※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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189話 陽菜乃実家に戻る

 春休み初日の夜、御堂家の玄関にはいつもより静かな緊張があった。

 

「ハヤトさん、来ました」

 

 命が小さく言って、俺の腕にそっと腕を重ねる。

 

 力は強くない。けど、離す気はないらしい。

 

「うん。行こう」

 

 扉が開いて、冷たい空気と一緒に足音が入ってくる。

 

「ただいま戻りました、お婆様。お母様」

 

 長い移動のあとでも、声はまっすぐだった。

 

「おかえり、陽菜乃」

「おかえりなさい。卒業おめでとうございます」

 

 澄乃さんと綾乃さんの声が重なる。

 

 トランクの持ち手を離した陽菜乃さんが、まず命を見て、それから俺を見る。

 

「ただいま、命。……ハヤトさんも、お久しぶりでございます」

「お帰りなさい。ご卒業、おめでとうございます」

 

 リビングに移ると、温かいお茶の湯気が立っていた。

 

 命は俺の隣に座っても、腕をほどかない。

 

 陽菜乃さんの視線が、その腕に静かに止まる。

 

「……私、こうしていると落ち着くので」

 

 命が先に言い切る。

 

 陽菜乃さんの目元が、やわらかくほどけた。

 

「左様でございますか。殿方の腕に自然に寄り添えるようになったのは、とても良い変化でございます。」

「以前の命は気持ちを内に納めすぎるところがありましたが、今はご自身の意思で前に出られている。私はその変化を、何より喜ばしく存じます」

 

 命の指先が、俺の腕を少しだけ握り直す。

 

「……ありがとうございます、陽菜乃さん姉さん」

 

 陽菜乃姉さんは、静かにうなずいた。

 

「お礼には及びません。あなたが自分の心で選んだこと、それがいちばん確かな答えでございます」

 

 玄関の空気が、少しだけやわらいだ。

 

「坊や」

 

 澄乃さんが湯呑みを置く。

 

「はい、澄乃さん」

「陽菜乃は家の実務に戻るけれど、今まで通りでいいのよ。坊やは坊やのまま、そばにいてちょうだい」

「ええ、ハヤトさん。気負わなくて大丈夫ですよ。これまで通り、みんなで一緒に進めていきましょう」

 

 澄乃さんと綾乃さんの声は、いつも通りやわらかかった。

 

「はい。分かりました。俺は俺のやり方で、ちゃんと支えます」

 

 陽菜乃さんが、まっすぐ俺を見る。

 

「ありがとうございます、ハヤトさん。そのお言葉で十分でございます。無理に構えず、今まで通り命のそばにいてくだされば、それが何より心強うございます」

 

 命が俺の腕に触れたまま、小さくうなずく。

 

「……はい。私も、その形がいいです」

 

 綾乃さんが手を合わせ、場を明るく戻した。

 

「では、このお話はここまでにいたしましょう。まずは温かいうちに、お夕食をどうぞ」

「はい、お母様。いただきます」

 

 席に向かう前に、陽菜乃さんがもう一度こちらへ向き直る。

 

「ハヤトさん、明朝少しだけお時間を頂けますか。庭を歩きながら、引き継ぎの段取りを穏やかにご相談したく存じます」

「分かりました。朝、行きます」

「ありがとうございます。命もご一緒にいらしてくださいませ」

「はい、陽菜乃姉さん」

 

 玄関の空気は、緊張よりも安心のほうが強くなっていた。

 

 食堂に入ると、湯気の立つ皿がちょうど並び終わったところだった。

 春野菜の炊き合わせに、鯛の香草焼き、地鶏のすまし椀。

 

 席に着いた陽菜乃さんへ、綾乃さんがやわらかく笑う。

 

「温かいうちにどうぞ。今日はあなたの好きな味にしてあります」

「ありがとうございます、お母様。とても良い香りでございます」

 

 最初の一口を味わってから、陽菜乃さんは静かに箸を置いた。

 

 そこで千佳が身を乗り出す。

 

「陽菜乃姉、学校でどんなことがあったか聞きたい!」

 

 陽菜乃さんは口元をやわらかくして、静かにうなずく。

 

「かしこまりました。では、印象に残っている出来事をひとつお話しいたします」

 

 卓の空気が、自然に静かになる。

 

「卒業式の二週間前、提携先の研修施設で設備故障が重なり、外部から来ていた学生の宿泊先が一斉に止まりました」

「加えて、代替ホテルの契約書には、緊急時に通常の三倍請求を認める条項が含まれておりましたので、私は署名前に差し止め、大学側と施設側へ同時に是正案を提示いたしました」

「結果として追加請求は撤回され、全員分の部屋は確保でき、翌朝の式典も遅延なく実施できました」

「十分すごい」

 

 由紀子姉さんが短く言う。

 

「すごいです。混乱の中で、そこまで冷静に動けるの、尊敬します」

 

 命がまっすぐに言うと、陽菜乃さんは穏やかに返した。

 

「ありがとうございます。ですが、特別なことではございません。状況を整理し、順番に手を打っただけでございます」

 

 綾乃さんが椀を持って立ち上がる。

 

「お話はとても勉強になりますけれど、まずは温かいうちに召し上がってくださいね。ハヤトさん、おかわりをよそいます」

「ありがとうございます。お願いします」

「坊や、遠慮しないでしっかり食べなさいな」

「はい、澄乃さん」

 

 湯気の立つ椀を受け取ると、陽菜乃さんがこちらへ向き直る。

 

「ハヤトさん、明朝のご相談は予定どおり東屋(あずまや)でお願いできますか。命と三人で、家の実務に触れる範囲を無理なく整えたく存じます」

「分かりました。朝に行きます」

「ありがとうございます。では今夜は、祝いの席としてゆっくりいたしましょう」

 

 その一言で、食堂の空気がまたやわらぐ。

 

 春休み初日の夜は、難しい話も温かい料理の中にうまく収まっていった。

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