朝の空気は、少しだけ冷たかった。駅を出た瞬間、ブレザーの袖口から入り込む風が、意識を現実に引き戻す。桜は満開で、花びらが静かに落ちている。綺麗だと思う前に、足を止めないことを優先した。
人が多い。思っていたよりも、ずっと。
新しい制服、知らない顔、視線の向き。全部を一度に処理しようとして、呼吸が浅くなる。
大丈夫。
そう言い聞かせて、歩く速度を一定に保つ。
(落ち着いて)
校門までの道は、事前に確認してある。改札から右、並木道を抜けて、そのまま直進。問題はない。袋の重みが腕にあることも、さっきまでは確かに感じていた。
――違和感は、ほんの一瞬だった。
軽い。
正確には、軽すぎる。
足が止まる。呼吸が止まる。
腕を見る。
白い袋が、ない。
(……っ)
心臓が、強く一度打った。
すぐに辺りを見回す。後ろ。足元。人の流れ。桜の下。どこにも、ない。
落とした。
認めた瞬間、指先が冷える。
あの袋は、だめだ。
なくしてはいけない。中身の問題じゃない。持っていること自体が、意味を持つものだから。
人の流れに逆らって、来た道を数歩戻る。視線を低くして、地面を探す。
呼吸が、また浅くなる。
(……どうしよう)
声を上げるべきか、一瞬迷う。
でも、それは違う。騒ぎにすれば、余計な目を集めるだけだ。
拾ってくれた人がいる可能性。
その場合、交番に届けられるのが一番いい。
そう考えて、駅の方向へ視線を向けた、そのとき。
人の流れの端で、立ち止まっている二人が見えた。
男子。
同じブレザー。
そのうちの一人が、白い袋を手にしているのが見えた。
(……あ)
胸の奥が、静かにほどける。
でも、足はすぐに動かなかった。
拾った人が、どういう人か分からない。
無理に声をかけて、警戒されるのは避けたい。
少しだけ、距離を詰める。
袋に視線を落とす。刺繍。間違いない。
意を決して、声をかける。
「すみません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
振り返った、その人と目が合う。
――一瞬、思考が止まった。
(……え)
想像していなかった、というだけじゃない。
目の前の男子は、場違いなほど落ち着いて見えた。
背が高い。姿勢がいい。
顔立ちは整っているのに、自己主張がない。
視線が、逃げない。値踏みもしない。ただ、こちらを見ている。
周囲の視線を集めている自覚がないのか、気にしていないのか。
どちらにしても、人の目を引く容姿であることは否定できなかった。
その隣のもう一人は、少しだけ緊張しているようだった。
背は高くないが、線が細く、整った顔立ちをしている。柔らかい印象で、視線の動きに素直さが出ていた。
「……その袋」
視線を、手元へ向ける。
言葉はそれだけで足りた。
「落としたの、私で……」
言い切らない。
確認する必要がある。
相手は、すぐに頷いた。
「交番に届けようと思ってた」
(……よかった)
胸の奥で、そう思った。
安堵はある。でも、油断はしない。
「ありがとうございます」
感謝は、必要な分だけ伝える。
袋を受け取るとき、指先が一瞬だけ触れた。
その感触が、なぜか記憶に残った。
袋を受け取って、胸に抱く。
指先に伝わる重みで、ようやく呼吸が元に戻った。
(……大丈夫)
中身が無事かどうかじゃない。
これを持っているかどうかが、今の私には重要だった。
御堂として外に出るとき、必ず携えるもの。
何かあったとき、庇護を求めるための印。
そして――将来、私自身の意思を通すための、唯一の鍵。
落としたままだったら、
誰の手に渡っていたか分からない。
最悪の想定が、頭をよぎる。
だから、見つかった瞬間、ほっとしてしまった。
……それだけのはずだった。
なのに。
彼は、まだそこにいた。
視線が、外れない。
(……なに)
警戒するべきだ。
私は、そう教えられてきた。
御堂の名を持つ者として、
不用意に人と関わらないこと。
特に、男には。
この世界で、男は希少だ。価値がある。
そして、私が名家の生まれだと知った瞬間、距離を詰めてくる男は少なくない。
目的は分かりやすい。
立場。庇護。将来。
言葉は丁寧でも、視線の奥にあるものは、いつも同じだ。
だから――
男性に気を許してはいけない。
それは、感情の問題じゃない。
御堂として生きるために、最初に教えられた判断基準だった。
でも。
目の前の彼からは、
計算の気配がしなかった。
欲しがる目でも、怯える目でもない。
ただ、まっすぐに、こちらを見ている。
「待って」
声をかけられる。
反射的に足を止めて、振り返る。
「……何でしょうか」
距離は、保ったまま。
「同じ中学だろ。入学式」
一瞬だけ、彼の制服を見る。
校章。学年。間違いない。
「はい」
「せっかくだから一緒に行かないか?」
(……一緒に?)
意外だった。
拾って終わり、でいいはずなのに。
断る理由は、すぐに浮かぶ。
目立つ。
噂になる。
余計な注目を集める。
でも同時に、別の判断も浮かぶ。
同じ学校。
同じ入学式。
人の流れは、もうできている。
ここで一人で離れる方が、
かえって不自然だ。
(……合理的、か)
私は感情で動くのが、得意じゃない。
だから、理由を並べる。
一緒に行くことで、危険は増えない。
相手は、さっき袋を交番に届けようとしていた。
少なくとも、今この場で害はない。
それでも――
胸の奥が、ほんの少しだけざわついている。
警戒とは、違う。
嫌悪でもない。
(……悪くない)
そう判断した瞬間、結論はもう出ていた。
「……構いません」
そう口にした自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。
感情が乗っていない、いつもの調子だ。
けれど、言い終えた直後、胸の奥がわずかに揺れる。
後悔ではない。かといって、確信でもない。
理由を探そうとして、やめた。
言葉にしてしまえば、どれも違う気がしたから。
ただ、何かが動いた。
それ以上は、分からない。
自然に、歩き出す流れになる。
三人で並ぶ形だ。
彼――天城さんは、私の半歩前を歩かない。
かといって、後ろに下がることもない。
距離の取り方が、妙に正確だった。
(……女性慣れしている?)
そう思った瞬間、首を横に振る。
断定するには、情報が足りない。
距離の取り方は丁寧だ。
視線も、言葉も、慎重に選んでいる。
けれど――
それが経験のなさからなのか、経験の多さゆえの選択なのかは、分からない。
視線を向けられても、必要以上に反応しない。
周囲を見ているが、落ち着きを崩さない。
隣の佐久間は、少しだけぎこちない。
視線が泳ぎ、時折こちらを気にしては、すぐに逸らす。
それでも、無理に割り込んでこない。
それぞれが、それぞれの距離を保っている。
並木道を進む。
桜の花びらが、足元に落ちる。
人の視線が集まっているのが分かる。
いつものことだ。
けれど今日は、少しだけ違う。
私だけじゃない。
天城さんにも、向けられている。
(……やっぱり、目立つ)
容姿だけじゃない。
立ち方、歩き方、視線。
周囲に合わせようとしないのに、浮いていない。
不思議な感覚だった。
「さっきの袋、大事なものだったんだな」
一瞬、言葉に詰まる。
否定も肯定も、しない選択肢が浮かぶ。
「……ええ」
それだけ答えた。
深く聞いてこない。
頷いて、それ以上は触れない。
(……踏み込まない人)
それは、安心でもあり、少しだけ物足りなくもあった。
自分でも理由は分からない。
校門が見えてくる。
人の流れが、さらに密になる。
ざわめきの中で、私は一度だけ息を吸った。
(……ここまで来たなら)
今日一日は、
この選択を、受け入れてみよう。
そう思いながら、
私は三人で並んだまま、校門をくぐった。