※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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195話 春休み七日目の夜、河川敷で散歩

 春休み六日目と七日目は、朝から撮影で埋まった。

 

 6日目は屋内の長回し。

 

 7日目は移動を挟んで夕方まで。

 

 終わるころには肩が重くて、スマホを見る指も少し遅くなる。

 

 それでも、約束の時刻だけは外さない。

 

 メイクを落として私服に着替え、最短の電車に乗った。

 

 窓に映る自分の顔は疲れていたけど、気持ちは不思議とまっすぐだった。

 

 橋のたもとの自販機に着くと、陽菜乃さんはもう来ていた。

 

 夜の河川敷付近は街灯が少なく、橋の灯りだけが川面に細く伸びている。

 

 淡い和服に薄い羽織。

 

 袖口をそろえて立つ姿は、静かな場所ほどよく映える。

 

「お待たせしました、陽菜乃さん」

「いいえ、私も今しがたでございます。お仕事帰りにありがとうございます」

「6日目と7日目、ほぼ一日中でして。少し遅くなりました」

 

「承知しております。ご無理をなさらず、今夜は短めでも構いません

「大丈夫です。歩きましょう」

 

 堤防沿いの道へ出ると、草を渡る風の音がはっきりした。

 

 人影はまばらで、遠くの犬の鳴き声が時々混ざる。

 

 河川敷付近の夜は、話す声が自然と小さくなる。

 

「まずは、私からひとつ」

 

 陽菜乃さんが視線を前に置いたまま言う。

 

「前回、次はハヤトさんのお話を伺いたいと申し上げました。ご負担になっていないでしょうか」

「なってないです。少し考えてきました」

「ありがとうございます。では、お話ししやすいことからで構いません」

 

 俺は夜風を吸って、ゆっくり吐く。

 

「最近うれしかったことは、陽菜乃さんとこうして話せてることです」

「忙しい日が続いても、今夜みたいな時間があると落ち着きます」

 

 陽菜乃さんは、歩幅を崩さずにうなずいた。

 

「……それは、私もうれしゅうございます」

「もうひとつは、不安ってほどじゃないけど」

「忙しいと、言葉が短くなりすぎるときがある」

「雑にしたいわけじゃないのに、そう見えるかもって」

 

 陽菜乃さんはすぐに返さず、数歩ぶん沈黙を置いた。

 

 その間が、責める間じゃなく受け止める間だと分かる。

 

「ハヤトさんの短さは、私には雑に聞こえません」

「むしろ、曖昧にしない誠実さとして受け取っております」

「ありがとうございます」

 

 橋脚の影に入ると、気温が少し下がる。

 

 陽菜乃さんは羽織の合わせを整え、少しだけ視線を下げた。

 

「私からも、ひとつよろしいでしょうか」

「はい」

「5日目の夜にお約束したこと、実行させてくださいませ」

 

 そう言って、陽菜乃さんはそっと腕を差し出す。

 

 夜の光の下で、指先がわずかに緊張しているのが見えた。

 

「……お借りしてもよろしいでしょうか」

「もちろん」

 

 陽菜乃さんの手が、俺の腕に軽く触れる。

 

 強くない。

 

 でも、迷いはない。

 

 歩き出すと、さっきまでより歩幅がさらにそろった。

 

「ありがとうございます。これで、次の一歩をひとつ守れました」

「うん。俺もうれしいです」

 

 しばらく、会話は途切れたままだった。

 

 けれど気まずさはない。

 

 川の音と靴音だけで、十分だった。

 

 やがて陽菜乃さんが小さく笑う。

 

「不思議でございますね。図書館より静かで、喫茶より言葉が少ないのに、今夜がいちばん落ち着きます」

「俺も同じです」

「では、もう少しだけ歩きましょう」

「はい」

 

 河川敷付近の道を折り返すころ、家の方角の灯りが見えてくる。

 

 風は少し冷えてきたのに、歩幅は崩れない。

 

 言葉が途切れても気まずくならないまま、俺はタイミングを見て口を開いた。

 

「陽菜乃さん、ひとつ聞いてもいいですか」

「はい。なんでしょう」

「恋人ができたら、何をしてみたいですか」

 

 陽菜乃さんの足が、ほんの一歩だけゆるむ。

 

 すぐに歩き出したけれど、視線は前のまま少しだけ泳いだ。

 

「……急に、難しいご質問でございますね」

「答えにくかったら、無理しなくて大丈夫です」

「いいえ。伺ってくださったことに、きちんとお答えしたく存じます」

 

 陽菜乃さんは和服の袖口をそろえ、呼吸をひとつ整える。

 

 街灯の薄い光が横顔にかかって、頬にわずかな熱が乗ったのが分かった。

 

「私、恋人ができましたら――」

 

 そこで一度、言葉が止まる。

 

 少しだけ目を伏せてから、陽菜乃さんは小さな声で続けた。

 

「……キスを、してみたいです」

 

 言ってから、ほんの少しだけ頬に色が乗る。

 

「……噂では、気持ちが良いものだと聞きます」

 

 指先が、わずかに揺れる。

 

「でも……本当にそうなのか、きちんと確かめてみたいのです」

 

 視線は逃げない。

 でも、どこかだけ少し恥ずかしそうで。

 

「……好きな方と、なら」

 

 思っていたよりもまっすぐな返事だった。

 

 俺は驚きより先に、胸の奥が静かに温かくなるのを感じる。

 

「分かりました」

 

 短く返すと、陽菜乃さんは恥ずかしそうに笑った。

 

「笑わないで受け止めてくださるのですね」

「大事な話だから」

「ありがとうございます。私、こういうことを口にするのは得意ではないので、少し緊張いたしました」

「でも、うれしかったです。陽菜乃さんの気持ちが聞けて」

 

 陽菜乃さんは小さくうなずいて、歩く速さをほんの少しだけ俺に寄せる。

 

「では、その続きを急がずに育ててまいりましょう」

「はい。急がずに」

 

 門の明かりが近づくにつれて、夜の川音は背中のほうへ遠のいていく。

 

 大きな約束は増えていない。

 

 それでも今夜は、言いにくい言葉を一つ渡し合えたぶん、昨日より確かに近かった。

 

 同じ方向へ戻る道で、陽菜乃さんは腕を解かないまま言った。

 

「本日のことは、急いで名前を付けなくて構いません」

「ただ、私にとっては確かな前進でございました」

「俺にとっても同じです」

 

 陽菜乃さんはふと足を止めた。

 

 さっきまでのやわらかい空気とは少し違う、迷いの色が横顔に差す。

 

「ハヤトさん、ひとつだけ……確認してもよろしいでしょうか」

「はい」

 

 陽菜乃さんは和服の袖口をそろえ、呼吸を整えてから、まっすぐこちらを見た。

 

「先ほど私は、恋人になったらしてみたいことを申し上げました」

「……あれは、私の都合を押しつける形になっておりませんでしたか」

 

 声は丁寧なままなのに、語尾だけがわずかに揺れる。

 

 俺はすぐに答えず、言葉を選んだ。

 

「押しつけにはなってないです」

 

「陽菜乃さんは、望みを言っただけで、決めるのを急がせてない」

「俺の気持ちもちゃんと確認してくれた。だから大丈夫です」

 

 陽菜乃さんの肩が、ほんの少し下がる。

 

「……ありがとうございます」

 

 そこで俺は、もう一歩だけ踏み込んで言った。

 

「それに、俺はどんな陽菜乃さんでも受け止めてみせますよ」

 

 一瞬、陽菜乃さんの呼吸が止まる。

 

 目がわずかに見開かれて、次の瞬間、頬に淡い熱が差した。

 

「……っ」

 

 言葉にならないまま、陽菜乃さんは視線を伏せる。

 

 和服の袖口を整える指先が、ほんの少しだけ速く動いた。

 

「ハヤトさん、そのようなお言葉を不意に仰るのは……反則でございます」

「すみません。思ったことをそのまま言いました」

「ええ、存じております。だからこそ、余計に……胸に響くのでございます」

 

 陽菜乃さんは小さく息を整え、改めてこちらを見た。

 

「今のお言葉、ありがたく頂戴いたします」

「はい」

「では私も、逃げずに申し上げます。迷いはございますが、あなたと向き合うことからは退きません」

 

 門灯の明かりが、二人の間の沈黙をやわらかく照らす。

 

 派手なことは何もない。

 

 けれど、今夜の最後に交わした言葉は、次の一歩を確かに近づけていた。

 

 門の近くまで来ると、陽菜乃さんはようやく腕を離し、丁寧に一礼した。

 

「今夜も、ありがとうございました」

「こちらこそ」

 

 玄関灯の下で靴をそろえながら、俺は胸の奥の静かな手応えを確かめる。

 

 六日目と七日目は仕事で埋まった。

 

 でも七日目の夜だけは、ちゃんと自分の時間として残せた。

 

 次に進む準備は、もうできている。

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