春休み初日の夜、御堂家の玄関にはいつもより静かな緊張があった。
「ハヤトさん、来ました」
命が小さく言って、俺の腕にそっと腕を重ねる。
力は強くない。けど、離す気はないらしい。
「うん。行こう」
扉が開いて、冷たい空気と一緒に足音が入ってくる。
「ただいま戻りました、お婆様。お母様」
長い移動のあとでも、声はまっすぐだった。
「おかえり、陽菜乃」
「おかえりなさい。卒業おめでとうございます」
澄乃さんと綾乃さんの声が重なる。
トランクの持ち手を離した陽菜乃さんが、まず命を見て、それから俺を見る。
「ただいま、命。……ハヤトさんも、お久しぶりでございます」
「お帰りなさい。ご卒業、おめでとうございます」
リビングに移ると、温かいお茶の湯気が立っていた。
命は俺の隣に座っても、腕をほどかない。
陽菜乃さんの視線が、その腕に静かに止まる。
「……私、こうしていると落ち着くので」
命が先に言い切る。
陽菜乃さんの目元が、やわらかくほどけた。
「左様でございますか。殿方の腕に自然に寄り添えるようになったのは、とても良い変化でございます。」
「以前の命は気持ちを内に納めすぎるところがありましたが、今はご自身の意思で前に出られている。私はその変化を、何より喜ばしく存じます」
命の指先が、俺の腕を少しだけ握り直す。
「……ありがとうございます、陽菜乃さん姉さん」
陽菜乃姉さんは、静かにうなずいた。
「お礼には及びません。あなたが自分の心で選んだこと、それがいちばん確かな答えでございます」
玄関の空気が、少しだけやわらいだ。
「坊や」
澄乃さんが湯呑みを置く。
「はい、澄乃さん」
「陽菜乃は家の実務に戻るけれど、今まで通りでいいのよ。坊やは坊やのまま、そばにいてちょうだい」
「ええ、ハヤトさん。気負わなくて大丈夫ですよ。これまで通り、みんなで一緒に進めていきましょう」
澄乃さんと綾乃さんの声は、いつも通りやわらかかった。
「はい。分かりました。俺は俺のやり方で、ちゃんと支えます」
陽菜乃さんが、まっすぐ俺を見る。
「ありがとうございます、ハヤトさん。そのお言葉で十分でございます。無理に構えず、今まで通り命のそばにいてくだされば、それが何より心強うございます」
命が俺の腕に触れたまま、小さくうなずく。
「……はい。私も、その形がいいです」
綾乃さんが手を合わせ、場を明るく戻した。
「では、このお話はここまでにいたしましょう。まずは温かいうちに、お夕食をどうぞ」
「はい、お母様。いただきます」
席に向かう前に、陽菜乃さんがもう一度こちらへ向き直る。
「ハヤトさん、明朝少しだけお時間を頂けますか。庭を歩きながら、引き継ぎの段取りを穏やかにご相談したく存じます」
「分かりました。朝、行きます」
「ありがとうございます。命もご一緒にいらしてくださいませ」
「はい、陽菜乃姉さん」
玄関の空気は、緊張よりも安心のほうが強くなっていた。
食堂に入ると、湯気の立つ皿がちょうど並び終わったところだった。
春野菜の炊き合わせに、鯛の香草焼き、地鶏のすまし椀。
席に着いた陽菜乃さんへ、綾乃さんがやわらかく笑う。
「温かいうちにどうぞ。今日はあなたの好きな味にしてあります」
「ありがとうございます、お母様。とても良い香りでございます」
最初の一口を味わってから、陽菜乃さんは静かに箸を置いた。
そこで千佳が身を乗り出す。
「陽菜乃姉、学校でどんなことがあったか聞きたい!」
陽菜乃さんは口元をやわらかくして、静かにうなずく。
「かしこまりました。では、印象に残っている出来事をひとつお話しいたします」
卓の空気が、自然に静かになる。
「卒業式の二週間前、提携先の研修施設で設備故障が重なり、外部から来ていた学生の宿泊先が一斉に止まりました」
「加えて、代替ホテルの契約書には、緊急時に通常の三倍請求を認める条項が含まれておりましたので、私は署名前に差し止め、大学側と施設側へ同時に是正案を提示いたしました」
「結果として追加請求は撤回され、全員分の部屋は確保でき、翌朝の式典も遅延なく実施できました」
「十分すごい」
由紀子姉さんが短く言う。
「すごいです。混乱の中で、そこまで冷静に動けるの、尊敬します」
命がまっすぐに言うと、陽菜乃さんは穏やかに返した。
「ありがとうございます。ですが、特別なことではございません。状況を整理し、順番に手を打っただけでございます」
綾乃さんが椀を持って立ち上がる。
「お話はとても勉強になりますけれど、まずは温かいうちに召し上がってくださいね。ハヤトさん、おかわりをよそいます」
「ありがとうございます。お願いします」
「坊や、遠慮しないでしっかり食べなさいな」
「はい、澄乃さん」
湯気の立つ椀を受け取ると、陽菜乃さんがこちらへ向き直る。
「ハヤトさん、明朝のご相談は予定どおり
「分かりました。朝に行きます」
「ありがとうございます。では今夜は、祝いの席としてゆっくりいたしましょう」
その一言で、食堂の空気がまたやわらぐ。
春休み初日の夜は、難しい話も温かい料理の中にうまく収まっていった。