春休み13日目の朝は、まだ空気が少し冷たかった。
窓の外は明るいのに、家の中には夜の静けさの名残が薄く残っている。
昨夜のお泊まり会の片づけは、命が朝一番で半分以上終わらせていた。
客間の布団はきれいに畳まれ、リビングのクッションは元の位置へ戻っている。
テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁と焼き魚、出汁巻き、炊きたてのご飯。
“いつもの朝”に見えるのに、今日はどこかだけ特別だ。
日和は寝ぐせを押さえながら椅子に滑り込み、レンは眠そうな顔で湯呑みを両手に包む。
命は配膳の最後に箸をそろえ、全員の前に小皿を静かに置いた。
「では、いただきましょうか」
「いただきまーす」
「いただきます」
「いただきます」
最初の数分は、箸の音と湯気だけが食卓を満たす。
騒がしい夜の翌朝は、このくらい静かなほうがちょうどいい。
日和が卵焼きを口に運んで、すぐ顔を上げる。
「命、これ今日もおいしい。昨日の夜からずっと当たりなんだけど」
「ありがとうございます。朝は味を薄めにしております」
「わかる、優しい。胃が助かる」
レンが味噌汁を飲んで小さくうなずく。
「こういう朝ごはん、落ち着くな」
命は「はい」と短く返して、ご飯茶碗を持ち直した。
表情はいつも通り穏やかで、でも視線の端に小さな達成感が見える。
主催として一晩を走りきって、朝まできちんと着地させた顔だ。
俺は時計を一度だけ確認する。
今日はこのあと撮影。明日も撮影。
二日連続の早出で、春休みの終盤は仕事の色が濃い。
命がそれに気づいて、湯呑みを置いてからこちらを見る。
「ハヤトさん、本日も撮影でしたね」
「うん。今日と明日、朝からです」
日和が箸を止める。
「春休みラストで二連続か。ハードだね」
「まあ、決まってる仕事だから」
レンが静かに続ける。
「でも、こうして朝一緒に食べられたのはよかった」
「うん。そこは本当に」
命は一度だけうなずいてから、言葉を丁寧に選んだ。
「それでは、今朝は“見送り優先”で参ります。食後の片づけは私が行いますので、ハヤトさんは支度を優先してください」
「助かる」
「はい。任せてください」
日和が笑って親指を立てる。
「命、司令塔うますぎ」
「段取りだけは、得意ですので」
食卓に小さな笑いが広がる。
昨夜の恋バナの余韻はまだあるのに、誰もわざわざ触れない。
その距離感が、今朝は心地いい。
朝食を終えるころ、日差しはすっかり強くなっていた。
春休みはもう終盤。
湯呑みと皿を重ねる音が、いつもより少しだけ軽い。
昨夜のお泊まり会の余韻が残っているせいか、食卓の空気は静かなまま明るかった。
「片づけは私が行います」
命がそう言って立ち上がる。
「ハヤトさんは、お支度を優先してください。本日も撮影でいらっしゃいますので」
「助かる。ありがとう」
「いえ」
日和は椅子の背にもたれて、大きく伸びをした。
「いやー、朝ごはんまで完璧なお泊まり会だったね」
「命、主催の才能あるって」
レンも頷く。
「準備も進行も、終わり方まできれいだった」
命はスポンジを手に取ったまま、わずかに視線を下げる。
「ありがとうございます。皆さんが合わせてくださったおかげです」
「その返し命らしい」
日和が笑って、レンが小さく吹き出した。
俺は時計を見て立ち上がる。
今日は朝から撮影。明日も同じく撮影。
春休みの残りは少ないのに、予定表はまだ白くない。
廊下へ出ると、命が洗い物の手を止めて顔を上げた。
「ハヤトさん、玄関までお見送りいたします」
「うん」
玄関で靴を履く間、日和とレンも後ろからついてくる。
「いってらっしゃい、ハヤトさん!」
「いってらっしゃい。今日は風強いから、移動気をつけて」
「行ってきます」
扉を開けると、春の風が思ったより冷たかった。
門へ向かって二歩ほど進んだところで、後ろから命の声が届く。
「ハヤトさん」
振り返ると、命はいつもの落ち着いた顔で立っていた。
けれど、言葉にするまでの一拍だけが少し長い。
「本日の撮影も、滞りなく進みますように」
「……お帰りを、お待ちしております」
「分かった。行ってくる」