声を通す。
「今日の最初は、街中の導線シーン。斎音が“裏で回す”のを、今度は“表でも”少し見せる。言葉は短く。動きも短く。だけど、全員がその一言で動く。――それ、作ろうね」
助監督が叫ぶ。
「はい、各部門スタンバイ! 役者さん、位置ついて! ――よーい!」
風が吹く。
スタッフの声が消える。
現場が一つの塊になる。
「アクション」
ひかりと紗夜が走り出す。
澪人がその後ろで足を止める。
俺は一歩だけ前に出て、手を上げた。
「止まれ。――今は行くな」
ひかりの足が止まる。
紗夜も半歩遅れて止まる。
勢いが残って、二人の呼吸だけが少し荒い。
「なんで」
ひかりが噛みつくみたいに言う。
紗夜が視線を走らせる。
「斎音、理由」
俺は目線を動かさない。
遠くの人波。
横断歩道の中央で立ち止まっている男。
スマホを見ているのに、顔が無表情。
「見ろ」
短く言って、顎で示す。
「……あれ?」
ひかりが目を細める。
澪人が小さく息を吸った。
「薄まってる……」
俺は端末を一度だけ操作して、マップを更新する。
赤い輪が、外側へじわじわ広がっていく。
「中心に突っ込むと、こっちが削られる。まず外側を切る」
「外側って、どこ」
ひかりが言う。
俺は指で二点を示す。
スタッフの視線がそこに集まるのが分かる。
この動きは、芝居だけじゃない。現場でも使える。
「ここ。ここと、こっち。二人で分けろ」
紗夜が即答する。
「私が右」
ひかりが頷く。
「じゃあ私が左」
澪人が不安そうに言った。
「僕は……?」
「動くな。俺の後ろ」
俺が言うと、澪人は一拍置いて頷いた。
「……うん」
監督の声が飛ぶ。
「いい! 今の“見ろ”と指示、すごくいい! ひかり、紗夜、止まるの綺麗! もう一回いくわよ!」
助監督が続ける。
「はい、戻ってください! 同じ動きで、もうテイク重ねます! ――よーい!」
俺たちは位置に戻る。
風が吹いて、コートの裾が揺れる。
それでも、斎音は揺れない。
「アクション」
今度は、止める前に一瞬だけ“間”を作る。
ひかりと紗夜が走り出す勢いを、声じゃなく空気で止める。
「……止まれ」
短く落として言う。
紗夜の足が先に止まり、ひかりが止まる。
その順番が、二人の関係を見せる。
監督が静かに言った。
「カット。OK。いい」
現場が動く。
スタッフが位置を変える。照明が動く。音が調整される。
プロデューサーが近づいてきて、柔らかく言った。
「今のね、斎音の“背中”がいいの。前に出てるのに、前に出すぎない。助かる」
「ありがとうございます」
監督が続けた。
「次は、澪人の不安をもう一段欲しい。斎音がそれを“置く言葉”で落とす。短くね。――短いほど強いから」
「承知しました」
澪人役の神崎さんが、少しだけ緊張した顔で言う。
「僕、どこまで怯えていいですか」
監督が笑った。
「怯えていいよ。怯えてるのに逃げないのが澪人だから。ね、斎音、頼むわ」
俺は神崎さんを見る。
短く答える。
「逃げなくていい。俺がいる」
神崎さんが一拍置いて、頷いた。
「……はい」
助監督が声を出す。
「次、澪人寄りから入ります! 準備できたら行きます! ――よーい!」
空気がまた薄くなる。
ここからは澪人の表情を拾う回だ。
「アクション」
澪人が息を飲む。
俺はその横で、端末を閉じた。
そして、言葉を置く。
「澪人。深呼吸しろ」
短い。
それだけで、澪人の肩が少し落ちる。
ひかりと紗夜が、同時に前を見る。
全員の方向が、揃う。
監督の声。
「……カット。今の、すごくいい。続けよう」
監督の声が落ちた瞬間、現場の呼吸が戻る。
スタッフが動き出し、機材の音が増えた。
助監督が段取り表を見て叫ぶ。
「次、ひかりと紗夜、現場入りの走り! 斎音は通信指示! 澪人は背中でついていく! ――移動お願いします!」
俺は端末を持ち直し、澪人の位置を半歩だけ後ろに調整する。
寄りすぎると守ってる感じが強すぎる。
離れすぎると不安が残る。
「ここ」
短く言う。
澪人が頷いて、そこに立つ。
「……うん」
ひかりが手袋を直しながら言った。
「斎音、さっきの“深呼吸”さ。あれ、効くね」
俺は答えを長くしない。
「落ちるから」
紗夜が鼻で笑う。
「参謀、ほんと余計なこと言わない」
「必要なことだけ言う」
監督が手を上げる。
「はい、位置ついて。今度はカメラ、追いでいくわよ。走り、綺麗に。斎音は走らないで。歩いて、止めて。――それが斎音」
「承知しました」
助監督が声を張る。
「よーい!」
空気が薄くなる。
風の音だけが残る。
「アクション」
ひかりと紗夜が走り出す。
人波の端を切っていく。
薄い表情の人たちが、反応しないまま視線だけ向ける。
澪人が小さく息を詰めた。
足が一瞬止まりかける。
俺は澪人の肩に触れない。
触れたら“支える”になって、澪人が弱く見える。
言葉だけ置く。
「見るな。前」
澪人が目線を前に戻す。
その変化がカメラに拾われる。
端末が震える。
現場班からの報告。
『外側の封鎖、完了。一般人反応薄い。誘導に時間かかる』
俺は即答で返す。
「急がせるな。声を荒げるな。刺激を入れるな。“落ち着いてください”じゃなく、“一緒に行きましょう”」
返事が返る。
『了解』
ひかりが走りながら叫ぶ。
「斎音、中心は!」
俺は走らない。
歩いて、端末を見て、指で地図をなぞる。
「中心はまだ見せない。――見せてるのは外側だ」
紗夜が歯を食いしばる。
「敵、賢い」
「賢いなら、順番が効く」
俺はひかりと紗夜を見て、声を落とす。
「二人とも。今は倒すな。割るだけだ。波を戻せ」
ひかりが短く返す。
「分かった」
紗夜も頷く。
「了解」
澪人が小さく呟いた。
「……戻す」
その瞬間、目の前の人波がふっと揺れた。
何かが“吸う”みたいに空気が軽くなる。
澪人の顔色が一瞬だけ落ちる。
足が、また止まりかける。
俺は端末を閉じた。
視線を澪人に向けて、言葉を置く。
「澪人。息。――今は、吐け」
澪人が息を吐く。
肩が落ちる。
視線が戻る。
監督の声が飛ぶ。
「カット! 今の! 今の“吐け”すごくいい! 澪人の落ちる感じ、完璧!」
現場がざわつく。
褒め言葉が飛び交う。
「今の、鳥肌!」
「澪人の目、変わった!」
神崎さんが小さく笑って、すぐに真面目に戻る。
「……ありがとうございます。助かりました」
俺は短く返す。
「次も同じだ」
監督がモニターを見ながら言う。
「斎音、いい。ひかりと紗夜もいい。
この三人の“揃い方”、作品の顔になるわ」
プロデューサーも頷く。
「うん。見てて安心する。視聴者も安心するね」
助監督がすぐ段取りを回す。
「はい、次! 中心に入る前の“止め”もう一回撮ります! 今の芝居のまま、角度変えます! ――移動お願いしまーす!」
俺は深く息を吸って、吐いた。
自分の呼吸も整える。
まだ午前。
でも、もう一日分の密度がある。
それでも、積める。
斎音として。
役者として。