※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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200話 沙織の出産

 玄関の扉を開けると、家の中はもう夕食の匂いで満ちていた。

 出汁の湯気に、焼いた魚の香りが重なる。

 撮影帰りの体には、それだけで力が抜ける。

 

「おかえりなさい、ハヤトさん」

 

 命が廊下の先で迎える。

 いつもの落ち着いた声。

 でも、目だけは一瞬だけやわらかく緩んだ。

 

「ただいま。遅くなった」

「問題ございません。お食事、すぐにお出しできます」

 

 リビングに入ると、綾乃さんと澄乃さん、由紀子姉さん、陽菜乃さんが先に席についていた。

 母さんはクッションを背に、少し深く腰掛けている。

 顔色は悪くない。

 ただ、動作の一つ一つがいつもより慎重だった。

 

「戻ったわね、ハヤト君」

「はい。撮影、予定どおり終わりました」

 

 綾野さんが声をかけてきた。

 澄乃さんが湯呑みを置いて、俺を見る。

 

「坊や、顔はまだ現場のままね。まず食べなさい」

「ありがとうございます。そうします」

 

 命が手際よく配膳を進める。

 茶碗の向き、箸の位置、汁椀の角度。

 整った食卓は、それだけで気持ちを落ち着かせる。

 

「いただきます」

 

 声がそろって、夜がゆっくり始まる。

 

 夕食は、特別な献立じゃなかった。

 でも、だからよかった。

 白いご飯、味噌汁、焼き魚、煮物。

 いつもの味が、今日の疲れを静かにほどいていく。

 

 命がお泊り会の話題を出し、陽菜乃さんが「次回は読書会形式も面白そう」と言い、由紀子姉さんが「まずは命の休息を挟みなさい」と短く返す。

 いつもの御堂家の会話だった。

 

 食後、俺は風呂へ向かった。

 湯に肩まで沈むと、今日の現場音がやっと体から離れていく。

 カチンコの音。

 ワイヤーの張る音。

 浅野さんの「半拍早く」。

 全部が湯気の向こうに遠のいていく。

 

 湯を上がって髪を拭きながら廊下へ出ると、命が待っていた。

 

「ハヤトさん、温かい麦茶を」

「ありがとう」

 

 受け取って一口飲む。

 命は俺の顔を見て、少しだけ首を傾けた。

 

「本日の撮影、いかがでしたか」

「初変身、撮り切れた。細かい修正はあるけど、いいテイクになった」

「それは何よりです」

 

 命が短くうなずく。

 その時、リビングの方から椅子の脚が床を擦る音がした。

 

 次に聞こえたのは、母さんの浅い息だった。

 

「……っ」

 

 反射で、命と同時に振り返る。

 

 リビングへ戻ると、母さんがテーブルに手を置いて、呼吸を整えようとしていた。

 綾乃さんがすぐ隣に立ち、背中へ手を添える。

 澄乃さんの目が一気に鋭くなる。

 

「沙織、大丈夫?」

「……間隔、測って」

 

 母さんが額に汗を浮かべながら言う。

 普段の冗談混じりの声じゃない。

 痛みを押し返すための、まっすぐな声だった。

 

 綾乃さんがすぐにスマホの時計を確認する。

 命は一歩前に出て、落ち着いた声で尋ねる。

 

「最初の痛みは、いつからでしょうか」

 

「さっき……食後に一度。今ので二回目……」

 

 澄乃さんが短く指示を飛ばす。

 

「風香を呼んで。病院バッグと母子手帳。車を正面に回しなさい」

「承知しました」

 

 廊下の向こうで、渡会風香の返事が鋭く返る。

 足音がすぐ走り去った。

 

 空気が一瞬で切り替わる。

 さっきまでの“家の夜”が、“出産待機の夜”に変わる瞬間だった。

 

 母さんがテーブルを掴む手に力を入れる。

 呼吸は短い。

 でも、目はまだ強い。

 

「ハヤト……」

「うん。ここにいる」

 

 俺がそばでしゃがむと、母さんは小さくうなずいた。

 

「まだ……大丈夫。次が来るまで、平気」

 

 綾乃さんが静かに言う。

 

「沙織さん、呼吸はゆっくり。吸って、吐いて。焦らなくて大丈夫です」

 

 命はスマホに間隔を記録しながら、声の温度を変えない。

 

「二回目、記録しました。次の波を確認します」

 

 陽菜乃姉さんがコートを持ってくる。

 由紀子姉さんは玄関先へ回って靴をそろえる。

 澄乃さんは病院への連絡内容を短くまとめ、綾乃さんに渡した。

 

 全員が動いている。

 誰も慌てていない。

 でも、全員が速い。

 

 数分後、三回目の痛みが来た。

 

 母さんの肩が強くこわばり、息が詰まる。

 綾乃さんがすぐ背中を支え、命が時刻を告げる。

 

「三回目、確認しました。間隔が詰まってきています」

 

 澄乃さんが結論を出す。

 

「行くわよ。今夜、始まった」

 

 玄関灯の下、夜気はまだ冷たい。

 車のヘッドライトが門を照らし、白い光が地面に伸びる。

 

 母さんを中心に、全員が位置につく。

 綾乃さんが隣。

 命が記録と荷物。

 由紀子姉さんと陽菜乃さんが玄関先の動きを手早く整える。

 澄乃さんが最後に全体を見て、短く言った。

 

「大丈夫。いつも通りにやるわよ」

 

 俺は後部座席のドアを押さえながら、沙織さんを見る。

 

「行こう」

 

 母さんは息を整え、唇を引き結んでうなずいた。

 

「……うん。行く」

 

 ドアが閉まる音が、夜にひとつ響く。

 

 車はすぐに門を抜けた。

 正面のライトが私道を白くなぞり、静かな住宅街を短く切っていく。

 

 後部座席で、母さんはシートに背を預けたまま、呼吸を一定に保っていた。

 綾乃さんが隣で手を握り、命はスマホの時計を見ながら陣痛の間隔を記録する。

 

「次の波まで、あと少しでございます」

 

 命の声は低く、落ち着いていた。

 その一言で、車内の空気が少しだけ整う。

 

「……ありがとう」

 

 母さんが小さく返す。

 額には薄く汗がにじんでいたが、目は逸れていない。

 

 運転席の渡会風香が短く告げる。

 

「まもなく到着します」

 

 澄乃さんが助手席でうなずいた。

 

「慌てなくていい。いつも通り、順番に」

 

 その言葉どおり、到着まで二十分とかからなかった。

 提携先の総合病院は、夜間入口までの導線も手続きも通っている。

 車が止まると同時に、待機していた看護師がストレッチャーを寄せてきた。

 

「御堂さんですね。お待ちしていました」

 

 綾乃さんが必要書類を渡し、命が記録した時刻をそのまま引き継ぐ。

 由紀子姉さんと陽菜乃さんは荷物を分け、澄乃さんが全体の動きを一瞥して位置を決める。

 短い言葉だけで、全員の役割が噛み合った。

 

 分娩エリアの扉が閉まり、待合に夜の静けさが戻る。

 

 時計は二十二時を少し回っていた。

 

 俺は腰を下ろしたまま、扉の向こうを見つめる。

 ここからは、代われない時間だ。

 だからこそ、立ち続けるより、呼ばれた時にすぐ動けるように整えておく。

 

 命が紙コップの白湯を差し出してくる。

 

「ハヤトさん、少しでも」

「ありがとう」

「母さん、いまは呼吸を崩しておりません。進行は予定範囲内とのことです」

「分かった」

 

 夜は長かった。

 23時、24時、午前2時。

 報告は短く、そのたびに状況は少しずつ進む。

 

 午前4時を過ぎるころ、助産師の足取りが速くなる。

 綾乃さんが呼ばれ、空気が一段引き締まった。

 

 澄乃さんが静かに言う。

 

「ここからが本番よ」

 

 誰も返事はしなかった。

 代わりに、全員が同じ方向を見た。

 

 それからの時間は、時計の針だけがやけに速かった。

 廊下を行き来する看護師の足音。

 ときおり開く扉。

 短い報告を受けるたびに、空気が張って、また静まる。

 

 午前4時30分。

 綾乃さんが呼ばれて分娩(ぶんべん)エリアへ入る。

 命は記録していた間隔を見直し、澄乃さんは病室移動後の段取りを由紀子姉さんと陽菜乃姉さんへ簡潔に共有した。

 俺は紙コップの水を一口だけ飲んで、もう一度扉の方を見る

 

 午前4時50分。

 助産師が戻ってきて、「最終段階です」と短く告げる。

 その一言で、全員の呼吸が浅くなった。

 

 そして午前5時過ぎ──。

 

 扉が開き、助産師がはっきりと告げる。

 

「おめでとうございます。無事にご出産です。女の子です」

 

 その瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。

 澄乃さんが目を閉じ、綾乃さんは小さく息を吐く。

 命は胸の前で重ねていた指をゆっくり解いた。

 

 俺はようやく、肩から力が抜けるのを感じる。

 

「母体は」

「安定しています。少し休んでいただいた後、短時間ですがご対面いただけます」

「ありがとうございます」

 

 綾乃さんが深く頭を下げ、澄乃さんは胸の前で組んでいた手をそっとほどいた。

 由紀子姉さんは短く息を吐き、陽菜乃さんは目元を押さえてから、姿勢を正し直す。

 命は記録用のメモを閉じて、ペン先を静かにしまった。

 

 助産師が続ける。

 

「お母さまは処置を終えて、いまは休んでおられます。赤ちゃんも状態は良好です」

「ご面会はお一人ずつ、数分でお願いいたします」

「承知しました」

 

 綾乃さんが答えると、待合の空気がようやく“待機”から“安堵”へ切り替わった。

 

 案内された廊下は、明け方の白い光で薄く照らされていた。

 窓の外はもう朝で、遠くの建物の輪郭がはっきり見える。

 長い夜だったと、そこで初めて実感する。

 

 最初に面会した綾乃さんが戻ってきた時、目に涙を浮かべながらも笑っていた。

 

「小さくて、でも力強い子です」

 

 次に澄乃さんが行き、戻るなり、いつもの調子で言う。

 

「指が長いわ。将来が楽しみね」

 

 その言葉に、緊張で固まっていた肩が少し緩む。

 由紀子姉さんと陽菜乃さんも順に面会を終え、最後に俺の番が回ってきた。

 

 病室の前で一度だけ呼吸を整える。

 扉を開けると、母さんはベッドで静かに目を閉じていた。

 顔には疲労が残っているのに、口元はわずかにやわらかい。

 その隣のベビーベッドに、小さな毛布の山がある。

 

 近づくと、赤ちゃんが眠りながら、指先をゆっくり開いて閉じた。

 たったそれだけの動きなのに、目が離せなかった。

 

「……そばにいてくれたんだね」

 

 母さんが目を開けて、小さく笑う。

 

「うん。お疲れさま」

「長かったでしょ」

「長かった。でも、ちゃんと朝になった」

 

 母さんは喉の奥で小さく笑って、視線を赤ちゃんへ戻す。

 

「……名前」

 

 母さんが小さく言う。

 

 俺は頷いた。

 

「一緒に決めよう」

 

 母さんは少しだけ目を伏せて、息を整える。

 

「……菜の花が好きなの」

 

 母さんが小さく言う。

 

「春の匂いがするから。明るくて……強くて」

「分かる」

 

 俺は頷いた。

 

 母さんは少しだけ目を伏せて、続ける。

 

「だから……“菜”を入れたい」

 

 赤ちゃんを見たまま、母さんが言った。

 その一文字だけで、母さんの気持ちが伝わる。

 

「……菜」

 

 俺は小さく繰り返した。

 

 菜の花。春。明るさ。強さ。

 この子に合う。

 

 俺は赤ちゃんに視線を落として、もう一文字を探した。

 

 この子が生まれた朝。

 窓の外の光。病院までの道。季節の匂い。

 

「桜」

 

 俺が言うと、母さんがゆっくりこちらを見る。

 

「……桜?」

「この子が生まれた季節だから。春の名前にしたい」

 

 母さんは少しだけ考える間を置いて、赤ちゃんへ視線を戻した。

 

「……菜と、桜」

 

 母さんが静かに並べる。

 

 俺は口の中で繋げて、言った。

 

「菜桜(なお)」

 

 母さんの目が少し潤む。

 

「……菜桜」

 

 呼んでも変じゃない。

 ちゃんと、この子の名前になる響きだった。

 

「いい」

 

 俺が言うと、母さんは小さく頷いた。

 

「……決めた。菜桜」

「……菜桜」

 

 母さんが、もう一度確かめるみたいに言う。

 

「菜桜」

 

 その2文字が、部屋の中で落ち着いた。

 呼んでも変じゃない。ちゃんと名前だ。

 

「いい」

 

 俺が言うと、母さんの目が少し潤む。

 

 母さんは赤ちゃんを見て、もう一度だけ言った。

 

「菜桜」

 

 俺も同じ名前を口にする。

 

「菜桜」

 

 面会時間が来て、病室を出る。

 廊下に戻ると、命が静かに立っていた。

 

「いかがでしたか」

「元気だった。母さんも、少し休めば落ち着くと思う」

「それは何よりです」

 

 命はほんの少しだけ目を細める。

 その表情を見て、夜通し続いた緊張が、ようやく終わったのだと実感した。

 

 窓の外はすっかり朝で、白い光が床を細く伸ばしていた。

 

 母さんは処置後の休息に入り、しばらくは眠っていると聞く。

 綾乃さんがスマホを伏せ、澄乃さんが湯呑みを持ち直したところで、由紀子姉さんが静かに言った。

 

「名前、どうする」

 

 その一言で、場の空気が少しだけやわらかくなる。

 俺はさっき見た小さな寝顔を思い出しながら答えた。

 

「……菜の花の菜に桜と書いて菜桜(なお)にしました」

 

 命が目を上げる。

 

「菜の春と、桜の春。いまの季節に、よく合います」

 

 陽菜乃姉さんも頷いた。

 

「響きも美しく、やわらかな印象でございますね」

 

 澄乃さんが微笑む。

 

「決まりね。菜桜。いい名前だわ」

 

 綾乃さんは短く息をついて、はっきり言った。

 

「では、この子は菜桜ちゃん。正式にそう呼びましょう」

 

 長い夜の終わりに、名前がひとつ置かれた。

 それだけで、朝の光が少しだけあたたかくなった気がした。

 

 由紀子姉さんがこちら見ながら言う。

 

「学校には連絡済み」

「遅れていいから仮眠とりな」

「分かった」

 

 陽菜乃姉さんが水筒を差し出してくる。

 

「温かいお茶を詰めました。道中でお飲みくださいませ」

「ありがとうございます、陽菜乃さん」

 

 病院を出るころには、朝日が駐車場の白線をくっきり照らしていた。

 車に乗り込む前、俺はもう一度だけ振り返る。

 

 この建物の中で、今夜ひとつ命が増えた。

 それだけで、世界の見え方が少し変わる。

 

 帰宅して、シャワーを浴び、制服に着替え、軽く何かを口に入れる。

 短い仮眠をはさんで家を出た。

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