遥香の出産から少し過ぎた。
湊は元気だそうだ。
撮影の方も、順調に進んだ。
現場の空気を読むのも、台詞の“置き方”も、少しずつ身体に入る。
平日は放課後の打ち合わせ。
週末は撮影。
その繰り返しで、時間がすり減っていくはずなのに――逆に、整っていった。
帰り道。
台本の角が丸くなってきたのを見て、俺は一度だけ笑った。
そして、二月の頭。
朝の空気が一段冷たい。
学校の廊下も、窓際がやけに白い。
屋上は寒い。
だから、屋上前の踊り場に集まっていた。
レンが手を擦り合わせながら言う。
「ほんと寒いね……屋上、無理だ」
日和が笑って肩をすくめた。
「無理無理。風、刺さるもん。ここで正解」
恵はコートの襟を整えて、いつもの調子で口元を上げる。
「ふふ。皆さま、ちゃんと防寒なさって? 倒れたら困りますわ」
俺は短く頷く。
「大丈夫」
命は俺の隣で、小さく息を吐いた。
吐く息が白いのを見て、指先が少しだけ動く。
「……寒いですね」
「寒い」
命は頷いて、それ以上は言わない。
でも、今日は少しだけ近い。
日和が俺の顔を覗き込んできた。
「で? 撮影。順調? 倒れてない?」
「倒れてない。進んでる」
「ほら、言った。ハヤト、強い」
レンが安心したみたいに笑う。
「よかった……でも、そろそろ“慣れた頃に疲れ”来るよね」
恵が上品に頷いた。
「その通りですわ。慣れた頃ほど、無理をなさりやすいもの」
命が、そこで小さく口を開いた。
「……はい。無理は、いけません」
俺は命を見る。
短く返す。
「分かってる」
日和が笑顔になる。
「はいはい。分かってるって言えるの、偉い」
屋上は寒い。
だから、屋上前の踊り場に集まっていた。
しばらく雑談していたが、日和が肩をすくめる。
「……のど乾いた。買ってくるね」
その一言で、全員が「それな」みたいに動いた。
俺たちは階段を下りて、購買前の廊下へ向かう。
そこに自販機が並んでいる。
昼休みは混むけど、今は放課後で空いていた。
日和はボタンの前に立って、しばらく動かない。
のんびり迷う。
「……お茶か、ココアか。どっちでもいいのに、決まんない」
レンが小さく笑う。
「お茶でいいじゃん」
「んー……たしかに」
日和はようやくお茶を押して、落ちたペットボトルをゆっくり拾い上げた。
キャップを開けて一口飲む。
「あー……生き返る」
その横で、レンが急に落ち着かない様子で視線を泳がせた。
「……ごめん。ちょっとトイレ」
レンが歩き出して、途中で戻ってくる。
俺の横に並んで、なるべく軽い調子で言った。
「……トイレ、ハヤトも一緒に行かない?」
「じゃあ行く」
日和がゆっくり振り返って手を振る。
「いってら〜。……待ってるね〜」
トイレの手前で、レンが立ち止まった。
入る前に、俺の方を向く。
「……あのさ」
「何」
レンは手袋の指先をいじりながら、なるべく軽く言う。
「もうすぐバレンタインじゃん」
「……そうだな」
「僕、チョコ作ろうかなって思っててさ」
俺は言葉を挟まない。
レンは続ける。
「一人だと失敗しそうだから……ハヤト、一緒に作らない?」
「いいよ」
レンの肩がふっと落ちた。
「ほんと? 助かる」
「いつ」
「明日の放課後とか」
「明日ならいける」
「じゃ、明日でで」
レンが少しだけ笑って、すぐ視線を逸らす。
「……それでさ。作ったら、日和と澪にあげたい」
「二人に?」
「うん」
俺は頷く。
「いいと思う」
レンは小さく息を吐いた。
「じゃあ、決まり。ありがと」
「いい」
レンと俺は、ほぼ同時にトイレから出た。
廊下の空気は少し冷たくて、さっきより静かだった。
レンは手を拭きながら、小さく息を吐く。
「……なんか、すっきりした」
「ならよかった」
俺が言うと、レンは少しだけ笑った。
歩き出しながら、声を落とす。
「明日の放課後、僕んちに集合ね」
「分かった」
「ありがと」
角を曲がると、日和がのんびり手を振っていた。
片手に飲みかけの水。
恵は腕を組み、命は静かにこちらを見ている。
「おかえり〜」
日和がゆるく言う。
「ただいま」
レンが返す。
俺たちは四人のところへ戻った。
レンの歩幅は、行く時より少し軽い。
日和は飲みかけの水を両手で持ったまま、のんびり首をかしげる。
「ん、なんか二人とも落ち着いた?いい顔してる」
レンが先に返した。
「うん。ちょっとだけね」
恵が目を細めて、上品に笑う。
「ふふ。よろしいですわ。寒い日に顔色が良いのは、大事ですもの」
命は俺のコートの袖口を一瞬だけ見て、すぐ視線を戻した。
小さく、丁寧に言う。
「……手、冷えていませんか」
「大丈夫」
俺が短く返すと、命は小さく頷いた。
それだけなのに、呼吸が少し柔らかくなる。
日和が空になったペットボトルをくるっと回す。
「このあと、どうする〜? ここ、じわじわ冷えるよね」
恵が襟元を整えて、上品に笑った。
「でしたら、下へ移動いたしましょう。廊下のほうがまだ暖かいですわ」
日和が手をぱん、と軽く合わせる。
「じゃ、移動しよ。階段のとこ、風くるし」
俺たちは踊り場を離れて、ゆっくり下へ向かった。