※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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196話 玲奈と、春の灯り

 七日目の夜から二日ほど、撮影と家の用事で時間が詰まった。

 それでも、今日は久しぶりに玲奈と会う約束を入れてある。

 

 駅前のロータリーを抜けて店の前に着くと、ガラス越しに玲奈が手を振った。

 その腕の中には、小さな女の子がいる。淡い色のケープに包まれて、玲奈の肩にもたれていた。

 

「ハヤト君、こっち。びっくりした?」

 

 席に着くと、玲奈は慣れた手つきでベビーカーを横に寄せ、娘の頬をそっと撫でる。

 

「先に言うね。娘の紗凪(さな)。今日は最初から連れてきたの」

「ハヤト君にも、ちゃんと会ってほしかったから」

 

 俺は一拍だけ息をのみ、ゆっくりうなずいた。

 

「……会わせてくれて、ありがとう」

 

「うん。きっと見たいと思ったから」

 

 紗凪は小さな手を動かして、眠そうにまばたきをした。

 玲奈は笑って、毛布の端を直す。

 

「もちろん、ハヤト君の子だよ。だから隠さず、最初に伝えたかった」

 

 俺はベビーカーのそばに少しだけ近づき、顔をのぞく。

 思っていたよりずっと小さくて、現実だった。

 

「紗凪、はじめまして」

 

 玲奈が明るく笑う。

 

「最初はそれで十分。今日は“会う日”にしよう」

 

 店員が水を置いて、赤ちゃん用のぬるい白湯を小さなカップに用意してくれた。

 玲奈は「ありがとうございます」と笑って受け取り、紗凪の口元にそっと哺乳瓶を添える。

 

 肩に力が入っていない。

 会話しながらでも手元は迷わない。

 その自然さに、俺は目を離せなかった。

 

「ごめん、泣いたらすぐ外出るね。今日は会うのが目的だから、無理に長居はしないつもり」

「うん。そこは玲奈に任せる」

「助かる。ハヤト君、そういう返し方ほんと変わってない」

 

 玲奈は軽く笑って、哺乳瓶を外すと紗凪の背中をとん、とん、と一定のリズムで叩く。

 小さなげっぷが出て、玲奈が「えらい」と囁いた。

 その声が、さっきまでの明るいテンポより少し低くて、やわらかい。

 

「名前、紗凪って言ったよね」

「うん。春の風がほどけるみたいな子になってほしくて」

「いい名前だ」

「でしょ。候補いっぱいあったんだけど、最後はこれしかないってなった」

 

 料理が運ばれてくる。

 玲奈は片手で食べられるものを先に寄せ、取り分けやすいように皿の向きを変えた。

 その一つ一つの動きが、生活の時間を連れてくる。

 

「ハヤト君、先に食べて。私は様子見ながらいくから」

「分かった」

 

 最初の数分は、他愛ない話をした。

 撮影のこと。

 駅前にできた新しいパン屋のこと。

 玲奈はいつものテンポで笑わせるが、紗凪が小さく身じろぎすると、会話の途中でも視線だけをすっと落として確認する。

 守るものが増えた分だけ、動きに無駄がない。

 

 食事が半分ほど進んだころ、玲奈がフォークを置いて言った。

 

「ね、抱っこしてみる?」

 

 心臓が一つ、強く鳴る。

 

「……今、していいのか」

「いいよ。無理ならやめよう。でも、私は見せたいな」

 

 玲奈は立ち上がって、ベビーカーから紗凪をゆっくり抱き上げる。

 腕の角度を見せるみたいに、体の向きを少し変えた。

 

「ここ。首はまだ支える。腕はこう。体は近づける」

 

 言われたとおりに腕を出すと、玲奈が慎重に重みを預けてくる。

 紗凪の体温が、思っていたよりはっきり腕に乗った。

 

 小さい。

 軽い。

 でも確かに、ひとり分の重さがある。

 

「……紗凪」

 

 呼びかけると、紗凪は目を細く開いて、すぐまた閉じた。

 泣かない。

 ただ、胸の前で小さな手を一度だけ握って開く。

 

 玲奈が隣で、小さく笑った。

 

「大丈夫そうだね」

「うん。なんか、すごいな」

「でしょ」

 

 俺は呼吸を浅くしないように気をつけながら、紗凪の顔を見た。

 まつ毛の影が頬に落ちている。

 眠いのか、口元がわずかに動く。

 

 実感は、派手に来るものじゃなかった。

 ゆっくり、でも逃げ場なく広がる。

 この子を中心に、これからの時間は確実に変わる。

 

 玲奈がテーブルの端に手を置いて、まっすぐ俺を見る。

 

「ハヤト君。ひとつだけ、きちんと線を引いておきたい」

「うん」

「この世界の在り方は、私も理解してる。女が産んだ時点で、男との関係はそこで一区切りになる」

「だから、ここから先を無理につなぐつもりはないよ。責任を押しつけたいわけじゃないし、あなたの毎日に踏み込みたいわけでもない」

 

 玲奈の声は明るさを残したまま、言葉だけが静かに整っていた。

 

「……今日で、一区切りにしよう」

 

 店の照明が、グラスの縁で小さく揺れる。

 

 俺は短くうなずいた。

 

「分かった」

 

 玲奈は一度だけ目を伏せて、すぐに笑った。

 

「でもね、お願いがひとつだけある」

 

「なに」

 

「たまにでいいから、会ってほしい」

「父親として何かして、って話じゃなくて……紗凪が大きくなった時に、“会ったことのある人”でいてほしいんだ」

 

 言い終えるころには、玲奈の声がほんの少しだけ細くなっていた。

 

 俺は迷わず返す。

 

「それは、いいです」

「たまに会おう。玲奈が都合いい時で」

 

 玲奈は息を吐いて、目尻をやわらかく下げる。

 

「ありがとう。ハヤト君なら、そう言ってくれる気がしてた」

「頻度は任せる。無理ない範囲で」

「うん。じゃあ、予定が合う日連絡するね」

「急に呼び出したりはしない。会える時だけでいい」

「分かった」

 

 玲奈は「よし」と小さく言って、空気をいつもの明るさに戻した。

 

「じゃあ今日は、ちゃんと“お別れの食事デート”ってことで」

「重い顔は禁止。最後は笑って帰る」

「了解」

 

 会計を済ませて店を出ると、夜風が頬に当たる。

 

 改札前で、玲奈はベビーカーを止めて振り返った。

 

「ハヤト君、今日は来てくれてありがとう」

「これで終わり。でも、終わり方はきれいにできたと思う」

「うん。そう思う」

「また“たまに”、ね」

「はい」

 

 玲奈は紗凪の小さな手をそっと持ち上げる。

 

「ほら、紗凪。ばいばい」

 

 俺も手を上げる。

 

「またな」

 

 人波の向こうへ消える背中を、見えなくなるまで見送った。

 

 線は引いた。

 

 でも、縁まで切るわけじゃない。

 

 それでいいと、今夜は素直に思えた。

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