七日目の夜から二日ほど、撮影と家の用事で時間が詰まった。
それでも、今日は久しぶりに玲奈と会う約束を入れてある。
駅前のロータリーを抜けて店の前に着くと、ガラス越しに玲奈が手を振った。
その腕の中には、小さな女の子がいる。淡い色のケープに包まれて、玲奈の肩にもたれていた。
「ハヤト君、こっち。びっくりした?」
席に着くと、玲奈は慣れた手つきでベビーカーを横に寄せ、娘の頬をそっと撫でる。
「先に言うね。娘の
「ハヤト君にも、ちゃんと会ってほしかったから」
俺は一拍だけ息をのみ、ゆっくりうなずいた。
「……会わせてくれて、ありがとう」
「うん。きっと見たいと思ったから」
紗凪は小さな手を動かして、眠そうにまばたきをした。
玲奈は笑って、毛布の端を直す。
「もちろん、ハヤト君の子だよ。だから隠さず、最初に伝えたかった」
俺はベビーカーのそばに少しだけ近づき、顔をのぞく。
思っていたよりずっと小さくて、現実だった。
「紗凪、はじめまして」
玲奈が明るく笑う。
「最初はそれで十分。今日は“会う日”にしよう」
店員が水を置いて、赤ちゃん用のぬるい白湯を小さなカップに用意してくれた。
玲奈は「ありがとうございます」と笑って受け取り、紗凪の口元にそっと哺乳瓶を添える。
肩に力が入っていない。
会話しながらでも手元は迷わない。
その自然さに、俺は目を離せなかった。
「ごめん、泣いたらすぐ外出るね。今日は会うのが目的だから、無理に長居はしないつもり」
「うん。そこは玲奈に任せる」
「助かる。ハヤト君、そういう返し方ほんと変わってない」
玲奈は軽く笑って、哺乳瓶を外すと紗凪の背中をとん、とん、と一定のリズムで叩く。
小さなげっぷが出て、玲奈が「えらい」と囁いた。
その声が、さっきまでの明るいテンポより少し低くて、やわらかい。
「名前、紗凪って言ったよね」
「うん。春の風がほどけるみたいな子になってほしくて」
「いい名前だ」
「でしょ。候補いっぱいあったんだけど、最後はこれしかないってなった」
料理が運ばれてくる。
玲奈は片手で食べられるものを先に寄せ、取り分けやすいように皿の向きを変えた。
その一つ一つの動きが、生活の時間を連れてくる。
「ハヤト君、先に食べて。私は様子見ながらいくから」
「分かった」
最初の数分は、他愛ない話をした。
撮影のこと。
駅前にできた新しいパン屋のこと。
玲奈はいつものテンポで笑わせるが、紗凪が小さく身じろぎすると、会話の途中でも視線だけをすっと落として確認する。
守るものが増えた分だけ、動きに無駄がない。
食事が半分ほど進んだころ、玲奈がフォークを置いて言った。
「ね、抱っこしてみる?」
心臓が一つ、強く鳴る。
「……今、していいのか」
「いいよ。無理ならやめよう。でも、私は見せたいな」
玲奈は立ち上がって、ベビーカーから紗凪をゆっくり抱き上げる。
腕の角度を見せるみたいに、体の向きを少し変えた。
「ここ。首はまだ支える。腕はこう。体は近づける」
言われたとおりに腕を出すと、玲奈が慎重に重みを預けてくる。
紗凪の体温が、思っていたよりはっきり腕に乗った。
小さい。
軽い。
でも確かに、ひとり分の重さがある。
「……紗凪」
呼びかけると、紗凪は目を細く開いて、すぐまた閉じた。
泣かない。
ただ、胸の前で小さな手を一度だけ握って開く。
玲奈が隣で、小さく笑った。
「大丈夫そうだね」
「うん。なんか、すごいな」
「でしょ」
俺は呼吸を浅くしないように気をつけながら、紗凪の顔を見た。
まつ毛の影が頬に落ちている。
眠いのか、口元がわずかに動く。
実感は、派手に来るものじゃなかった。
ゆっくり、でも逃げ場なく広がる。
この子を中心に、これからの時間は確実に変わる。
玲奈がテーブルの端に手を置いて、まっすぐ俺を見る。
「ハヤト君。ひとつだけ、きちんと線を引いておきたい」
「うん」
「この世界の在り方は、私も理解してる。女が産んだ時点で、男との関係はそこで一区切りになる」
「だから、ここから先を無理につなぐつもりはないよ。責任を押しつけたいわけじゃないし、あなたの毎日に踏み込みたいわけでもない」
玲奈の声は明るさを残したまま、言葉だけが静かに整っていた。
「……今日で、一区切りにしよう」
店の照明が、グラスの縁で小さく揺れる。
俺は短くうなずいた。
「分かった」
玲奈は一度だけ目を伏せて、すぐに笑った。
「でもね、お願いがひとつだけある」
「なに」
「たまにでいいから、会ってほしい」
「父親として何かして、って話じゃなくて……紗凪が大きくなった時に、“会ったことのある人”でいてほしいんだ」
言い終えるころには、玲奈の声がほんの少しだけ細くなっていた。
俺は迷わず返す。
「それは、いいです」
「たまに会おう。玲奈が都合いい時で」
玲奈は息を吐いて、目尻をやわらかく下げる。
「ありがとう。ハヤト君なら、そう言ってくれる気がしてた」
「頻度は任せる。無理ない範囲で」
「うん。じゃあ、予定が合う日連絡するね」
「急に呼び出したりはしない。会える時だけでいい」
「分かった」
玲奈は「よし」と小さく言って、空気をいつもの明るさに戻した。
「じゃあ今日は、ちゃんと“お別れの食事デート”ってことで」
「重い顔は禁止。最後は笑って帰る」
「了解」
会計を済ませて店を出ると、夜風が頬に当たる。
改札前で、玲奈はベビーカーを止めて振り返った。
「ハヤト君、今日は来てくれてありがとう」
「これで終わり。でも、終わり方はきれいにできたと思う」
「うん。そう思う」
「また“たまに”、ね」
「はい」
玲奈は紗凪の小さな手をそっと持ち上げる。
「ほら、紗凪。ばいばい」
俺も手を上げる。
「またな」
人波の向こうへ消える背中を、見えなくなるまで見送った。
線は引いた。
でも、縁まで切るわけじゃない。
それでいいと、今夜は素直に思えた。