※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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201話 桜、新たな出会い

 朝の空気はもう春らしく、日差しだけが先に季節を進めている。

 寝不足の重さはまだ肩に残っていたが、歩き出せば頭は少しずつ学校のほうへ戻っていく。

 

 駅の改札前は、通学の時間帯を少し過ぎたせいで人波が薄い。

 その隅で、ひとりの女子生徒がしゃがみ込むようにして床を見回していた。

 小さな鞄を開けては閉じ、ポケットを探しては首を振る。

 焦りが、背中の動きだけで分かる。

 

「ない……ないっす……どこっすか……」

 

 低くつぶやいて、今度は改札機の横まで移動する。

 顔を上げた拍子に見えた制服のラインで、同じ和敬中学校だとすぐ分かった。

 

 その時、改札脇のベンチ下に、ころんと小さな定期入れが見えた。

 薄い色で、端に小さなチャームがついた、かわいいデザイン。

 拾い上げると、透明窓の奥に通学定期が入っている。

 

 俺は定期入れを持って、改札脇で探している彼女に声をかけた。

 

「これ、君の?」

 

 彼女は一瞬きょとんとして、すぐに目を見開いた。

 

「あっ……! それ、私のっす!」

 

 定期入れを両手で受け取って、何度も頭を下げる。

 

「助かったっす……! ほんとにありがとうございますっす!」

 

 彼女は定期入れを胸に抱えるみたいに持って、何度も頭を下げた。

 勢いのある話し方なのに、礼はまっすぐだ。

 

「見つかってよかった」

「はいっす! 朝から終わったと思ったっす……」

 

 呼吸を整えながら、彼女は制服の襟を正す。

 胸元の校章は、やっぱり和敬中のものだった。

 

「和敬?」

「そうっす! え、同じ和敬っすか?」

「うん。同じ」

 

 彼女はぱっと表情を明るくする。

 

「まじっすか。よかった……一人で遅刻コースかと思ってたっす」

 

 少しだけ迷ってから、俺は言った。

 

「どうせ同じ方向だし、一緒に行く?」

「いいんすか?」

「うん。行こう」

「ありがとうございますっす!」

 

 改札を抜けると、駅前の並木道は桜でいっぱいだった。

 枝先からこぼれるみたいに花が重なって、歩道の上だけ光がやわらかくなる。

 風が吹くたび、薄い花びらが二、三枚ずつほどけて、アスファルトの上をゆっくり滑っていった。

 

 通学のピークは過ぎていて、道を歩く生徒は俺たちくらいだ。

 静かな朝に、桜だけが少しにぎやかだった。

 

 隣で結陽が足を止めかける。

 

「うわ……すごいっす。満開っすね」

「ちょうど見頃だな」

 

 結陽は鞄の内ポケットを押さえて、定期入れがあるのを確かめてから、ほっとしたように笑った。

 そのまま俺の方へ向き直って、ぺこっと頭を下げる。

 

「改めて、お礼言わせてくださいっす。ほんとに助かったっす」

「気にしなくていい」

 

 桜の枝の隙間から、朝の日差しが斜めに落ちる。

 その光の中で、結陽が少し背筋を伸ばした。

 

「私、日向結陽(ひなたゆうひ)っていうっす。今日が入学一日目の一年っす」

 

 名乗ると同時に、結陽は髪を耳にかけて小さく笑った。

 春の光をそのまま連れてきたみたいな、素直で明るい顔立ち。

 新品の制服にまだ少し着られている感じまで含めて、普通にかわいいと思った。

 

「天城ハヤト。二年」

「ハヤト先輩っすね。定期、拾ってくれてほんと感謝っす」

「気にしなくていい。落とし物は戻るのが一番だから」

 

 結陽は定期入れを見て、照れたように笑った。

 

「これ、妹にもらったやつなんすよ。なくしたら泣くとこだったっす」

「それなら、なおさら見つかってよかった」

 

 校門へ向かう坂を上る。

 結陽の新品のローファーが、まだ足になじんでいないのか、歩幅が少しちぐはぐだ。

 緊張と焦りと安堵がいっぺんに来てる顔で、前だけ見て歩いている。

 

「入学初日って、まず何するんすかね。教科書配布とか」

「最初はガイダンス。先生の話と提出物確認。あとは自己紹介とか」

「うわ、提出物。あります。ありますけど、順番間違えそうっす」

「教室入る前に、一回だけ深呼吸しとけば大丈夫」

「それ、効くっすか」

「効く」

 

 短く答えると、結陽は真面目な顔で一度うなずいた。

 

 校門が見えてくる。

 普段より遅い時間の学校は、騒がしさよりも“動いている気配”だけがある。

 体育館側からマイクの音が薄く聞こえ、職員室前の廊下を先生が早足で横切るのが見えた。

 

 門の前で結陽が足を止める。

 

「……ここまでで大丈夫っす。ほんとに助かったっす」

「職員室、場所分かる?」

「えっと、昇降口入って右……でしたっけ」

「正面玄関入って左。遅れて来たって言えば案内してくれる」

「了解っす」

 

 結陽は背筋を伸ばして、鞄を持ち直した。

 

「ハヤト先輩――あ、二年のハヤトさん。朝、ほんとにありがとうございましたっす」

「気にしなくていい。初日、行ってこい」

「はいっす!」

 

 結陽は小さく一礼して、校舎へ駆けていった。

 途中で一度だけ振り返って、定期入れを軽く持ち上げて見せる。

 “ちゃんとあるっす”って顔だった。

 

 俺はそれを見て、少しだけ笑う。

 長い夜のあとに始まった朝は、慌ただしかった。

 でも、こういう小さな出会いがあると、日常に戻る足取りは少し軽くなる。

 

 時計は9時半を少し過ぎたところ。

 

 俺は昇降口で上履きに履き替え、廊下の掲示板を一度だけ見直す。

 

 二年C組。

 

 見慣れない組名が、紙の上でやけにくっきりして見えた。

 クラス替えの結果は朝の連絡で知っていたが、実際に教室の前へ立つと実感が違う。

 知っている名前が、頭にひとつも浮かばない。

 

 廊下の先、教室の扉はもう閉まっている。

 ノックを二回。

 中から担任の「入れ」が返ってきた。

 

 扉を開けると、クラスの視線が一度だけ集まる。

 

「事情は聞いてる。席につけ」

 

「はい」

 

 椅子を引いて座り、ノートを開く。

 ペン先を置くと、ようやく今日が“いつもの学校”に切り替わった。

 

 けど、駅で慌てていた一年生の声だけは、しばらく耳に残っていた。

 ――日向結陽。

 入学初日に定期をなくして、それでも最後は前を向いて走っていった子。

 

 たぶん、ああいう出会いは、あとから効いてくる。





【挿絵表示】

日向結陽(ひなたゆうひ)
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