入学式の朝は、少しだけ早かった。通勤ラッシュにはまだ遠い時間帯の電車は思ったより空いていて、新しいブレザーの生地が擦れる音だけがやけに耳につく。向かいの座席に、レンがちょこんと座っていた。
(……中学生、か)
窓に映る自分を見てから、ブレザーの前を軽く整える。シャツの襟元を直し、ネクタイを締め直す。レンは落ち着かない様子で、膝の上の鞄の持ち手を何度も握り直していた。
「ハヤト、ネクタイ曲がってない?」
「大丈夫だろ」
「そっか……初日だしさ、ちょっと緊張してて」
そう言って笑うレンは、いつも通りだ。少しだけ、それに救われる。前世の記憶があるせいか、こういう「区切り」の朝でも妙に冷静でいられる自分と、レンの素直な緊張が、ちょうど噛み合っていた。
次の駅で、年上に見える女子の集団が乗ってくる。空気が一段、賑やかになる。視線が集まるのを感じて、軽く息を吐いた。レンは気づいたのか、声を落とす。
「……見られてるね」
「まあな」
ブレザーを着ていると、やっぱり違う。今日からは、ここが日常になる。
目的の駅が近づく。アナウンスが流れる。同じ駅で降りるであろう、新しいブレザー姿の生徒たちが立ち上がる。レンも鞄を肩にかけ、こちらを見る。
(……考えても仕方ないか)
電車は減速し、ドアが開いた。
ホームに降りる。顔を上げると、駅前の並木道が桜で埋まっていた。満開で、遠慮がない。枝という枝に薄紅色が重なり、風が吹くたびに花びらが舞う。
「うわ……」
レンが素直に声を漏らす。
「綺麗だな」
「入学式に合わせたみたいだね」
同じ学校に向かう人の流れが自然とできている。ブレザー姿の女子が大半なのも、もう当たり前だ。会話の端々から、「クラス分けどうなるかな」「男子、いるかな?」「今日見られるかな」といった声が聞こえる。
桜の下を、レンと並んで歩く。校門までは、あと少し。風が吹き、花びらがブレザーの肩に落ちた。黒地に淡い色が映える。そのとき、足元に白いものが落ちているのが目に入った。人の流れから少し外れた場所だ。
「あ、落とし物じゃない?」
レンの声に頷いて、足を向ける。踏まれる前に拾った方がいい。そう思って、しゃがみ込んだ。
それが、今日の始まりになるなんて──この時は、まだ考えていなかった。
しゃがみ込んで拾い上げたそれは、思ったよりもしっかりした作りだった。白い絹の袋。口を留める紐は細く、触れると指に柔らかく馴染む。表に、控えめな刺繍が施されている。
(……家紋?)
見覚えのない意匠だったが、装飾というより標。そういう印象を受けた。飾りではなく、示すためのもの。
白い袋を手に取って、立ち上がる。人の流れから外れているとはいえ、このまま持ち歩くのは気が引けた。
「駅前の交番、寄ってく?」
レンが小声で言う。
「ああ。持ち主が困るだろ」
刺繍の入った袋を見て、レンは一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。余計な詮索をしないところが、こいつらしい。
校門とは逆方向に、数歩だけ足を向ける。
そのとき──
「すみません」
背後から、声がかかった。
柔らかいのに、通る声だった。
振り返る。
──そこに立っていたのは、絶世の美少女だった。
思考が、わずかに遅れる。
脳が現実として受け取るまで、ほんの一拍かかる。
同じブレザーを着ている。化粧も、装飾も、特別なことは何もない。なのに、輪郭だけがはっきりしていた。人混みの中にいるはずなのに、彼女の周囲だけ、空気の密度が違う。
整いすぎた顔立ち。静かな瞳。感情を抑えた口元。
美しい、という言葉が追いつかない。評価ではなく、事実としてそこにある完成度だった。
(……なんだ、これ)
「……その袋」
彼女の視線が、俺の手元に落ちる。
次の瞬間、胸の奥が静かに鳴った。
(……あ)
探していた。
そういう目だった。
「落としたの、私で……」
言いかけて、彼女は一瞬だけ言葉を切る。確認するように、袋の刺繍を見る。その仕草に、迷いはなかった。
「交番に届けようと思ってた」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
それだけ。
大げさな感謝も、焦りもない。
当たり前のように、受け取る側の態度。
袋を差し出すと、彼女は両手で受け取った。指先が、また一瞬だけ触れる。
(この子がいい、この子と結婚したい)
自然とそう思った。
一目惚れだった。
お金持ちと結婚したいと不純な動機でこの学校に来たが、今この時は、そんなことも忘れて純粋な恋をしてしまっていた。
初恋である。
「失礼します」
「待って」
「……何でしょうか」
至近距離で見ると、やはり整いすぎている。桜の花びらが一枚、彼女の肩に落ちても、風景の一部にしか見えなかった。
「同じ学校だよな? 新入生だろ?」
彼女は俺の制服を一度だけ見て、すぐに理解したように頷いた
「はい」
「せっかくだから一緒に行かないか?」
「……構いません」
そうして、三人で歩き出す。
レンは一歩だけ後ろに下がり、空気を読むように距離を取った。助かる。今は、それがありがたい。
「……名前、聞いてもいいか?」
ほんのわずかな間。
彼女は迷うというより、判断している顔をした。
「
「俺は天城ハヤトこっちはレン」
「僕、佐久間レンです」
御堂は小さく会釈する
並んで歩くと、不思議なことに視線が集まる。俺とレンと彼女で視線をかっさらう。
(……目立つな)
本人は気づいているのか、いないのか。御堂は背筋を伸ばしたまま、淡々と歩いている。
「さっきは、助かりました」
歩きながら、彼女が言った。
「たまたま見つけただけだよ」
「それでも助かりました、あれは私にとってとても大切なものなんです」
「そうか」
それだけの会話なのに、奇妙に落ち着く。
校門が見えてくる。人の波がさらに密になり、視線の数も増えた。ひそひそとした声が、はっきりと聞こえる。
「……誰、あの子」
「御堂って……まさか」
「一緒にいる男子、なに? イケメンすぎじゃない?」
そのざわめきの中心で、御堂は何も変わらない。
ただ、並んで歩いているだけ。
絶対に彼女を落として見せる。
校門が近づくにつれて、人の流れは一層濃くなった。視線が集まるのを背中で感じる。けれど御堂は歩調を変えない。騒がしさの中心にいながら、まるで自分とは関係がないかのようだった。
校門前に立つと、空気が変わった。
ざわめきが、一瞬だけ低くなる。
「……御堂?」
「まさか、あの御堂……?」
「入ってきたの、あの子?」
囁きは抑えられているのに、はっきりと耳に届く。
御堂は気づいていないのか、気にしていないのか。校門を見上げ、軽く息を吸った。
「……ここですね」
「ああ」
同じ場所に立っているはずなのに、俺たちは明らかに違う注目を浴びていた。男だから、という理由だけじゃない。御堂がここにいる、それ自体が異物だった。
「クラス、同じだといいな」
レンが空気を和らげるように言う。
「そうですね」
御堂は小さく頷く。
名簿が配られ、クラス分けの掲示板へと人が流れる。俺は自然に御堂の隣に立った。距離は、近すぎない。けれど離れてもいない。
名前を追っていく。
天城 隼人。
佐久間 レン。
――御堂 命。
同じクラスだった。
俺はこの奇跡に感謝する。
一瞬、目が合う。
命の口元が、ほんのわずかに緩んだ。錯覚かもしれない。
入学式の列に並ぶ。席は離れていたが、存在は近かった。式辞も校歌も、正直ほとんど頭に入らない。意識の端で、御堂の背筋の伸びた姿だけが残っていた。
式が終わり、教室へ向かう途中。
人の流れが詰まり、自然と歩みが揃う。
「……天城さん」
御堂が、俺の名字を呼んだ。
「ハヤトでいい」
「……わかりました、ハヤトさん。私も命と呼んでください」
ここから何かが始まる。
そう確信しながら、俺は新しい教室の扉をくぐった。