※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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180話 チョコ作り

 放課後、俺はレンの家に向かった。

 玄関を開けると、甘い匂いより先に、少しだけ緊張した空気があった。

 

 レンがエプロン姿で立っている。

 いつもより口数が少ない。

 

「……来た」

「来た」

 

 短く返すと、レンは小さく頷いてキッチンへ向かった。

 

 テーブルの上には材料が並んでいた。

 板チョコ、生クリーム、バター、ココア、トッピング。

 メモには、丸い字で手順が書いてある。

 

「まず、湯せん。温度上げすぎない」

 

 レンがメモを指で押さえる。

 

「うん。焦ると分離する」

「分かってる」

 

 俺はボウルに砕いたチョコを入れて、鍋に湯を張る。

 レンはゴムベラを持って、ゆっくり混ぜた。

 

 最初は硬い。

 でも、熱が入ると、角が取れていく。

 艶が出る。

 

「……きれい」

 

 レンが小さく言う。

 

「この状態ならいける」

 

 生クリームを少しずつ入れて、混ぜる。

 止めない。急がない。

 テンポを崩すと、一気にざらつく。

 

「レン、型」

「うん」

 

 クッキングシートを敷いた型に流し込む。

 表面を軽くならす。

 トントン、と空気を抜く。

 

 レンの動きは丁寧だ。

 慎重すぎるくらい慎重。

 でも、それでいい。今日はそれで進む日だ。

 

「これ、日和の分」

 

 レンが確認するみたいに言う。

 

「そう」

「……失敗したくない」

「しない」

 

 俺が即答すると、レンは少しだけ笑った。

 

「ハヤト、そういうのズルい」

「事実だ」

 

 冷蔵庫に入れて、次のボウルを出す。

 レンがメモをめくる。

 

「次、もう一人分」

「うん」

 

 そこで、玄関の鍵の音がした。

 

 カチャ。

 ドアが開く音。

 足音は静かで、急がない。

 

 レンが小さく肩を揺らす。

 

「……母さん、帰ってきた」

 

 廊下から、控えめな声がした。

 

「ただいま」

 

 レンが返す。

 

「おかえり」

 

 キッチンの入口に、静香さんが立つ。

 落ち着いた服。

 表情は大きく動かない。

 でも目だけが、状況を一瞬で見ていた。

 

「……天城くん」

「お邪魔しています」

 

 俺が頭を下げると、静香さんは小さく頷く。

 

「どうぞ。ゆっくりしていって」

 

 言葉は少ない。

 けど、拒む空気はない。

 

 静香さんはテーブルの材料に視線を落として、レンを見る。

 

「作ってるの」

「うん。バレンタインの準備」

「そう」

 

 それだけ言って、静香さんは少し間を置いた。

 それから、ほんのわずかに口元を緩める。

 

「……いい匂い」

 

 レンの耳が少し赤くなる。

 

「まだ途中」

「途中でも、分かる」

 

 静香さんは冷蔵庫から水を出して、グラスに注いだ。

 一口飲んでから続ける。

 

「火、気をつけて」

「うん」

 

 短い会話。

 でも、レンの肩の力が少し抜けたのが分かった。

 

 静香さんはそれ以上踏み込まず、リビングの方へ戻る。

 去り際に一度だけ、振り向く。

 

「……失敗しても、食べるから」

 

 レンが一拍遅れて返す。

 

「失敗しない」

「そう」

 

 静香さんはそのまま、静かに姿を消した。

 

 レンが息を吐く。

 

「……今の、褒めてる」

「分かる」

「母さん、あれで結構うれしい時ある」

「だろうな」

 

 俺たちは次の材料を確認する。

 板チョコの包みを開ける。

 ――そこで、レンの手が止まった。

 

「……あ」

「どうした」

 

 レンが包みの中を見せる。

 残りの欠片は、思ったより少ない。

 

「足りない」

「どのくらい」

 

「日和達の分は固められた。でも……次、ハヤトの分まで作るには、足りない」

 

 テーブルに静かな間が落ちる。

 レンは申し訳なさそうに眉を寄せた。

 

「ごめん。計算、甘かった」

 

 俺は首を振る。

 

「謝ることじゃない」

 

「でも、せっかく一緒に作ってるのに」

 

 俺は残ったチョコの量を見て、短く言った。

 

「買いに行くか」

 

 レンが俺を見る。

 

「そうだね」

 

 レンはコートを引っかけて、財布だけ掴んだ。

 

「僕が行ってくる。すぐ戻る」

 

「分かった」

 

 俺が頷くと、レンは玄関で一度だけ振り向く。

 

「ハヤト、母さんといて。……たぶん大丈夫だから」

 

「うん」

 

 ドアが閉まる。

 足音が遠ざかって、家の中が静かになった。

 

 キッチンには、溶かしかけのチョコの匂いが残っている。

 ボウルの縁に、まだ艶が少しだけ残っていた。

 

 俺は使った道具を端に寄せる。

 拭き取れるところだけ拭く。

 

「……几帳面なのね」

 

 声がして振り向く。

 リビングの入口に、静香さんが立っていた。

 表情は薄い。けど、目だけはちゃんと見ている。

 

「散らかしたままだと、続きで困るので」

「そう」

 

 静香さんはキッチンに入ってきて、棚からマグカップを二つ出す。

 やかんの湯を注ぐ音。湯気。

 

「紅茶、飲む?」

「いただきます」

「砂糖は」

「なしで大丈夫です」

 

 静香さんは小さく頷く。

 紅茶を一つ俺の前に置いて、自分の分を持って向かいに座った。

 

 少し間。

 時計の秒針だけが進む。

 

 静香さんはカップに目を落とす。

 会話が終わった、というより、次の言葉を探している沈黙だった。

 

 静香さんが、ゆっくり口を開いた。

 

「レン、今日は珍しく、最初から決めてた」

「はい」

「普段は、決めるまでが長いの」

「今日は早かったです」

「……あなたがいるから、だと思う」

 

 言葉がまっすぐで、短い。

 だから重い。

 

「俺だけじゃないです。周りもあります」

「周り?」

「日和とか。恵とか。命とか。レンの近く、ちゃんと人がいるので」

 

 静香さんは視線を上げる。

 その目に、少しだけ安堵が混じる。

 

「そう。……それ、安心した」

 

 湯気が少し薄くなる。

 静香さんがカップを置いて、指先を揃えた。

 

「ハヤトさん」

「はい」

「レン、学校で……ちゃんと笑ってる?」

 

 質問の形をしてるけど、たぶん確認だ。

 信じたいけど、確認しないと落ち着かないやつ。

 

「笑ってます」

「本当に?」

「本当です。緊張してる日はありますけど、笑う日は増えてます」

 

 静香さんは小さく息を吐いた。

 肩が、ほんの少しだけ下がる。

 

「……中学に入ってから、前より明るくなったのは分かってた」

 

 静香さんはカップの縁を指でなぞる。

 視線は紅茶に落としたまま、言葉を続ける。

 

「家での顔が、違うの。疲れて帰ってきても、前みたいに黙り込まない。“今日こうだった”って、短くでも話すようになった」

 

 俺は黙って聞く。

 静香さんの声は小さい。でも、迷っていない。

 

「それに……パートナーができてからは、もっと分かりやすい」

「分かりやすい?」

「嬉しそうにしてる。隠してるつもりでも、隠せてない」

 

 静香さんはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「朝、出る前に鏡を見る時間が増えた。帰ってきてからスマホを見る顔も、前より柔らかい。あの子、言葉にするのは下手だけど……大事にしてるのは、見れば分かる」

 

 俺は短く頷く。

 

「はい。大事にしてます」

 

 静香さんは俺を見た。

 その目に、さっきよりはっきりした安心が乗る。

 

「そう。……それなら、いい」

 

 少し間を置いて、静香さんは続けた。

 

「レン、昔から素直だから……気持ち、隠すの下手で。その……近くに立ってくれる人がいると、すぐ顔に出るの」

「レンらしい」

「ふふふそうね」

 

 静香さんは俺を見た。

 表情は大きく変わらない。

 でも、目はさっきより柔らかい。

 

「だからハヤトさん、ありがとうね」

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