帰宅して着替えを済ませると、もう一度スマホを確認した。
時刻は二十時。約束より少し早い。
玄関を出ると、門灯の下に陽菜乃さんが立っていた。
濃紺のコートに、白い手袋。昼間のきりっとした空気より、少しだけ柔らかく見える。
「お待たせいたしました、ハヤトさん。お時間を作ってくださりありがとうございます」
「大丈夫。行きましょう」
並んで歩き出すと、春の夜風が頬を撫でた。
住宅街を抜けて、川沿いの遊歩道へ出る。街灯の間隔が広く、足音だけが小さく続いた。
「本日は、昼の賑やかな時間を過ごされたと伺いました。……楽しまれましたか」
「はい。恵が初ゲーセンで、かなり本気になってた」
陽菜乃さんが上品に笑う。
「そうでございましたか。恵さんがそこまで夢中になるとは、少し意外でございます」
少し歩いて、陽菜乃さんが呼吸を整えるように間を置いた。
「今朝の件ですが、お母様とお婆様に相談いたしました」
「うん」
「本日、お母様とお婆様に相談し、『言葉で整えるより、同じ時間を重ねて確かめなさい』と申されました。ですので今夜は結論ではなく、約束を一つ頂きたく存じます。次のお休み、昼の時間を私にくださいませんか」
陽菜乃さんは淡い和服の袖をそろえ、帯の端に添えた指先をわずかに強ばらせた。
「分かりました。次の休み、昼を空けます」
俺がそう返すと、陽菜乃さんは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。……実のところ、先ほどの言い回しは三度ほど頭の中で練習してまいりました」
「意外です。陽菜乃さんなら、迷わず言えると思ってた」
「迷いますとも。意識しているお相手のこととなれば、なおさらでございます」
川沿いの遊歩道を、もう少し先まで歩く。
人通りは減って、遠くの信号音だけが夜に溶ける。
「次の昼、どこへ行きたいですか」
「静かな喫茶を一軒、存じております。窓際の席で、ゆっくり話せる店でございます」
「そのあと、もしよろしければ図書館へ。静かな場所で、同じ本棚を見ながらお話ししたく存じます」
「いいですね。陽菜乃さんの選ぶ本、見てみたいです」
陽菜乃さんが少しだけ笑う。
さっきまでの張り詰めた空気が、そこでほどけた。
橋のたもとの自販機の前で、陽菜乃さんが足を止める。
「温かいもの、いかがでしょうか。まだ、もう少しだけ歩きたいのでございます」
「俺もそう思ってました」
缶の落ちる音が、夜に小さく響く。
缶を持ったまま、俺たちはまた歩き出す。
河川敷付近まで来ると街灯はぐっと減り、遠くの橋の灯りだけが川面に細く揺れていた。
堤防の斜面をなでる風が草を鳴らし、その隙間を縫うように水の音がはっきり届く。
さっきまでの町の気配は背中のほうへ遠のいて、ここだけ夜の輪郭が少し深くなる。
さっきまで話していた空気の続きを、どちらから切り出すか。
その間を埋めるみたいに、陽菜乃さんが静かに口を開いた。
「差し支えなければ、もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「ハヤトさんは、ご趣味は何かございますか」
「……趣味ですか、ぱっと思いつくのは二つほど」
俺は少し考えてから、正直に答える。
「歌は、得意です。声を出すと頭の中が整理できる気がします。上手い下手より、ちゃんと気持ちを乗せられたかで満足するタイプです」
「なるほど。技術よりも、心の向きを大切になさるのですね」
「はい。そうですね」
陽菜乃さんはうなずいて、歩幅を俺に合わせた。
「では、もうひとつのご趣味は」
質問がまっすぐで、逃げる理由もない。
「……言い方が難しいですけど」
「率直に仰ってくださいませ。私はそのほうがありがたいです」
俺は一度だけ息を吐いた。
「好きな相手と、ちゃんと近い距離でいるのが好きです」
「それと、俺はエッチなことも好きです」
「でも、進めるのは相手の気持ちがそろってからにします」
陽菜乃さんの歩みが一瞬だけ止まり、すぐにまた動き出す。
驚いた顔はしたけど、目はそらさなかった。
「……正直でございますね」
「隠して後でズレるほうが嫌だから」
「その姿勢は、誠実だと存じます」
「………昼は理性的で、夜は情熱的。女性には惹かれる要素でございます」
陽菜乃さんは少し恥ずかしそうに答える。
陽菜乃さんは袖口を整えながら、丁寧に続ける。
「私も、親しさそのものを否定するつもりはございません」
「ただ、私にとっては順番が大切でございます。信頼、言葉、そして距離。その順に重ねたいのです」
「分かります。俺も同じです」
「気持ちの確認なしで進めるつもりはない」
小さくうなずいた陽菜乃さんの表情が、少しやわらいだ。
「ありがとうございます。今の一言で、だいぶ安心いたしました」
少し先のベンチに腰かけると、缶の温かさが手のひらに残ったまま、夜風だけがゆっくり通り過ぎる。
「ハヤトさん」
「はい」
「先ほど“好きな相手と近い距離でいることが好き”と仰いましたが、その“好きな相手”には、私も含まれておりますか」
質問の重さに、背筋が伸びる。
俺は短く、でも曖昧にしないで返した。
「はい。含まれてます」
「だから急ぎたくない。ちゃんと陽菜乃さんの気持ちに合わせたい」
陽菜乃さんは視線を落として、ほんの少し笑った。
「……本当に、まっすぐな方でございますね」
「私、そういうところに惹かれているのだと思います」
少し沈黙が続く。
気まずさじゃなく、言葉がちゃんと届いたあとの静けさだった。
陽菜乃さんは正面を向いたまま言った。
「本日の私は、うまくできておりましたでしょうか」
「はい。まっすぐで、分かりやすかったです」
「それを聞けて安心いたしました」
今夜は結論の夜じゃない。
けれど、曖昧なままでもない。
正直に話して、順番をそろえて、次の約束まで決まった。
それだけで、十分に前へ進んでいる。