翌朝、
俺と命は並んで座り、湯気の立つ茶を前にして、陽菜乃姉さんの言葉を待つ。
命はいつものように、俺の腕をそっと取っている。
「朝早くにお時間を頂き、ありがとうございます」
陽菜乃さんは丁寧に一礼してから、まず命へ視線を向けた。
「今日は、命のことをゆっくり伺いたく存じます。無理なく過ごせておりますか」
命は視線を落とさず、小さくうなずく。
「はい。前より、ちゃんと眠れる日が増えました」
陽菜乃さんは、急がずに言葉を重ねる。
「それは何よりでございます。気持ちが張りすぎる日は、まだございますか」
「あります。でも、長くは続きません」
命の指先が、俺の腕を少しだけ握り直す。
「ハヤトさんが隣にいてくれるので、戻ってこられます」
陽菜乃さんの目元が、やわらかくほどけた。
「左様でございますか。命がご自身の言葉でそう申せるようになったことを、私はとても嬉しく思います」
少し間を置いて、今度は俺を見る。
「ハヤトさん、命の様子で、気づかれた変化はございますか」
「そうですね……笑顔が増えたと思います」
陽菜乃姉さんは静かにうなずく。
「ありがとうございます。短くても、十分に伝わります」
命は茶碗を両手で包んで、息をひとつ整えた。
「陽菜乃姉さん。私、まだ迷うことはあります。でも、迷ったままでも止まらないようにしたいです」
「ええ、その歩み方でよろしゅうございます。迷いがあることと、進めないことは別でございますから」
庭の竹が、風に触れて小さく鳴る。
陽菜乃さんは湯呑みを置き、穏やかに言う。
「実は、ひとつご相談がございます。私、いまだパートナーを決められずにおります」
「ご縁のお話は頂くのですが、どなたにも頷けません。このままでは周囲にもご迷惑をおかけしてしまいます」
陽菜乃さんは、そこで一度だけ視線を庭へ逃がした。
「率直に申しますと、良い殿方が見当たらないのでございます。肩書だけで近づく方、こちらの都合を聞かずに話を進める方、言葉は立派でも肝心なところで引いてしまう方……そのようなご縁ばかりでございました」
命が静かに相槌を打つ。
「……そうだったんですね」
「はい。私が求めるのは、派手さではございません。逃げない方、私を急かさずに歩幅を合わせてくださる方、必要な時だけ前に出て、普段は静かに支えてくださる方、目上には礼を尽くし、内と外で態度を変えない方。そのような殿方が理想でございます」
「……大和男子ってことですよね」
この世界の今の時代に果たして居るのだろうか?
命は俺の腕に触れたまま、まっすぐ陽菜乃さんを見る。
「つまり、ハヤトさんの様な人がお好きなのですか」
俺は一拍遅れて、自分の名前が出た意味をのみ込む。
「……え、俺?、ですか」
思わず声が上擦ってしまった。
陽菜乃さんの指先が、湯呑みの縁でわずかに止まる。
陽菜乃さんは小さく息を整え、目を伏せたまま答える。
「……否定は、できません。条件として申し上げた人物像に、ハヤトさんが重なるのは事実でございます」
胸の奥で、驚きのあとに、素直な嬉しさが広がった。
陽菜乃さんは綺麗だし、パートナーにできるならそうなりたい。
命は俺の腕に触れたまま、陽菜乃さんへまっすぐ視線を向けた。
「陽菜乃姉さん。でしたら、隼人さんをパートナー候補としてお考えになってはいかがでしょうか。私は、隼人さんなら安心です」
意外だった。命がこんな提案をするなんて。
陽菜乃さんはわずかに目を伏せ、すぐに丁寧に言葉を返す。
「命、そのご提案はありがたく存じます。ですが、ハヤトさんのお気持ちをないがしろにはできません。私の都合だけで決めることではございませんので、まずはハヤトさんのお考えを伺いたく存じます」
俺は一度だけ息を整えて、陽菜乃さんを見る。
「陽菜乃さんの相手になれたら俺もうれしいです。陽菜乃さんさえよければパートナーでも婚約者でも構いません」
そう答えると陽菜乃さんは少し考えているようだった。
「……少し考える時間が欲しいです」
陽菜乃さんはそう言って、湯呑みの縁に指を添えたまま目を伏せた。
俺はうなずく。
「分かりました。返事は急がなくていいです。俺は待ちます」
命が俺の腕に触れたまま、静かに口を開く。
「私は、隼人さんなら安心です。でも、陽菜乃姉さんが納得して決めるのが一番だと思います」
陽菜乃さんは命を見て、やわらかく微笑んだ。
「ありがとうございます、命。あなたがそう言ってくれることは、私にとってとても心強うございます」
少しだけ間が空く。
竹の葉が擦れる音だけが、東屋を通り抜けた。
「ハヤトさん」
陽菜乃さんがまっすぐ俺を見る。
「先ほどのお言葉、軽く受け取るつもりはございません。私も真剣に考えます。よろしければ、数日だけお時間を頂けますでしょうか」
「はい。陽菜乃さんのペースで」
「ありがとうございます。その間は、これまで通りでお願いいたします。周囲へはまだ申さず、まずはお婆様とお母様にだけ私から順にご相談いたします」
「分かりました」
「はい、陽菜乃姉さん。私もそのほうがいいです」
陽菜乃さんは深く一礼した。
「お二人とも、ありがとうございます。……少し肩の荷が下りました」
その声は、いつもの整った調子のままなのに、ほんの少しだけ温度があった。
俺は息を整えて、短く返す。
「俺も、言えてよかったです」
東屋の外から、朝食の支度を知らせる足音が近づいてくる。
今日はここまでだ。
でも、もう曖昧なままではない。三人とも、同じ方向を見ているのが分かった。