放課後、俺はレンの家に向かった。
玄関を開けると、甘い匂いより先に、少しだけ緊張した空気があった。
レンがエプロン姿で立っている。
いつもより口数が少ない。
「……来た」
「来た」
短く返すと、レンは小さく頷いてキッチンへ向かった。
テーブルの上には材料が並んでいた。
板チョコ、生クリーム、バター、ココア、トッピング。
メモには、丸い字で手順が書いてある。
「まず、湯せん。温度上げすぎない」
レンがメモを指で押さえる。
「うん。焦ると分離する」
「分かってる」
俺はボウルに砕いたチョコを入れて、鍋に湯を張る。
レンはゴムベラを持って、ゆっくり混ぜた。
最初は硬い。
でも、熱が入ると、角が取れていく。
艶が出る。
「……きれい」
レンが小さく言う。
「この状態ならいける」
生クリームを少しずつ入れて、混ぜる。
止めない。急がない。
テンポを崩すと、一気にざらつく。
「レン、型」
「うん」
クッキングシートを敷いた型に流し込む。
表面を軽くならす。
トントン、と空気を抜く。
レンの動きは丁寧だ。
慎重すぎるくらい慎重。
でも、それでいい。今日はそれで進む日だ。
「これ、日和の分」
レンが確認するみたいに言う。
「そう」
「……失敗したくない」
「しない」
俺が即答すると、レンは少しだけ笑った。
「ハヤト、そういうのズルい」
「事実だ」
冷蔵庫に入れて、次のボウルを出す。
レンがメモをめくる。
「次、もう一人分」
「うん」
そこで、玄関の鍵の音がした。
カチャ。
ドアが開く音。
足音は静かで、急がない。
レンが小さく肩を揺らす。
「……母さん、帰ってきた」
廊下から、控えめな声がした。
「ただいま」
レンが返す。
「おかえり」
キッチンの入口に、静香さんが立つ。
落ち着いた服。
表情は大きく動かない。
でも目だけが、状況を一瞬で見ていた。
「……天城くん」
「お邪魔しています」
俺が頭を下げると、静香さんは小さく頷く。
「どうぞ。ゆっくりしていって」
言葉は少ない。
けど、拒む空気はない。
静香さんはテーブルの材料に視線を落として、レンを見る。
「作ってるの」
「うん。バレンタインの準備」
「そう」
それだけ言って、静香さんは少し間を置いた。
それから、ほんのわずかに口元を緩める。
「……いい匂い」
レンの耳が少し赤くなる。
「まだ途中」
「途中でも、分かる」
静香さんは冷蔵庫から水を出して、グラスに注いだ。
一口飲んでから続ける。
「火、気をつけて」
「うん」
短い会話。
でも、レンの肩の力が少し抜けたのが分かった。
静香さんはそれ以上踏み込まず、リビングの方へ戻る。
去り際に一度だけ、振り向く。
「……失敗しても、食べるから」
レンが一拍遅れて返す。
「失敗しない」
「そう」
静香さんはそのまま、静かに姿を消した。
レンが息を吐く。
「……今の、褒めてる」
「分かる」
「母さん、あれで結構うれしい時ある」
「だろうな」
俺たちは次の材料を確認する。
板チョコの包みを開ける。
――そこで、レンの手が止まった。
「……あ」
「どうした」
レンが包みの中を見せる。
残りの欠片は、思ったより少ない。
「足りない」
「どのくらい」
「日和達の分は固められた。でも……次、ハヤトの分まで作るには、足りない」
テーブルに静かな間が落ちる。
レンは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめん。計算、甘かった」
俺は首を振る。
「謝ることじゃない」
「でも、せっかく一緒に作ってるのに」
俺は残ったチョコの量を見て、短く言った。
「買いに行くか」
レンが俺を見る。
「そうだね」
レンはコートを引っかけて、財布だけ掴んだ。
「僕が行ってくる。すぐ戻る」
「分かった」
俺が頷くと、レンは玄関で一度だけ振り向く。
「ハヤト、母さんといて。……たぶん大丈夫だから」
「うん」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかって、家の中が静かになった。
キッチンには、溶かしかけのチョコの匂いが残っている。
ボウルの縁に、まだ艶が少しだけ残っていた。
俺は使った道具を端に寄せる。
拭き取れるところだけ拭く。
「……几帳面なのね」
声がして振り向く。
リビングの入口に、静香さんが立っていた。
表情は薄い。けど、目だけはちゃんと見ている。
「散らかしたままだと、続きで困るので」
「そう」
静香さんはキッチンに入ってきて、棚からマグカップを二つ出す。
やかんの湯を注ぐ音。湯気。
「紅茶、飲む?」
「いただきます」
「砂糖は」
「なしで大丈夫です」
静香さんは小さく頷く。
紅茶を一つ俺の前に置いて、自分の分を持って向かいに座った。
少し間。
時計の秒針だけが進む。
静香さんはカップに目を落とす。
会話が終わった、というより、次の言葉を探している沈黙だった。
静香さんが、ゆっくり口を開いた。
「レン、今日は珍しく、最初から決めてた」
「はい」
「普段は、決めるまでが長いの」
「今日は早かったです」
「……あなたがいるから、だと思う」
言葉がまっすぐで、短い。
だから重い。
「俺だけじゃないです。周りもあります」
「周り?」
「日和とか。恵とか。命とか。レンの近く、ちゃんと人がいるので」
静香さんは視線を上げる。
その目に、少しだけ安堵が混じる。
「そう。……それ、安心した」
湯気が少し薄くなる。
静香さんがカップを置いて、指先を揃えた。
「ハヤトさん」
「はい」
「レン、学校で……ちゃんと笑ってる?」
質問の形をしてるけど、たぶん確認だ。
信じたいけど、確認しないと落ち着かないやつ。
「笑ってます」
「本当に?」
「本当です。緊張してる日はありますけど、笑う日は増えてます」
静香さんは小さく息を吐いた。
肩が、ほんの少しだけ下がる。
「……中学に入ってから、前より明るくなったのは分かってた」
静香さんはカップの縁を指でなぞる。
視線は紅茶に落としたまま、言葉を続ける。
「家での顔が、違うの。疲れて帰ってきても、前みたいに黙り込まない。“今日こうだった”って、短くでも話すようになった」
俺は黙って聞く。
静香さんの声は小さい。でも、迷っていない。
「それに……パートナーができてからは、もっと分かりやすい」
「分かりやすい?」
「嬉しそうにしてる。隠してるつもりでも、隠せてない」
静香さんはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「朝、出る前に鏡を見る時間が増えた。帰ってきてからスマホを見る顔も、前より柔らかい。あの子、言葉にするのは下手だけど……大事にしてるのは、見れば分かる」
俺は短く頷く。
「はい。大事にしてます」
静香さんは俺を見た。
その目に、さっきよりはっきりした安心が乗る。
「そう。……それなら、いい」
少し間を置いて、静香さんは続けた。
「レン、昔から素直だから……気持ち、隠すの下手で。その……近くに立ってくれる人がいると、すぐ顔に出るの」
「レンらしい」
「ふふふそうね」
静香さんは俺を見た。
表情は大きく変わらない。
でも、目はさっきより柔らかい。
「だからハヤトさん、ありがとうね」