俺がリビングに入ると、命がいつもの席でノートを広げていた。
姿勢はいつも通りきれいで、表情も大きくは変わらない。
でも、ペン先の動きだけが少し速い。
「ただいま」
「おかえりなさい、ハヤトさん」
命はノートを閉じずに、顔を上げる。
「本日、ひとつご相談がございます」
「うん。なに」
命は一度だけ息を整えてから、丁寧に言った。
「春休みも残りわずかですので、日和さんとレンをお呼びして、お泊まり会をしたいと思っております」
「にぎやかな時間を作りたくて。……よろしいでしょうか」
“にぎやかな時間を作りたい”なんて、命の口から先に出るのは珍しい。
俺はすぐうなずく。
「いいじゃん。命がやりたいなら、やろう」
命の目がほんの少しやわらぐ。
「ありがとうございます。では、準備に入ります」
「準備って、もうノート作ってる時点でだいぶ本気だな」
「……はい。段取りがないと、落ち着きませんので」
ノートをのぞくと、見出しがきっちり並んでいた。
“到着時刻”“食事”“入浴順”“就寝前のゲーム”“翌朝の朝食”。
横にはチェック欄まである。
「完璧だな」
「まだ暫定です。皆さんの希望で調整いたします」
命はそのままスマホを手に取り、二人にメッセージを送る。
本文は短く整っていた。
『春休みの終わりに、御堂家でお泊まり会をしませんか。日程は明日夜〜翌朝を想定しています。ご都合いかがでしょう』
返信は早かった。
日和からはすぐにスタンプ連打と文字。
『行く!!!!!!!!』
続いてレン。
『行きたい。持ってくものある?』
命は画面を見て、小さく笑う。
「お二人とも、参加してくださるそうです」
「よかったな」
「はい。……少し、緊張します」
「命が?」
「私が主催ですので。滞りがあると申し訳ないです」
「大丈夫。失敗しても、お泊まり会は成立する」
その言葉に、命は一瞬だけ目を丸くして、それから小さくうなずいた。
「……分かりました。完璧より、楽しむことを優先します」
その夜は、準備であっという間に過ぎた。
客間を二つ整え、追加の布団を確認し、リビングのローテーブルを少し広く使えるように配置を変える。
命は一つ終わるごとにノートの欄へ丁寧にチェックを入れた。
翌日、昼前。
門のインターホンが鳴って、命は小走りで玄関へ向かった。
最初に飛び込んできたのは日和だった。
ボストンバッグを肩にかけて、手にはゲームセンターのクーポンをひらひら振っている。
「命ー! 今日は昼から全力で遊んで、そのままお泊まりコースね!」
「はい。その予定で準備しております」
続いてレンが、やや大きめのリュックを持って会釈する。
「こんにちは。お邪魔します。カードゲームと充電器、あと着替え入れてきた」
「ありがとうございます、レン。完璧です」
玄関で軽く荷物を整えると、四人はそのまま街へ出た。
昼は駅前で遊んで、夕方に帰宅。
流れを切らずに、そのまま御堂家で夜の部へ入る段取りだ。
ゲームセンターでは日和が先頭に立って、レンがルール説明、命が静かに追随、俺が会計と時間を見ながら全体を回す。
途中、恵へのお土産にと命が小さなキーホルダーを取って、日和が「それ絶対喜ぶ!」と騒いだ。
夕方、御堂家へ戻るころには、四人とも少し汗ばんでいた。
リビングに入って荷物を置くと、命がノートを開いて言う。
「では予定どおり、ここからお泊まり会に移行します。まず軽食、その後入浴、夜はゲーム大会です」
「命、進行うますぎ!」
「段取りだけは、事前に整えておりますので」
軽食は、昼の勢いを少しだけ落ち着かせるためのものだった。
命が用意したのは、手でつまめる小さなサンドと、温かいスープ、それに果物を細かく切ったガラスのボウル。
派手ではないけれど、外で遊んできた体にはちょうどいい。
「命、これ店で出せるレベルなんだけど」
日和がサンドを持ったまま目を丸くする。
「ありがとうございます。味付けは控えめにしております」
「控えめなのに、ちゃんとおいしい。すごい」
レンはスープをひと口飲んで、静かにうなずいた。
「これ、落ち着く」
テーブルの端には、昼に取った景品が並んでいた。
小さなキーホルダー、丸いマスコット、取りやすそうに見えて取れなかった残念賞の話題。
笑いながら雑に置いたものまで、なぜか今日の戦利品らしく見える。
「で、夜のゲーム大会は何やるの?」
日和が期待の目で身を乗り出すと、命はノートを開いてページを示した。
「第一部はカードゲーム、第二部は協力型、第三部は罰ゲームなしの心理戦です」
「第三部だけ命の圧が強い」
「心理戦は、日和さんが感情で突っ走る傾向がございますので」
「そこまで読まれてる!?」
日和が大げさに肩を落として、レンが吹き出す。
「でもだいたい合ってる」
軽食のあと、順番に風呂を済ませ、全員が部屋着に着替えてリビングへ戻るころには、外の空気はすっかり夜になっていた。
大きな窓に映るのは、室内の明るい輪郭と、笑って動く四人の影だけだ。
第一部のカードゲームは、予想どおり日和が賑やかに場を回した。
勝っても負けても声が大きい。
レンは冷静に手札を読み、命は説明書の補足欄まで理解したうえで、必要な時だけ最短の一手を打つ。
「命、それ今出す!? 終わったー!」
「勝率が最も高い手でした」
「計算で殴ってくるのやめて!」
第二部の協力型は、逆に命が指示を出しすぎないよう気をつける番になった。
日和が先に動き、レンがフォローし、俺が抜けを埋める。
命は全体を見て、危なくなった時だけ短く言う。
「次、左です」
「その後、レンに渡してください」
その二言で流れが整う。
「命、司令塔向いてるな」
俺が言うと、命は少しだけ視線をそらした。
「……皆さんが動いてくださるので、成立しているだけです」
「それを回すのが司令塔なんだって」
日和が笑って指を立てる。
第三部の心理戦が始まるころには、テーブルの上にお茶とお菓子が増えていた。
夜更かしの空気は、昼間の高いテンションとは違う。
声は少し落ちるのに、会話はむしろ途切れない。
ゲームの合間、日和がふいにクッションへ倒れ込んだ。
「ねえ、こういうのってさ、春休み終わったあとに効くんだよね」
「学校始まってから、“あの夜楽しかったな”って思い出すやつ」
「分かる」
日和が身を起こして、スマホを掲げる。
「じゃあ最後に一枚だけ撮ろ。証拠写真。盛らないやつ」
「盛らない宣言、珍しいな」
「今日はこのまま残したいから!」
四人で肩を寄せて、ラグの上で一枚だけ撮る。
誰も完璧な角度じゃない。
でも、だからこそ今日っぽい。
日付が変わる少し前、ようやく片づけに入った。
カードを箱へ戻し、カップを下げ、クッションを元に戻す。
騒いだあとの静かな作業まで含めて、お泊まり会らしい終わり方だった。
客間へ向かう前、命が廊下で足を止める。
「ハヤトさん」
「うん」
「本日、最初から最後まで流れを崩さず進められました。……私、主催としては合格でしょうか」
「合格どころか、次も参加したいって思うやつです」
命はすぐには笑わなかった。
けれど、短い沈黙のあと、口元がやわらかく上がる。
「はい、ここからは就寝前の恒例コーナーです」
「恒例だったのか」
レンが苦笑すると、日和はクッションを抱えて胸を張る。
「今決めた。テーマは恋バナ! 恋人の“きゅんと来た瞬間”限定!」
命が湯呑みを持つ手をわずかに止める。
「……限定、ですか」
「そう、限定。重い話なし。『その仕草ずるい』ってやつだけ」
「ハードル高いな」
俺が言うと、日和は即座に指をさした。
「じゃ、ハヤトさんから!」
「なんで」
「こういう時の“なんで”は参加する人の台詞」
レンが笑ってうなずく。
「僕もハヤトからがいい」
逃げ道が塞がれたので、しばらく考えて口を開いた。
「……相手がふと赤くなる瞬間、きゅんとする」
「普段冷静な二人だけど、照れて頬が少し染まるのを見ると、こっちまで胸にくる」
日和の目がきらっと光る。
「わかるーー! 照れてる顔って刺さる!レンが照れながら告白してきたとき、凄いきゅんとしたもん」
レンは頷いたまま、耳の先を少し赤くして視線を逸らした。
「……それ、ここで言う?」
「言うよ。恋バナタイムだし」
日和は悪びれずに笑って、クッションを抱え直す。
「だってさ、レン普段は落ち着いてるじゃん。なのにあの時だけ声がちょっと震えてて、目だけはまっすぐで。あれ反則だった」
レンは咳払いをひとつして、湯呑みに手を伸ばす。
「反則って言われても」
「褒めてるの。最高の意味で」
そのやり取りに、命の口元が小さくゆるんだ。
「お二人らしいです。……その、良い意味で」
「命、それ笑ってるよね」
「少しだけです」
「次、レンね!」
「僕か。えっと……」
「相手が人前ではいつも通りなのに、二人になった瞬間だけ声が少し柔らかくなると、きゅんとくる」
「おお、具体的」
「あと、袖をちょっとつまむ仕草。あれは反則」
日和がクッションを叩いて笑う。
「レン、観察力が細かい!」
「観察じゃなくて記憶」
「もっと強いじゃん」
空気が温まったところで、日和が自分の番を始める。
「私はね、相手が“守る”って言うより、さりげなくこっち側に立ってくれる時」
「歩く時に車道側とか、混んでる場所で自然に前に出るとか。あれ、言葉より先にくるからずるい」
レンは少しだけ目を逸らして、照れくさそうに笑った。
「……それ、意識してやってるわけじゃないんだけど」
「うん、そこがいいの」
日和が即答して、クッションを抱え直す。
「あと笑うタイミングが同じだと、地味にきゅんとする」
ふたりのやり取りに、命の肩の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
日和がいよいよ、という顔で命に向き直る。
「じゃあ次、恵!」
日和に振られて、恵は背筋を正し、指先をそろえてから口を開いた。
「わたくしは――ハヤトさんが、覚悟を決めた顔をしている瞬間に、きゅんといたしますわ」
「迷いを置いて、まっすぐ前を見るお顔は……反則でございます」
日和が両手で口を押さえて、身を乗り出す。
「うわ、恵それ強い……! “覚悟を決めた顔”って、もう映画のワンシーンじゃん」
レンも感心したようにうなずいた。
「いいね。表情ひとつで空気が変わる瞬間って、確かにある」
恵は咳払いをひとつして、髪を耳にかける。
「普段は多くを語らない方が、ここぞでまっすぐ決めるお顔に弱いのでございます」
「言葉より先に“この人は逃げない”と伝わるので、胸が高鳴るのでございます」
「分かるー!」
日和がクッションを抱えたまま転がる。
「そういうの、あとからじわじわ効くやつ!」
恵はほんの少し頬を染め、視線をそらさずに続けた。
「……ただ、わたくしは少し変わっておりますの」
「強引に引かれるのも、実はきゅんとしてしまいますわ。もちろん、ハヤトさんに限りますけれど」
レンが小さく笑う。
「恵は普段しっかりしているから、いざという時に引っ張ってくれる人にきゅんとくるんだね」
「じゃ、満を持して――命、ラスト!」
「……私、ですか」
「命の“きゅん”、聞きたい」
命は、敷いた布団の端をそっと整えてから、指先を膝の上で重ねた。
少しだけ視線を下げ、呼吸を整えて口を開く。
「……では、ひとつだけ」
「以前、皆さんで花火を見に行った夜のことです」
日和が「おっ」と小さく声を上げる。
命は頬にわずかな熱をのせたまま、言葉を続けた。
「ハヤトさんが浴衣姿でいらして、帯をきちんと締めて、袖を軽く払って歩かれた瞬間――」
「いつもの制服姿とも私服とも違って、急に距離が近く見えてしまって……その、胸が高鳴りました」
レンが目を細めてうなずく。
「仕草まで見てるの、命さんらしい」
命は小さく首肯する。
「はい。見た目だけではなく、浴衣ならではの仕草――袖を押さえて座るところや、帯に軽く手を添えて歩幅を整えるところが、より……ずるいと申しますか」
日和がクッションを抱えたまま転がる。
「わかるーー! 浴衣って普段との差が強いんだよね!」
命は恥ずかしそうに瞬きをして、それでも最後まで言い切った。
「ですので、私の“きゅん”は、ハヤトさんの浴衣姿でございます」
部屋が一拍静かになってから、日和がぱんっと手を叩く。
「はい本日ベストきゅん出ました!」
命はそっと視線を伏せる。
「……話しすぎました」
「また着るよ和服」
俺が短く返すと、命は小さくうなずいた。
「はい」
最後に日和が手を叩く。
「よし、今日の結論。きゅんは派手なイベントより、普段の仕草に宿る!」
「名言っぽくまとめたな」
「“っぽく”じゃなくて名言だから」
笑い声がまた一つ重なって、時計の針が日付を跨ぐ。
襖を閉める直前、命が廊下で並んで歩きながら小さく言った。
「……先ほどの話、聞かれてしまいましたね」
「うん」
「恥ずかしいです」
「俺はうれしかった」
命は短く息を吐いて、でも否定せずに返す。
「……それなら、よかったです」
就寝前の恋バナは、騒がしく始まったのに、最後だけ静かに胸へ残った。