新学期は、二日目から動き出す。
初日は始業式だけでほぼ終わり、あとは新しいクラスの空気に慣れるので精一杯だった。
二年C組の午後は、最後のチャイムと同時にほどけた。
椅子の脚が床を擦る音、鞄のファスナー、廊下へ流れる足音。
俺はノートを閉じて立ち上がり、黒板の連絡を一度だけ見直してから教室を出る。
廊下の窓から、春の斜光が長く差していた。
昨日より少しだけ学校のリズムに体が馴染んでいる。
そんなことを考えながら階段を降りたところで、曲がり角の先から慌てた声が飛んできた。
「うわっ、待って、うそっす、ちょ――!」
反射で足を速める。
中庭へ抜ける渡り廊下の手前で、一年の女子が紙束を抱えたまま立ち尽くしていた。
いや、正確には、立ち尽くすしかなかった。
腕の中にあったはずの紙は、風にあおられて四方へ散っている。
日向結陽だった。
昨日と同じ、勢いのある声。
結陽は紙束を抱えたまま立ち尽くし、風にあおられた一枚を追いかけて、別の紙をまた落とした。
俺は何も言わず、足元に滑ってきたプリントを先に拾う。
次に花壇の縁へ引っかかった一枚を押さえて、重ねて渡した。
「あ、先輩……助かるっす!」
結陽もしゃがんで紙を集める。
俺は渡り廊下側へ流れた分を拾い、彼女は中庭側へ飛んだ分を追う。
言葉を交わすより先に、二人の手だけが動いた。
紙は軽い。
春の風は容赦がない。
拾っても拾っても、端から逃げる。
「結陽、紙の向きそろえなくていい。枚数優先」
「了解っす……!」
結陽の返事は早い。
焦っていても、指示を聞いて動けるのは強みだ。
それでも不運は続く。
しゃがんだ拍子にペンケースを落とし、拾おうとして髪留めが外れ、直したところでまた紙が一枚飛ぶ。
本人は慣れた手つきで順番に回収して、何事もなかった顔で紙束を抱え直す。
「すみませんっす、私、ちょっと抜けてるんすよね」
「……ちょっと、か?」
「今日はまだ軽いほうっす」
渡り廊下の角、花壇の縁、掲示板の下。
散った紙を回収して、最後に中央で一つの束へ戻した。
俺はざっと表紙を確認する。
学年通信、部活動見学案内、各教室配布分の一覧。
確かに、なくしたら困る種類だった。
「先生に頼まれたって、誰から?」
「一年の学年主任っす。職員室から一年フロアに配ってって」
「そっか。じゃあ今から一緒に行く。途中で落とすと二度手間になる」
「え、いいんすか」
「どうせ職員室の前通るし」
結陽は一瞬だけ目を丸くして、すぐ深く頭を下げた。
「ありがとうございますっす、先輩」
紙束はそのままだと危ない。
俺は自分のクリアファイルを抜いて、半分ずつ挟む。
「これで持てる」
「先輩、準備よすぎっす」
「紙折るの嫌いなだけ」
結陽が小さく笑う。
さっきまでの焦りが、そこで少しだけほどけた。
職員室前に着くと、結陽は背筋を伸ばしてノックした。
中から「はい」が返る。
受け取りに出てきた先生が、紙束を見てほっとした顔になる。
「助かった、日向。風、強かっただろ」
「はいっす……ご迷惑おかけしましたっす」
「全部揃ってるなら問題ない。ありがとう」
結陽は「はいっす」と返し、職員室の扉が閉まるまで姿勢を崩さなかった。
廊下へ戻ってから、やっと大きく息を吐く。
「終わったっす……。寿命縮んだっす」
「無事なら伸びる」
「プラマイゼロっすかね」
時間はまだ少し早い。
昇降口へ向かう途中、窓の外で桜が揺れた。
二日目の放課後は、初日より学校の音が少しだけ柔らかい。
結陽は歩きながら、ぽつりと言った。
「先輩、今日はほんとに助かったっす。一人だったら、絶対もっと散らかしてたっす」
「気にするな」
「……初日も今日も、最後にバタつくんすよね。授業終わって気が抜けると、急にミスるっていうか」
「あるな。終わったと思った時が一番抜ける」
「それっす。だから、帰る前に一回落ち着ける場所があればいいのになって思うっす」
結陽の言葉を聞いて、ふと思う。
放課後に、少しだけ息を整えられる場所があってもいいのかもしれない。
あったかいものを飲んで、短く話して、気持ちを切り替えてから帰る――そんな場所だ。
昇降口で、結陽は鞄を持ち直して俺を見た。
「先輩、明日こそは何も落とさないで帰るっす」
「目標、低いな」
「大事なんすよ。積み重ねっす」
そう言って、結陽は自分で少し笑った。
さっきまでの慌てた顔は消えて、ようやく“今日を終えられそうな顔”になっている。
「じゃ、また明日っす」
「おう。気をつけて」
結陽は小さく手を振って、一年の下駄箱列へ駆けていった。
途中で一度だけ振り返って会釈し、そのまま校舎の角を曲がって見えなくなる。
残った廊下は、夕方の光で静かだった。
部活へ向かう足音と、窓の外の風の音だけが長く伸びる。
俺は上履きのまま廊下を歩きながら、さっきの言葉を反芻する。
帰る前に、一回落ち着ける場所。
ただの願望にしては、切実だった。
誰かが特別に弱いわけじゃない。
むしろ、普段ちゃんとやれてるやつほど、終わり際に崩れる。
授業が終わったあと、家に戻る前の、あの中途半端な時間。
あそこで呼吸を整えられるだけで、明日は少し違うかもしれない。
下駄箱で靴を履き替え、スマホを取り出す。
画面にレンの名前を開いて、短く打った。
『明日、昼休み。相談したいことがある』
送信。
既読はまだつかない。
校門を出ると、駅前へ続く並木道に薄く夕陽が差していた。
朝は満開の桜に目を取られた道が、今は落ち着いた色をしている。
花びらが一枚、肩に落ちて、歩くうちに風で離れた。
そのまま数分歩いたところで、スマホが震える。
レンから返信が入った。
『いいよ。屋上でいい?』
『助かる。屋上で』
短いやり取りを終えて、スマホをしまう。
話の形はまだない。
部活にするのか、ただの集まりにするのか、それすら決めていない。
けれど、必要かどうかだけは、もう迷わなかった。
翌日の昼休み。
屋上に集まる顔ぶれを頭に並べてみる。
レン、日和、恵、命。
それぞれ忙しいし、事情も違う。
でも、だからこそ同じ場所がいる気がした。
門を抜ける直前、もう一度だけ校舎を振り返る。
二日目の放課後は、紙束を拾って終わった。
それだけのはずなのに、明日につながる理由としては十分だった。
まずは話してみよう。
そこから先は、集まったやつらの温度で決めればいい。