朝の空気はもう春らしく、日差しだけが先に季節を進めている。
寝不足の重さはまだ肩に残っていたが、歩き出せば頭は少しずつ学校のほうへ戻っていく。
駅の改札前は、通学の時間帯を少し過ぎたせいで人波が薄い。
その隅で、ひとりの女子生徒がしゃがみ込むようにして床を見回していた。
小さな鞄を開けては閉じ、ポケットを探しては首を振る。
焦りが、背中の動きだけで分かる。
「ない……ないっす……どこっすか……」
低くつぶやいて、今度は改札機の横まで移動する。
顔を上げた拍子に見えた制服のラインで、同じ和敬中学校だとすぐ分かった。
その時、改札脇のベンチ下に、ころんと小さな定期入れが見えた。
薄い色で、端に小さなチャームがついた、かわいいデザイン。
拾い上げると、透明窓の奥に通学定期が入っている。
俺は定期入れを持って、改札脇で探している彼女に声をかけた。
「これ、君の?」
彼女は一瞬きょとんとして、すぐに目を見開いた。
「あっ……! それ、私のっす!」
定期入れを両手で受け取って、何度も頭を下げる。
「助かったっす……! ほんとにありがとうございますっす!」
彼女は定期入れを胸に抱えるみたいに持って、何度も頭を下げた。
勢いのある話し方なのに、礼はまっすぐだ。
「見つかってよかった」
「はいっす! 朝から終わったと思ったっす……」
呼吸を整えながら、彼女は制服の襟を正す。
胸元の校章は、やっぱり和敬中のものだった。
「和敬?」
「そうっす! え、同じ和敬っすか?」
「うん。同じ」
彼女はぱっと表情を明るくする。
「まじっすか。よかった……一人で遅刻コースかと思ってたっす」
少しだけ迷ってから、俺は言った。
「どうせ同じ方向だし、一緒に行く?」
「いいんすか?」
「うん。行こう」
「ありがとうございますっす!」
改札を抜けると、駅前の並木道は桜でいっぱいだった。
枝先からこぼれるみたいに花が重なって、歩道の上だけ光がやわらかくなる。
風が吹くたび、薄い花びらが二、三枚ずつほどけて、アスファルトの上をゆっくり滑っていった。
通学のピークは過ぎていて、道を歩く生徒は俺たちくらいだ。
静かな朝に、桜だけが少しにぎやかだった。
隣で結陽が足を止めかける。
「うわ……すごいっす。満開っすね」
「ちょうど見頃だな」
結陽は鞄の内ポケットを押さえて、定期入れがあるのを確かめてから、ほっとしたように笑った。
そのまま俺の方へ向き直って、ぺこっと頭を下げる。
「改めて、お礼言わせてくださいっす。ほんとに助かったっす」
「気にしなくていい」
桜の枝の隙間から、朝の日差しが斜めに落ちる。
その光の中で、結陽が少し背筋を伸ばした。
「私、
名乗ると同時に、結陽は髪を耳にかけて小さく笑った。
春の光をそのまま連れてきたみたいな、素直で明るい顔立ち。
新品の制服にまだ少し着られている感じまで含めて、普通にかわいいと思った。
「天城ハヤト。二年」
「ハヤト先輩っすね。定期、拾ってくれてほんと感謝っす」
「気にしなくていい。落とし物は戻るのが一番だから」
結陽は定期入れを見て、照れたように笑った。
「これ、妹にもらったやつなんすよ。なくしたら泣くとこだったっす」
「それなら、なおさら見つかってよかった」
校門へ向かう坂を上る。
結陽の新品のローファーが、まだ足になじんでいないのか、歩幅が少しちぐはぐだ。
緊張と焦りと安堵がいっぺんに来てる顔で、前だけ見て歩いている。
「入学初日って、まず何するんすかね。教科書配布とか」
「最初はガイダンス。先生の話と提出物確認。あとは自己紹介とか」
「うわ、提出物。あります。ありますけど、順番間違えそうっす」
「教室入る前に、一回だけ深呼吸しとけば大丈夫」
「それ、効くっすか」
「効く」
短く答えると、結陽は真面目な顔で一度うなずいた。
校門が見えてくる。
普段より遅い時間の学校は、騒がしさよりも“動いている気配”だけがある。
体育館側からマイクの音が薄く聞こえ、職員室前の廊下を先生が早足で横切るのが見えた。
門の前で結陽が足を止める。
「……ここまでで大丈夫っす。ほんとに助かったっす」
「職員室、場所分かる?」
「えっと、昇降口入って右……でしたっけ」
「正面玄関入って左。遅れて来たって言えば案内してくれる」
「了解っす」
結陽は背筋を伸ばして、鞄を持ち直した。
「ハヤト先輩――あ、二年のハヤトさん。朝、ほんとにありがとうございましたっす」
「気にしなくていい。初日、行ってこい」
「はいっす!」
結陽は小さく一礼して、校舎へ駆けていった。
途中で一度だけ振り返って、定期入れを軽く持ち上げて見せる。
“ちゃんとあるっす”って顔だった。
俺はそれを見て、少しだけ笑う。
長い夜のあとに始まった朝は、慌ただしかった。
でも、こういう小さな出会いがあると、日常に戻る足取りは少し軽くなる。
時計は9時半を少し過ぎたところ。
俺は昇降口で上履きに履き替え、廊下の掲示板を一度だけ見直す。
二年C組。
見慣れない組名が、紙の上でやけにくっきりして見えた。
クラス替えの結果は朝の連絡で知っていたが、実際に教室の前へ立つと実感が違う。
知っている名前が、頭にひとつも浮かばない。
廊下の先、教室の扉はもう閉まっている。
ノックを二回。
中から担任の「入れ」が返ってきた。
扉を開けると、クラスの視線が一度だけ集まる。
「事情は聞いてる。席につけ」
「はい」
椅子を引いて座り、ノートを開く。
ペン先を置くと、ようやく今日が“いつもの学校”に切り替わった。
けど、駅で慌てていた一年生の声だけは、しばらく耳に残っていた。
――日向結陽。
入学初日に定期をなくして、それでも最後は前を向いて走っていった子。
たぶん、ああいう出会いは、あとから効いてくる。