陽菜乃視点
少し時間が過ぎ、障子越しの光がはっきり明るくなるころ、私は自室の窓辺で手帳を閉じた。
窓を少し開けると、冷えた空気が頬をなでた。
玄関先で、ハヤトさんが鞄の肩紐を直している。
動きに迷いがない。
「命、行ってくる」
「はい。お気をつけて、ハヤトさん」
命は門まで出ず、玄関の段で手を重ねて見送っていた。
無理に追わない。けれど、目は離さない。
あの距離感は、二人らしい。
ハヤトさんが車に乗り込み、静かに発進する。
私は窓辺で小さく頭を下げた。
「どうか、本日もご無事で」
車が角を曲がって見えなくなってから、私は指先を握り直す。
寂しさより、焦りが残った。
先ほど、私は「考える時間が欲しい」と申し上げた。
あれは逃げではない。
けれど、曖昧なまま長引かせるのも誠実ではない。
私は羽織を整え、綾乃さんのいる小応接へ向かった。
「お母様、少々ご相談してもよろしいでしょうか」
「もちろんです、陽菜乃。どうぞ座ってください」
湯呑みが置かれ、湯気がゆっくり上がる。
お母様は急かさず、私が口を開くのを待ってくださった。
「本日、東屋で命とハヤトさんと話す機会がございました。その際、私のパートナーの件に話が及び、ハヤトさんから『相手になれたらうれしい』とお言葉を頂きました。私はすぐにお返事できず、少し考える時間をお願いした次第でございます」
「そうだったのですね。まずは、あなたの気持ちから聞かせてください」
私は湯呑みを両手で包み、息を整えてから答える。
「……私、まだ“好き”と断言できるところまでは至っておりません。ただ、ハヤトさんには好感を持っております。もし恋人として時間を重ねれば、惚れると思います」
お母様はやわらかく笑って、まっすぐうなずいた。
「正直でいいわ、陽菜乃。ハヤトはいい男の子よ」
「はい。それは、私も同じ印象でございます」
「なら、結論を急がなくて大丈夫です。まずは“どう進めるか”だけ決めましょう。あとは同じ時間を重ねながら、少しずつ確かめていけばいいですよ」
私は背筋を伸ばして頷く。
「承知いたしました。今夜、ハヤトさんと命の前で、期間と確認する点を整理してお話しいたします」
「ええ、それで十分です。あなたの言葉で伝えれば、きっときれいにまとまりますよ」
胸の中の迷いが、少しずつ形を持ちはじめた。
小応接を出たあと、私はそのままお婆様の和室へ向かった。
襖の前で一度姿勢を整え、静かに声をかける。
「お婆様、陽菜乃でございます。少々ご相談してもよろしいでしょうか」
「入りなさいな、陽菜乃。ちょうどお茶を淹れたところよ」
室内には、焙じ茶の香りがやわらかく広がっていた。
お婆様は私の顔をひと目見て、扇子を膝に置く。
「難しい顔をしているわね。貴方の事だから綾乃とはもう話したのでしょう」
「はい、お母様には先ほど」
「なら、今度は私の番ね。聞かせてちょうだい」
私は東屋でのやり取りを、順にお伝えした。
命が私を気遣ってくれたこと。
ハヤトさんが、パートナーでも婚約者でも構わないと真剣に言ってくださったこと。
そして、私がすぐに答えを出せず、時間を頂いたこと。
話し終えると、お婆様は小さくうなずいた。
「良い順番で話せているわ。まず、それが立派よ」
私は湯呑みを持ち直し、正直に口を開く。
「お婆様。私はまだ“好き”と言い切れません。ただ、好感は確かにございます。恋人として時間を重ねれば、惚れる気がいたします」
「ええ、その感覚で十分よ。恋は最初から完成していなくていいの」
お婆様は目を細め、少しだけ声を落とす。
「坊やはね、逃げない子よ。あなたが誠実に向き合えば、同じだけ誠実に返してくれるわ」
胸の奥で、固かったものがほどける。
「……私の都合を押しつける形にならないか、それが怖いのでございます」
「押しつけるかどうかは、決め方で決まるの。あなたの気持ちを隠さず伝えて、相手の気持ちも同じ重さで受け取る。そうすれば、押しつけにはならないわ」
私はまっすぐ頷く。
「はい。今夜、命とハヤトさんの前で、曖昧にせずお伝えいたします」
「それでいいわ。家のため、は最後でいい。あなたがその人と並びたいかどうか、先にそこを見なさい」
「承知いたしました」
お婆様は、最後にいつものやわらかい笑みを見せた。
「陽菜乃。あなたは十分に整っているわ。あとは、言葉にするだけ」
私は深く一礼する。
「ありがとうございます、お婆様」
廊下に出ると、昼の光はさらに明るくなっていた。
今夜は逃げずに話す。
そう決めると、足取りは迷わなかった。
夜。
撮影から戻ったハヤトさんが、本邸の玄関で靴をそろえる音がした。
私は廊下の灯りの下で一礼する。
「おかえりなさいませ、ハヤトさん」
「ただいま。待たせました」
短い返事はいつも通りで、無理に取り繕う気配がない。
それだけで、朝から抱えていた緊張が少しほどけた。
「もしよろしければ、少しだけお時間を頂けますでしょうか」
「うん。話しましょう」
私はハヤトさんを東屋へ案内した。
庭は冷えていたが、今夜はこの静けさがちょうどよかった。
「本日、私が“考える時間が欲しい”と申し上げた件でございます」
私は膝の上で指先をそろえ、言葉を選ぶ。
「率直に申し上げます。私は、まだ“好き”と断言できるところまでは至っておりません」
「ですが、ハヤトさんには確かな好感を持っております。恋人として向き合う時間を頂ければ、いずれこの気持ちは確かなものになるかと存じます」
「家の都合ではなく、私自身の意思として、あなたと向き合いたいのでございます」
ハヤトさんは、間を置いてうなずいた。
「分かりました。正直に言ってくれて、うれしいです。」
「俺も、陽菜乃さんをちゃんと知りたい。中途半端にはしたくないです」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。
私は呼吸を整えて、もう一歩だけ踏み込んだ。
「では、お願いがございます。いきなり形だけ決めるのではなく、まずは互いを知る時間を頂けますでしょうか」
「その上で、私の気持ちが“好感”から先へ進むか、誠実に確かめたく存じます」
「いいと思います」
「期間は、陽菜乃さんが決めてください」
そこへ、足音がひとつ近づいた。
命が湯呑みを三つ載せた盆を持って、東屋の入口で立ち止まる。
「入っても、よろしいですか」
「ええ、命。ちょうどあなたにも聞いていただきたいところでございます」
命は私の隣に座り、ハヤトさんの顔を見てから、はっきりと言った。
「私は賛成です。ハヤトさんなら安心します」
「陽菜乃姉さんが、自分の気持ちで決めるなら、それが一番いいです」
私は小さくうなずいた。
「ありがとう、命。では、こういたしましょう。まず一か月、私とハヤトさんは“互いを知る期間”として、食事と外出の時間を重ねます。家の外へ大きく公表はせず、まずはお婆様とお母様にだけ共有いたします」
「分かりました。俺はその形で進めたいです」
「はい。私も異存ございません」
湯気の立つ茶の香りが、冷えた空気をやわらげる。
朝は迷いが先に立っていた。
けれど今は、迷いの中にも進む方向だけは、はっきり見えていた。