朝、玄関を出た瞬間から、空気がいつもと違った。
同じ冬の冷たさなのに、学校へ向かう足だけが少し浮いている。
今日はバレンタイン当日。
紙袋の中身は、昨日の夜に何度も確認した。
崩れてない。タグも間違ってない。
準備はできてる。
教室に入ると、レンが先に来ていた。
机の横に置いた袋を見て、目が合う。
「……おはよう」
「おはよう」
レンは声を落とす。
「持ってきた。ちゃんと」
「俺も」
それだけで通じる。
余計な説明はいらない。
午前の授業は、いつもより短く感じた。
休み時間ごとに、誰かの視線が紙袋に向く。
でも、騒ぐほどじゃない。
みんな“今日”の空気を分かってる。
昼休みが終わる頃から、教室の前の空気が少し変わった。
廊下に立ち止まる女子が増える。
手には小さな紙袋や箱。
視線の先は、だいたい同じだった。
「天城くん、これ……よかったら」
「ハヤトくん、受け取ってください」
俺は一つずつ、短く頭を下げて受け取る。
「ありがとう」
「大事に食べる」
レンの机の前にも、同じように人が集まる。
レンは最初こそ少し固かったけど、途中からはちゃんと目を見て受け取っていた。
「ありがとう」
「……うん、嬉しい」
放課後には、机の横の紙袋がもういっぱいだった。
箱が潰れないように、重い順に下へ入れ直す。
レンが隣で苦笑する。
「今年も、多いね」
「多いな」
「帰り、気をつけないと。落としたら終わる」
「終わるな」
俺たちは袋の口をしっかり閉じて、持ち手を握り直した。
廊下を歩くたび、包み紙が小さく触れ合う音がする。
玄関を出ると、冬の空気が頬に刺さった。
それでも手元は少し重くて、少しあたたかい。
今年も、たくさんのチョコを持って帰る。
それは数だけじゃなくて、ちゃんと気持ちの重さだった。
屋上前の踊り場。
風は冷たいけど、今日は誰も文句を言わない。
日和が先に手を振った。
「おっはよー。……なんか、全員ちょっとそわそわしてない?」
恵が上品に微笑む。
「ふふ。そういう日ですもの」
命はいつもの表情で立っている。
でも、指先だけが少し落ち着かない。
俺の視線に気づいて、小さく頷いた。
レンが一歩出る。
いつもより姿勢がいい。
「日和。これ」
小さな箱を、まっすぐ差し出す。
日和は一瞬だけ目を丸くして、すぐ笑った。
「え、私? いいの?」
「うん。受け取って」
日和は両手で受け取る。
「ありがと。めっちゃ嬉しい」
軽い調子なのに、受け取り方は丁寧だった。
レンの肩が、目に見えて下がる。
「……私からもあるよ」
のんびりした調子のまま、日和が自分のバッグを開ける。
中から、小さな包みを取り出した。
派手じゃないけど、角がきれいに揃ってる。
「レン、はい」
レンが目を丸くする。
「え、僕に?」
「うん。今日だし。
いつもありがと、のぶん」
レンは一拍遅れて、両手で受け取った。
「……ありがとう」
日和は肩をすくめて笑う。
「どーいたしまして。味は保証しないけど」
レンが小さく首を振る。
「保証いらない。嬉しい」
その返しに、日和の笑い方が少しだけやわらかくなる。
「そっか。じゃ、渡してよかった」
レンは続けてもう一つ出す。
「澪にも、あとで渡す」
「いいじゃん」
日和がにやっと笑う。
「レン、ちゃんとしてる」
レンは少し照れて、短く返す。
「今日は、ね」
恵はその様子を見て、満足そうに頷いた。
「よろしいですわ。気持ちは、渡してこそですもの」
そのあと、命が小さく前に出る。
俺に向けて、箱を差し出した。
「……ハヤトさん。これ、受け取ってください」
丁寧な声。
目はまっすぐ。
揺れはあるのに、逃げてない。
俺は両手で受け取る。
「ありがとう」
命は一拍置いて、ほんの少しだけ笑った。
「……はい」
短い返事なのに、温度が残る。
命が一歩下がると、恵がコートの袖を整えて前に出た。
小さな箱を両手で持って、いつもの上品な笑みを向ける。
「ハヤトさん。こちら、受け取ってくださる?」
俺は短く頷いて、両手で受け取る。
「ありがとう」
恵は目を細めて、満足そうに頷いた。
「ふふ。きちんと受け取っていただけて安心しましたわ。甘すぎないものを選びましたの。ハヤトさん、そちらのほうがお好きでしょう?」
「分かってるな」
「当然ですわ」
恵は軽く顎を上げて、すぐに柔らかく笑い直す。
「今日は“特別”を渡す日ですもの。わたくしも、きちんと渡したかったんですの」
日和が横でのんびり口を挟む。
「お、恵ちゃんの本命感つよい〜」
「からかわないでくださる?」
恵は言いながらも、機嫌は悪くない。
命は静かにそのやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
冬の空気は冷たいままなのに、踊り場の温度だけ少し上がった気がした。
午後、放課後。
学校を出たあとも、渡す相手は続く。
まず、玲奈。
次に遥香。
玲奈は箱を見た瞬間、ぱっと顔を明るくした。
「わ、うれしい! こういうの、ちゃんと用意してくれるの好き」
空気が一気に柔らかくなる。
受け取り上手だな、と思う。
遥香は箱を胸元で抱えて、やわらかく笑った。
「ありがとう。忙しいのに、ちゃんと準備したんだね」
「準備はした」
「うん。その“ちゃんと”が嬉しい」
そのあと御堂家へ。
家族全員分を渡していく。
綾乃さんは丁寧に受け取り、
「ありがとうございます。気持ちが何より嬉しいです」
と微笑んだ。
澄乃は箱を見て、
「さすが、坊や。そういうところ、私大好き」
と楽しそうに笑う。
由紀子姉さんは短く、
「ありがと。助かる」
と受け取り、すぐ大事そうに脇へ置いた。
千佳は目を輝かせる。
「命姉、見て! すごい、かわいい!」
命は小さく頷いて、
「……良かったですね」
と静かに返す。
でも、口元は少しだけ柔らかい。
最後に母さん。
箱を受け取って、目を細める。
「ありがとう。こういうの、やっぱり嬉しいね」
「よかった」
母さんは小さく笑った。
「今日はいい日だね。渡す方も、受け取る方も」
夜。
部屋に戻って、机に置いた箱を見る。
命と恵からもらった分だ。
包みを開ける前に、一度だけ深呼吸する。
甘い匂いが、まだ残っていた。