教室の中は、すでにざわめいていた。
視線が集まるのは、俺たち──正確には、俺とレンだ。慣れている。ここでは、それが普通だ。
けれど今日は、少し違った。
御堂命が、俺のすぐ後ろを歩いている。
それだけで、空気が一段、張りつめる。
教室に入ると、教室の前方に、出席番号順の座席表が貼られていた。
最初の席は、名前順だ。
俺は前から二列目、廊下側。
そのすぐ隣に、佐久間レンの名前があった。
顔を向けると、レンが気づいて小さく手を振る。
緊張しているのが、分かりやすい。
そして──
御堂は、真ん中ら辺の席だった。列も距離も、はっきり離れている。
席に着く。
椅子を引く音が重なり、教室が一段落ち着く。
命とは距離が遠いが仕方がない
担任が入ってきて、ホームルームが始まる。
挨拶、注意事項、これからの予定。
担任の合図で、自己紹介が始まった。
出席番号順。つまり、前の方からだ。
俺はあ行なので早い。
「天城隼人です。よろしくお願いします」
それだけ言って、座る。
ざわつきが起きるのは、いつものことだ。気にしない。
すぐにレンの番がやってきた、レンが小さく息を吸うのが分かった。
「さ、佐久間レンです。えっと……よろしくお願いします」
声は少し上ずっていたが、途中で噛むことはなかった。
拍手が起きる。温度は、俺の時より少し柔らかい。
(まあ、そうなるよな)
そこから、何人か続く。
そして──後方から、静かな声が響いた。
「……御堂命です。よろしくお願いします」
それだけなのに、教室の空気が一瞬、変わった。
ざわめきが、意識的に抑えられたような静けさ。
視線が、後ろへ集まる。
俺も、振り返る。
背筋を伸ばして立つ姿は、遠くからでもはっきりしていた。
表情は読めない。けれど、揺れていない。
少し遅れて拍手が起きる。
命は一礼して、席に戻った。
それ以上、何も残さない。
けれど──
名前だけで、十分だった。
自己紹介が続く間も、
俺の意識は、時折、後方へ引き戻されていた。
HRが終わり、下校の準備を始めるよう促される。
椅子を引く音と、鞄のファスナーの音が、教室に一斉に広がった。
立ち上がった瞬間、分かる。
視線の集まり方が、はっきり変わった。
「天城くんってさ──」
「さっきの入学式、すごく目立ってたよね」
「ねえ、どこの小学校?」
自然な流れだ。
もう慣れている。
「あとで話そう。今日は用事がある」
角を立てない程度にそう言うと、
いくつか不満そうな声を残して、道が空く。
少し離れた場所では、レンも同じような状況だった。
困った顔で、こちらを見る。助ける余裕はない。
ふと、視線を感じた。
教室の後方。
御堂が、鞄を持ったまま立っている。
こちらを見ている。
正確には──様子を見ている。
人の流れが一段落したところで、
御堂が歩き出した。
通路を進むたび、周囲の空気が静かになる。
俺の前で、足を止めた。
「……ハヤトさん」
「どうした?」
短く返す。
周囲の視線が、一斉に集まるのを感じる。
「今日は……ありがとうございました。朝のこと」
声は低く、抑えられている。
それでも、意志ははっきりしていた。
「気にするほどのことじゃない」
本心だった。
御堂は一瞬だけ目を伏せ、
それから、ほんのわずかに頷く。
「……でも、助かりました」
それだけ言って、半歩下がる。
これ以上は踏み込まない、という線引き。
「また明日」
俺が言うと、
御堂は少し間を置いてから、答えた。
「……はい。また、明日」
短い会話。
けれど、周囲には十分すぎるほどだった。
ざわめきが戻る。
俺はレンを回収して、教室を出た。
廊下に出ると、下校する生徒の流れができている。
その中に、御堂の背中が見えた。
(今日は、ここまでだな)
そう思いながらも、
視線が自然と、その背を追っていることに気づく。
関係は、まだ始まっていない。
それでも──
確かに、印象だけは残った。
俺は、その感覚を否定せず、
校門へ向かって歩き出した。
校門を出ると、空気が少しだけ緩んだ。
制服姿の集団が、それぞれの方向へ散っていく。
「……はあ」
隣で、レンが大きく息を吐く。
「疲れたか?」
「少しだけ」
そう言って苦笑する。
俺は肩をすくめた。
「初日だ。すぐ慣れる」
「慣れるかなあ……」
レンはそう言いながら、ちらりと後ろを振り返った。
俺が何を見ていたか、分かっている目だ。
「さっきの人さ」
やっぱり来た。
「御堂さん、だよね。……すごかったね」
「まあな」
短く答える。
「なんていうか……近寄りがたいっていうか。クラス、静かになったし」
「たしかにな」
それだけ言って、歩き続ける。
レンは一拍置いてから、少し声を落とした。
「……ハヤト、ああいう人に近づくとさ、面倒なことにならない?」
心配している。
レンらしい。
俺は、足を止めずに答えた。
「なるだろうな」
まぁ間違いなくいい所の出だろう。
気軽にパートナーという訳にもいかないだろう。
許嫁もいるかもしれないしな。
「即答!?」
「でも」
一度、レンの方を見る。
「だからって、放っておく理由にはならない」
レンは目を瞬かせた。
「え……まさか」
俺は、特別な調子もつけずに言う。
「御堂命は、落としにいく」
一瞬、沈黙。
「……は?」
「聞こえた通りだ」
冗談めかした笑いはない。
レンは小さく息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……ハヤトって、凄いよね」
「褒め言葉か?」
「うん、特に覚悟とか」
視線を前に戻す。
校舎が、少しずつ遠ざかっていく。
「御堂は、簡単じゃない」
「うん。分かる」
「だからいい」
それだけ言った。
レンは、もう何も言わなかった。
代わりに、苦笑して肩をすくめる。
「……じゃあさ」
「ん?」
「僕は、巻き込まれないように祈っとくよ」
「期待しとけ」
軽く返す。
けれど胸の奥では、もう決めていた。
今日出会ったばかりの、あの少女を。
俺は、逃がすつもりはなかった。