※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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194話 昼の約束と静かな棚

 春休み四日目は、朝から夜まで撮影で埋まった。

 

 移動と待機と本番を繰り返して、帰るころには日付が変わりかけていた。

 

 陽菜乃さんへの連絡は、短く一本だけ入れる。

 

『明日、予定どおりでお願いします』

 

 返ってきた文面は丁寧で、けれど少しだけ柔らかかった。

 

『承知いたしました。では明日、正午に駅前の喫茶でお待ちしております』

 

 そして五日目。

 

 駅前の喫茶店は、昼どきでも落ち着いた空気だった。

 

 木枠の扉を開けると、コーヒーと焼き菓子の匂いがゆっくり広がる。

 

 窓際の席で、陽菜乃さんは淡い和服に薄い羽織を重ね、背筋をまっすぐにして座っていた。

 

「お待たせしました、陽菜乃さん」

「いいえ、私も今しがたでございます。お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」

 

 向かい合って座ると、店内の音はカップの触れる小さな音だけになる。

 

 注文は、陽菜乃さんが和紅茶、俺がブレンド。

 

 湯気が立ちのぼるあいだ、どちらからともなく笑ってしまった。

 

「昨日は、ほんとうに一日動きっぱなしでしたか」

「うん。終わったころには頭が空っぽでした」

「それでも約束を守ってくださるのですね」

「守りたい約束だから」

 

 陽菜乃さんは、ほんの少し目を伏せてから口を開く。

 

「本日は結論を急がず、進め方だけ整えたく存じます」

「俺も同じです」

「ありがとうございます。では、今日はあまり構えずに、まずは普通にお話ししませんか。最近のことや、休みの過ごし方など、肩の力を抜いて伺えたらうれしゅうございます」

「いいですね。そうしましょう」

 

 陽菜乃さんの表情が、ほんの少しやわらいだ。

 

 店内には低いピアノが流れていて、隣の席の会話も遠く聞こえる。

 

 こういう場所だと、言葉を急がなくて済む。

 

「春休み三日目は、どう過ごされましたか」

「昼は学校のメンツでゲーセン行きました。恵が初めてで、だいぶ本気でした」

「そうでございますか」

「クレーンで二十数回やって取り切ってました」

「二十数回……それは見事でございますね」

「恵さんがそこまで熱を入れて取りにいくご様子、ぜひ一度この目で拝見したかったです」

 

 陽菜乃さんは口元に笑みを浮かべたまま、カップの取っ手に指を添える。

 

「命は、いかがでしたか」

 

「プレイはしないで、横で見てる感じでした。シューティングゲームはうまかったです」

「命らしいですね。前に出るより、まず全体を見て整える子でございますから」

「うん。ああいうとこ、助かってます」

 

 陽菜乃さんは一度だけうなずいて、視線を窓の外へ流した。

 

 信号待ちの人の列が、春の光の中でゆっくり動いている。

 

「ハヤトさんは、お休みの日にひとりで過ごすなら、何をなさいますか」

「筋トレや散歩、何か読んでるかです。あとは寝る」

「最後が正直でございますね」

「隠してもすぐばれるんで」

「その“すぐばれる”という感覚、少し分かります。私、考え込むと湯呑みに触れる回数が増える癖があるのでございます」

「へえ、そうなんですね」

 

 陽菜乃さんが小さく笑う。

 

 そのタイミングで、焼き菓子が運ばれてきた。

 

 皿の上で、薄い焼き色がやわらかく光っている。

 

 焼き菓子を半分に割って口に運ぶ。

 

 甘さは控えめで、話の邪魔をしない味だった。

 

「ハヤトさん、もうひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」

「はい」

「あなたは昨日、“正直に生きる”と仰いました。その正直さは、怖くなりませんか。誤解されることもあるでしょう」

「あると思います。けど、隠して後でズレるよりはいい」

「相手が嫌がるなら止まるし、相手が大事なら急がない。そこだけは外さないようにしてます」

 

 陽菜乃さんはゆっくりうなずいた。

 

「その答えで、十分でございます」

 

 会計を済ませて店を出ると、春の光はやわらかく傾き始めていた。

 

「では、予定どおりこのあと図書館へ参りましょう」

「行きましょう」

 

 駅前図書館までの道は短いのに、会話は途切れなかった。

 

 館内に入ると空気がひんやりして、自然と声が小さくなる。

 

 陽菜乃さんが案内した棚は、都市計画、契約実務、地域再生。

 

 迷いのない並びだった。

 

「可愛げがない構成で恐縮です」

「いや、らしいです。読む理由がはっきりしてる」

 

 今度は俺の棚へ移る。

 

 脚本、歌の本、エッセイ、写真集。

 

 自分で見ても統一感は薄い。

 

「ばらばらで恥ずかしいです」

「いえ。言葉の温度を大切になさる方の棚に見えます」

 

 陽菜乃さんは薄い詩集を一冊抜き取り、俺に見せる。

 

「せっかくですので、この場で互いに一篇選びませんか。感想ではなく、なぜそれを選んだかを話したいのでございます」

「いいですね。やりましょう」

 

 陽菜乃さんは、詩集の棚の前で足を止めた。

 

 背表紙を順に見て、指先が迷わず一冊を抜き取る。

 

 薄い生成りの表紙に、題名だけが小さく入っていた。

 

「私は、こちらにいたします」

 

 俺も隣の段から一冊選ぶ。

 

 ページ数の少ない、余白の多い本だった。

 

「俺はこれで」

 

 閲覧席へ移ると、陽菜乃さんは和服の袖をそろえて座り、しおり紐を静かに開いた。

 

 館内は静かで、ページをめくる音だけが近く聞こえる。

 

 しばらくして、陽菜乃さんが本を閉じ、こちらを見る。

 

「では、先に私からよろしいでしょうか」

「お願いします」

 

 陽菜乃さんは選んだ頁を開き、指で行をたどる。

 

「この一篇を選んだ理由は、言葉が少ないのに、相手を急がせない温度があるからでございます。結論を求めず、そばにいる時間そのものを信じる姿勢が、今の私には必要だと感じました」

 

 陽菜乃さんの声は小さいのに、語尾までぶれない。

 

 読み終えたあと、視線を落とさずに続ける。

 

「私は、はっきりした言葉を重んじる一方で、急ぎすぎる癖もございます。ですので、この詩の“待てる強さ”に惹かれました」

 

 俺はうなずいて、自分の本を開く。

 

「俺が選んだのは、短いけど、嘘をつかない言葉の詩です」

「飾らないで言うぶん、怖さもあるけど、読んだあとに変に残らない」

 

 選んだ一篇を読み上げると、陽菜乃さんは静かに聞いていた。

 

 読み終えたあと、すぐに評価はしない。

 

 少し考えてから、丁寧に言葉を置く。

 

「誠実な選択でございますね。曖昧に逃げない姿勢が、そのまま出ております」

「陽菜乃さんのも、同じです。急がないって決めるの、けっこう強い」

 

 その返しに、陽菜乃さんは口元だけで笑った。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけると、安心いたします」

 

 そのまま二冊を入れ替えて、もう一篇ずつ読むことにした。

 

 感想ではなく、選んだ理由だけを話す。

 

 決まりを先に置いたせいか、会話は余計なところでぶれなかった。

 

 図書館を出るころには、西日がガラスに長く伸びていた。

 

「良い時間でございました」

「うん。予定どおり来てよかった」

 

 歩き出す前に、陽菜乃さんが袖口を整え、こちらへ向き直る。

 

 駅前の横断歩道を渡るころには、空の色がゆっくり夕方へ沈み始めていた。

 

 人の流れはまだ多いのに、さっきまで図書館で過ごしていた静けさが、二人の間にはそのまま残っている。

 

 改札前で足を止めると、陽菜乃さんが和服の袖をそろえてこちらを向いた。

 

「本日は、喫茶と図書館、どちらも予定どおり進められて安心いたしました」

「私、約束したことがきちんと形になると、それだけで少し落ち着くのでございます」

 

「分かります。俺も同じです」

 

 陽菜乃さんは小さくうなずき、鞄から手帳を取り出した。

 

 薄い革の表紙を開き、しおり紐を指先で押さえる。

 

「次回の候補日を、ここで決めてもよろしいでしょうか。後で調整するより、今この場で決めたほうが迷いが少ないので」

 

「はい。俺の予定、出します」

 

 スマホのカレンダーを開いて並べると、陽菜乃さんは一つずつ丁寧に確認した。

 

「では、次は春休み七日目の夕方でいかがでしょう。河川敷付近を、日が落ちる前から少し歩く形で」

「大丈夫です。七日目、空いてます」

「ありがとうございます。時間は19時、集合は橋のたもとの自販機前でお願いいたします」

「分かりました」

 

 陽菜乃さんは手帳に記し、最後に線を一本引いて閉じた。

 

 その所作がきれいで、決めごとが本当に一つ進んだ感じがした。

 

「ハヤトさん、本日は、私の提案に丁寧に合わせてくださり、ありがとうございました」

「こちらこそ。陽菜乃さんの決め方、分かりやすくて助かります」

「そう仰っていただけると、勇気が出ます」

 

 改札へ向かう人波が一度膨らみ、俺たちは少し端へ寄る。

 

 陽菜乃さんは周囲を見て、声を少し落とした。

 

「次回は、私ばかり話しすぎないよう気をつけます。今日は、伺いたいことを先に並べすぎてしまいました」

「気にしないでください。俺は聞くのも好きです」

「では、甘えさせていただきます。その代わり、次は、ハヤトさんのお話をゆっくり伺いたく存じます」

「俺の話、ですか」

「はい。お話ししやすいことからで構いません。ハヤトさんの言葉で聞かせてください」

 

 質問の選び方が陽菜乃さんらしい。

 

 前に進むために、明るい話と重い話を同じ重さで置く。

 

「分かりました。準備しておきます」

「準備、でございますか」

「考えておかないと、短くなりすぎるんで」

 

 陽菜乃さんは、声を出さずに笑った。

 

「短くても、ハヤトさんのお言葉はきちんと届きます」

 

 電車到着のアナウンスが流れ、改札の向こうが慌ただしくなる。

 

「……あの、ハヤトさん。ひとつ、お願いがございます」

 

 陽菜乃さんは言いかけて、和服の袖口をそっと整えた。

 視線が一度だけ川面へ逃げ、戻ってくるまでに小さな間が空く。

 

「次回、河川敷付近を並んで歩く際――もし、ご迷惑でなければ」

 

 そこでまた、ほんの少し言いよどんだ。

 

 指先が帯の端に触れ、呼吸を整える。

 

「私から、腕をお借りしても……よろしいでしょうか。短い時間で構いません。私にとっては、大切な一歩でございます」

 

「もちろん。うれしいです」

 

 陽菜乃さんは姿勢を正し、いつもの丁寧な礼をした。

 

「では本日は、ここまでにいたしましょう。ご一緒に戻りましょうか」

「はい。帰りましょう」

 

 駅前の人波を抜けると、夕方の光は少しだけ丸くなっていた。

 

 並んで歩く速度は、どちらから合わせるでもなく自然にそろう。

 

「本日は、喫茶から始めてよかったです」

 

 陽菜乃さんが和服の袖をそろえながら言う。

 

「最初に落ち着いてお話しできたので、図書館でも無理なく過ごせました」

「うん。俺もそう思いました」

 

 信号待ちで立ち止まる。

 

 横断歩道の向こうに、見慣れた帰り道の看板が見えた。

 

「次回の散歩までに、私ももう少し肩の力を抜けるようにいたします」

「そのままで十分です。陽菜乃さんのペースで」

 

 陽菜乃さんは小さくうなずき、口元だけで笑う。

 

「ありがとうございます。そう言っていただけると、焦らずに済みます」

 

 青に変わって、二人で渡る。

 

 派手な話はひとつもない。

 

 それでも、今日決めた約束と、並んで歩くこの距離だけで、充分だった。

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