放課後、廊下でスマホが震えた。
画面には、母さんの名前。
『落ち着いて聞いて。遥香さん、さっき病院に入ったの。もうすぐだって』
俺は立ち止まる。
「……分かった。今から向かう」
通話を切ると、レンがすぐ顔を上げた。
「ハヤト? どうした」
「遥香さん。出産」
レンの目が少しだけ大きくなる。
「行こう。僕も行く」
「ありがとう」
日和は空気を読んで、いつものトーンを少し落とした。
「うん、行って。こっちは気にしなくていいから」
命は一歩だけ近づいて、小さく言った。
「……無事を祈っています」
俺は短く頷く。
「行ってくる」
病院の待合は、静かだった。
時計の音だけが妙に大きく聞こえる。
母さんが先に着いていた。
母さんは座ってるのに、指先だけが落ち着かない。
「ハヤト」
「うん」
「今、先生が見てくれてる。大丈夫って」
俺は椅子に座る。
深呼吸を一つ。
レンは少し離れた位置で、黙って待ってくれていた。
時間の感覚が薄くなる。
何十分か、何時間か。
分からないまま、扉が開いた。
次の瞬間、奥のほうから産声が届く。
短くて、でもはっきりした声だった。
母さんが息を呑む。
俺はようやく、肩の力を抜いた。
少しして扉が開き、助産師さんが出てくる。
柔らかい声で告げた。
「お待たせしました。無事、男の子が産まれました」
その一言で、母さんの肩が一気に下がる。
由紀子姉さんが小さく息を吐いた。
俺の喉の奥も、ようやく動く。
「……母子ともに、ですか」
「はい。おふたりとも元気です」
母さんが目元を押さえた。
泣くほど崩れない。
でも、嬉しさは隠しきれてない。
「よかった……ほんとうに」
面会できる時間になって、順に入る。
部屋の空気は、静かであたたかい。
遥香さんは疲れてるはずなのに、顔はやわらかかった。
腕の中に、小さな命。
「……ハヤトくん」
「おつかれさまです」
遥香さんは小さく笑う。
「ありがとう。なんとか、間に合った」
俺はベッドの横で立ち止まる。
声を落として言う。
「無事でよかったです」
「うん」
遥香さんは腕の中を見て、少し笑う。
「さっきまであんなに泣いてたのに、この子、もう寝ちゃった」
たしかに、小さな胸が規則正しく上下している。
指はぎゅっと握ったまま、顔だけはもう穏やかだ。
母さんがそっと近づいて、覗き込んだ。
声は自然と小さくなる。
「……目元、遥香さんに似てるわね」
遥香さんが照れたように笑う。
「まだ顔、変わるよね」
「変わる」
俺は短く頷く。
「でも、もう“この子の顔”だな」
母さんがうれしそうに何度も頷いた。
「本当に……かわいい」
母さんの目がすぐに潤む。
でも泣き崩れず、笑ったまま言った。
「初孫、うれしい……。ほんとに、うれしい」
遥香さんがやわらかく返す。
「ありがとうございます、沙織さん」
母さんはベッドのそばで立ち止まり、赤ちゃんに小さく頭を下げた。
「はじめまして。待ってたよ」
部屋の空気が、さらにやさしくなる。
誰も大きい声は出さない。
けど、喜びは全員分はっきりあった。
母さんが小さく笑う。
「将来、楽しみね。元気に育ってくれたら、それで十分」
沙織さんは赤ちゃんの手元を見て、ふっと笑った。
「指、長いわね。器用な子になるかも」
俺はその小さな手を見て、短く言った。
「守るもの、増えたな」
遥香さんが頷く。
「うん。増えた」
赤ちゃんは少しだけ眉を動かして、また静かに眠る。
さっきの産声が嘘みたいに、今は穏やかだった。
母さんが目元を押さえて、沙織さんと顔を見合わせる。
「今日は、いい日ね」
「うん。忘れられない日」
看護師さんが静かに入ってきて、点滴とベッド周りを確認する。
動きに無駄がなくて、部屋の空気を乱さない。
「お母さん、少し休めそうですか?」
遥香さんは小さく頷いた。
「はい。だいぶ」
「無理はなさらずに。面会はあと少しで一区切りになります」
「分かりました」
看護師さんは赤ちゃんの寝顔を見て、柔らかく笑う。
「上手に眠れてますね」
そう言って、静かに部屋を出ていった。
沙織さんが椅子を引いて座る。
目はまだ赤いのに、声は落ち着いていた。
「名前、どうするの? もう候補ある?」
遥香さんが俺を見る。
少し照れた顔で答える。
「いくつか。まだ最終は決めてない」
母さんが嬉しそうに身を乗り出す。
「聞いていい?」
「うん。一つは“湊”。もう一つは“祐一”」
沙織さんが小さく繰り返す。
「みなと……ゆういち……」
どっちも、声に出すとやさしい。
病室の空気に合っていた。
俺は短く言う。
「どっちでも似合う」
遥香さんが笑う。
「それ、いちばん困るやつ」
「本音だ」
母さんが赤ちゃんの顔を見ながら言った。
「寝顔は“湊”っぽい」
沙織さんが頷く。
「分かる。今は静かだから“湊”って感じ」
沙織さんの言葉に、部屋が少しだけ静かになる。
遥香さんは腕の中を見て、指先で小さな手をそっと包んだ。
「……うん」
短く頷いて、顔を上げる。
「じゃあ、決めます。湊にしよう」
母さんが嬉しそうに息を漏らした。
「湊くん。いい名前ね」
俺も短く頷く。
「似合ってる」
遥香さんは少し照れたように笑う。
「ありがとうございます。この子が、ちゃんと帰ってこられる場所を作れるように。その願いで、“湊”にします」
眠ったままの小さな胸が、静かに上下する
その寝顔を見ていると、もうその名前以外は考えられなかった。
赤ちゃんが小さく唇を動かす。
音は出ない。
でも、夢の中で何か話してるみたいだった。
遥香さんがそっと指を差し出すと、赤ちゃんの手が触れる。
握る力は弱いのに、離れない。
「……すごいね」
遥香さんの声が少し震える。
「こんな小さいのに、ちゃんと掴むんだ」
沙織さんが目を細める。
「もう、離す気ないんだよ」
母さんが笑って続ける。
「こっちが離せなくなるのよ、こういうの」
俺はその手を見て、胸の奥が少し熱くなる。
言葉は短くしか出ない。
「強いな」
遥香さんが頷いた。
「うん。強い」
病室の外から、遠くでストレッチャーの音がした。
夜の病院は静かだけど、止まってはいない。
いろんな部屋で、いろんな時間が進んでる。
母さんが立ち上がって、コートを取り上げる。
「そろそろ、出ましょうか。
今日は顔を見られただけで十分」
沙織さんもゆっくり立つ。
「うん。遥香さん、ちゃんと休んで」
「ありがとう。来てくれて」
俺はベッドの横で一度だけ頭を下げる。
「おつかれさまです。
また来る」
遥香さんが柔らかく笑う。
「うん。待ってる」
赤ちゃんはまだ眠っていた。
小さな呼吸だけが、部屋の中心にある。
病室を出る前に、沙織さんが振り返る。
赤ちゃんへ、小さく手を振る。
「おやすみ」
廊下に出ると、空気が少し冷たい。
病室の温度が、背中に残っていた。
エレベーターを待つ間、母さんが静かに言う。
「ハヤト。今日のこと、ちゃんと覚えておきなさい」
「覚えてる」
「よろしい」
扉が開く。
みんなで乗り込む。
誰も大きな声は出さない。
でも、顔は明るかった。
病院を出ると、夜風が頬を刺す。
空は澄んでいて、街の灯りが遠くまで伸びていた。
俺はスマホを取り出して、命に送る。
『無事、生まれた。男の子だった』
少しして、返事が来る。
『……よかったです。おめでとうございます』
その文字を見て、ようやく今日が現実になった気がした。
母さんと沙織さんの歩幅に合わせて歩く。
寒い夜なのに、足取りは軽い。
家に帰ったら、明日の準備がある。
学校も、撮影も、いつも通り続く。
それでも今日は、いつも通りじゃない。
ひとつ、新しい呼吸がこの世界に増えた。
それだけで、明日の景色は少し変わる。