春休み四日目は、朝から夜まで撮影で埋まった。
移動と待機と本番を繰り返して、帰るころには日付が変わりかけていた。
陽菜乃さんへの連絡は、短く一本だけ入れる。
『明日、予定どおりでお願いします』
返ってきた文面は丁寧で、けれど少しだけ柔らかかった。
『承知いたしました。では明日、正午に駅前の喫茶でお待ちしております』
そして五日目。
駅前の喫茶店は、昼どきでも落ち着いた空気だった。
木枠の扉を開けると、コーヒーと焼き菓子の匂いがゆっくり広がる。
窓際の席で、陽菜乃さんは淡い和服に薄い羽織を重ね、背筋をまっすぐにして座っていた。
「お待たせしました、陽菜乃さん」
「いいえ、私も今しがたでございます。お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
向かい合って座ると、店内の音はカップの触れる小さな音だけになる。
注文は、陽菜乃さんが和紅茶、俺がブレンド。
湯気が立ちのぼるあいだ、どちらからともなく笑ってしまった。
「昨日は、ほんとうに一日動きっぱなしでしたか」
「うん。終わったころには頭が空っぽでした」
「それでも約束を守ってくださるのですね」
「守りたい約束だから」
陽菜乃さんは、ほんの少し目を伏せてから口を開く。
「本日は結論を急がず、進め方だけ整えたく存じます」
「俺も同じです」
「ありがとうございます。では、今日はあまり構えずに、まずは普通にお話ししませんか。最近のことや、休みの過ごし方など、肩の力を抜いて伺えたらうれしゅうございます」
「いいですね。そうしましょう」
陽菜乃さんの表情が、ほんの少しやわらいだ。
店内には低いピアノが流れていて、隣の席の会話も遠く聞こえる。
こういう場所だと、言葉を急がなくて済む。
「春休み三日目は、どう過ごされましたか」
「昼は学校のメンツでゲーセン行きました。恵が初めてで、だいぶ本気でした」
「そうでございますか」
「クレーンで二十数回やって取り切ってました」
「二十数回……それは見事でございますね」
「恵さんがそこまで熱を入れて取りにいくご様子、ぜひ一度この目で拝見したかったです」
陽菜乃さんは口元に笑みを浮かべたまま、カップの取っ手に指を添える。
「命は、いかがでしたか」
「プレイはしないで、横で見てる感じでした。シューティングゲームはうまかったです」
「命らしいですね。前に出るより、まず全体を見て整える子でございますから」
「うん。ああいうとこ、助かってます」
陽菜乃さんは一度だけうなずいて、視線を窓の外へ流した。
信号待ちの人の列が、春の光の中でゆっくり動いている。
「ハヤトさんは、お休みの日にひとりで過ごすなら、何をなさいますか」
「筋トレや散歩、何か読んでるかです。あとは寝る」
「最後が正直でございますね」
「隠してもすぐばれるんで」
「その“すぐばれる”という感覚、少し分かります。私、考え込むと湯呑みに触れる回数が増える癖があるのでございます」
「へえ、そうなんですね」
陽菜乃さんが小さく笑う。
そのタイミングで、焼き菓子が運ばれてきた。
皿の上で、薄い焼き色がやわらかく光っている。
焼き菓子を半分に割って口に運ぶ。
甘さは控えめで、話の邪魔をしない味だった。
「ハヤトさん、もうひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたは昨日、“正直に生きる”と仰いました。その正直さは、怖くなりませんか。誤解されることもあるでしょう」
「あると思います。けど、隠して後でズレるよりはいい」
「相手が嫌がるなら止まるし、相手が大事なら急がない。そこだけは外さないようにしてます」
陽菜乃さんはゆっくりうなずいた。
「その答えで、十分でございます」
会計を済ませて店を出ると、春の光はやわらかく傾き始めていた。
「では、予定どおりこのあと図書館へ参りましょう」
「行きましょう」
駅前図書館までの道は短いのに、会話は途切れなかった。
館内に入ると空気がひんやりして、自然と声が小さくなる。
陽菜乃さんが案内した棚は、都市計画、契約実務、地域再生。
迷いのない並びだった。
「可愛げがない構成で恐縮です」
「いや、らしいです。読む理由がはっきりしてる」
今度は俺の棚へ移る。
脚本、歌の本、エッセイ、写真集。
自分で見ても統一感は薄い。
「ばらばらで恥ずかしいです」
「いえ。言葉の温度を大切になさる方の棚に見えます」
陽菜乃さんは薄い詩集を一冊抜き取り、俺に見せる。
「せっかくですので、この場で互いに一篇選びませんか。感想ではなく、なぜそれを選んだかを話したいのでございます」
「いいですね。やりましょう」
陽菜乃さんは、詩集の棚の前で足を止めた。
背表紙を順に見て、指先が迷わず一冊を抜き取る。
薄い生成りの表紙に、題名だけが小さく入っていた。
「私は、こちらにいたします」
俺も隣の段から一冊選ぶ。
ページ数の少ない、余白の多い本だった。
「俺はこれで」
閲覧席へ移ると、陽菜乃さんは和服の袖をそろえて座り、しおり紐を静かに開いた。
館内は静かで、ページをめくる音だけが近く聞こえる。
しばらくして、陽菜乃さんが本を閉じ、こちらを見る。
「では、先に私からよろしいでしょうか」
「お願いします」
陽菜乃さんは選んだ頁を開き、指で行をたどる。
「この一篇を選んだ理由は、言葉が少ないのに、相手を急がせない温度があるからでございます。結論を求めず、そばにいる時間そのものを信じる姿勢が、今の私には必要だと感じました」
陽菜乃さんの声は小さいのに、語尾までぶれない。
読み終えたあと、視線を落とさずに続ける。
「私は、はっきりした言葉を重んじる一方で、急ぎすぎる癖もございます。ですので、この詩の“待てる強さ”に惹かれました」
俺はうなずいて、自分の本を開く。
「俺が選んだのは、短いけど、嘘をつかない言葉の詩です」
「飾らないで言うぶん、怖さもあるけど、読んだあとに変に残らない」
選んだ一篇を読み上げると、陽菜乃さんは静かに聞いていた。
読み終えたあと、すぐに評価はしない。
少し考えてから、丁寧に言葉を置く。
「誠実な選択でございますね。曖昧に逃げない姿勢が、そのまま出ております」
「陽菜乃さんのも、同じです。急がないって決めるの、けっこう強い」
その返しに、陽菜乃さんは口元だけで笑った。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、安心いたします」
そのまま二冊を入れ替えて、もう一篇ずつ読むことにした。
感想ではなく、選んだ理由だけを話す。
決まりを先に置いたせいか、会話は余計なところでぶれなかった。
図書館を出るころには、西日がガラスに長く伸びていた。
「良い時間でございました」
「うん。予定どおり来てよかった」
歩き出す前に、陽菜乃さんが袖口を整え、こちらへ向き直る。
駅前の横断歩道を渡るころには、空の色がゆっくり夕方へ沈み始めていた。
人の流れはまだ多いのに、さっきまで図書館で過ごしていた静けさが、二人の間にはそのまま残っている。
改札前で足を止めると、陽菜乃さんが和服の袖をそろえてこちらを向いた。
「本日は、喫茶と図書館、どちらも予定どおり進められて安心いたしました」
「私、約束したことがきちんと形になると、それだけで少し落ち着くのでございます」
「分かります。俺も同じです」
陽菜乃さんは小さくうなずき、鞄から手帳を取り出した。
薄い革の表紙を開き、しおり紐を指先で押さえる。
「次回の候補日を、ここで決めてもよろしいでしょうか。後で調整するより、今この場で決めたほうが迷いが少ないので」
「はい。俺の予定、出します」
スマホのカレンダーを開いて並べると、陽菜乃さんは一つずつ丁寧に確認した。
「では、次は春休み七日目の夕方でいかがでしょう。河川敷付近を、日が落ちる前から少し歩く形で」
「大丈夫です。七日目、空いてます」
「ありがとうございます。時間は19時、集合は橋のたもとの自販機前でお願いいたします」
「分かりました」
陽菜乃さんは手帳に記し、最後に線を一本引いて閉じた。
その所作がきれいで、決めごとが本当に一つ進んだ感じがした。
「ハヤトさん、本日は、私の提案に丁寧に合わせてくださり、ありがとうございました」
「こちらこそ。陽菜乃さんの決め方、分かりやすくて助かります」
「そう仰っていただけると、勇気が出ます」
改札へ向かう人波が一度膨らみ、俺たちは少し端へ寄る。
陽菜乃さんは周囲を見て、声を少し落とした。
「次回は、私ばかり話しすぎないよう気をつけます。今日は、伺いたいことを先に並べすぎてしまいました」
「気にしないでください。俺は聞くのも好きです」
「では、甘えさせていただきます。その代わり、次は、ハヤトさんのお話をゆっくり伺いたく存じます」
「俺の話、ですか」
「はい。お話ししやすいことからで構いません。ハヤトさんの言葉で聞かせてください」
質問の選び方が陽菜乃さんらしい。
前に進むために、明るい話と重い話を同じ重さで置く。
「分かりました。準備しておきます」
「準備、でございますか」
「考えておかないと、短くなりすぎるんで」
陽菜乃さんは、声を出さずに笑った。
「短くても、ハヤトさんのお言葉はきちんと届きます」
電車到着のアナウンスが流れ、改札の向こうが慌ただしくなる。
「……あの、ハヤトさん。ひとつ、お願いがございます」
陽菜乃さんは言いかけて、和服の袖口をそっと整えた。
視線が一度だけ川面へ逃げ、戻ってくるまでに小さな間が空く。
「次回、河川敷付近を並んで歩く際――もし、ご迷惑でなければ」
そこでまた、ほんの少し言いよどんだ。
指先が帯の端に触れ、呼吸を整える。
「私から、腕をお借りしても……よろしいでしょうか。短い時間で構いません。私にとっては、大切な一歩でございます」
「もちろん。うれしいです」
陽菜乃さんは姿勢を正し、いつもの丁寧な礼をした。
「では本日は、ここまでにいたしましょう。ご一緒に戻りましょうか」
「はい。帰りましょう」
駅前の人波を抜けると、夕方の光は少しだけ丸くなっていた。
並んで歩く速度は、どちらから合わせるでもなく自然にそろう。
「本日は、喫茶から始めてよかったです」
陽菜乃さんが和服の袖をそろえながら言う。
「最初に落ち着いてお話しできたので、図書館でも無理なく過ごせました」
「うん。俺もそう思いました」
信号待ちで立ち止まる。
横断歩道の向こうに、見慣れた帰り道の看板が見えた。
「次回の散歩までに、私ももう少し肩の力を抜けるようにいたします」
「そのままで十分です。陽菜乃さんのペースで」
陽菜乃さんは小さくうなずき、口元だけで笑う。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、焦らずに済みます」
青に変わって、二人で渡る。
派手な話はひとつもない。
それでも、今日決めた約束と、並んで歩くこの距離だけで、充分だった。