※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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204話 陽菜乃さんと和食デート

 夜の空気は、昼より少しだけやわらかかった。

 駅前の灯りを抜けて、俺と陽菜乃さんは石畳の細い路地を並んで歩く。

 春の風は冷たすぎず、薄い羽織の裾を軽く揺らす程度で止まっていた。

 

 今日の店は、陽菜乃さんが選んだ和食。

 木の格子戸に控えめな行灯、暖簾(のれん)の色も深い藍で、通りの喧騒を一歩で切り離すような店構えだった。

 玄関先で名を告げると、仲居さんが静かに会釈して奥へ案内してくれる。

 

 通されたのは、小さな個室だった。

 障子越しの明かりが柔らかく、卓上の一輪挿しには白い花が一輪。

 向かい合って座る距離は近すぎず遠すぎず、落ち着いて話すにはちょうどいい。

 

 陽菜乃さんは姿勢を整えて、俺に向けて微笑んだ。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。こういう店、落ち着きます」

「そう仰っていただけて安心いたしました。賑やかなお店も良いのですが、今夜は静かにお話ししたく存じまして」

 

 湯気の立つおしぼりが運ばれ、続いて先付けが置かれる。

 季節の菜の花と白和え、薄く香る柚子。

 強い味ではないのに、口に入れると輪郭がはっきりしていて、最初の一皿として綺麗だった。

 

 しばらくは料理の話から始まった。

 どの味が好きか、家でよく食べるものは何か、甘いものはどこまでいけるか。

 こういう話は軽いのに、案外その人の生活が出る。

 

 陽菜乃さんは箸を置き、湯呑みに指先を添えた。

 障子越しの灯りが横顔に落ちて、いつもより少しだけ柔らかく見える。

 

「本日は、ひとつお話ししたいことがございます」

 

 俺は頷いて、言葉を待つ。

 

「先日の出産の折、私、病院で長く待っておりました」

 

 陽菜乃さんは一度だけ目を伏せ、静かに続けた。

 

「新しい命が生まれる瞬間に立ち会い、胸の奥が強く揺れました」

 

 湯気の立つ小鉢が運ばれ、仲居さんの足音が遠ざかる。

 個室の静けさが戻ってから、陽菜乃さんはまっすぐ俺を見た。

 

「“尊い”という言葉は、こういう時に使うのだと、初めて実感いたしました」

「……うん」

「それ以来、将来のことを考える時間が増えました」

 

 言葉を切って、陽菜乃さんは小さく息を整える。

 

「私も、いつか子どもを望む人生を歩みたいと思っております」

 

 声は丁寧で落ち着いている。

 でも、言い終わったあとの指先だけ、ほんの少し緊張していた。

 

「大事な話ですね」

「はい。ですので、今夜は先にお伝えしておきたく存じました」

 

 俺は湯呑みを置いて、短く返す。

 

「聞けてよかったです」

 

 陽菜乃さんの肩の力が、そこで少しだけ抜ける。

 

「重いと受け取られませんでしたか」

「重くないですよ。もし恋人になれたのなら、いっしょに育みたいって思ってます」

 

 陽菜乃さんは目を細め、わずかに微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

 次の皿が運ばれる。

 焼き魚の香りがふわりと立って、会話の温度を少しやわらげた。

 

 陽菜乃さんは箸を取り、もう一度だけ静かに言う。

 

「焦って結論を求めたいのではございません」

「ただ、将来を見据えてお相手と向き合いたい。そう考えております」

「俺も、そういう向き合い方がいいです」

 

 短い返事のあと、間が落ちる。

 気まずさのない沈黙だった。

 

 陽菜乃さんは小皿を整え、俺へ視線を向ける。

 

「ハヤトさんは、将来について、どのようにお考えでいらっしゃいますか」

 

 俺は少しだけ考えてから答える。

 

「目の前を大事にするのが基本です」

「でも、将来の話から逃げるつもりはないです」

 

 陽菜乃さんは頷く。

 

「そのお答えは、私にとってとても安心できます」

 

 料理が進むにつれて、会話は少しずつ日常に戻っていく。

 学校のこと、家のこと、最近の小さな出来事。

 

 吸い物の湯気が、卓の上でやわらかくほどける。

 陽菜乃さんは椀を静かに置き、指先で箸を揃えた。

 障子越しの灯りが横顔の輪郭を淡くなぞって、言葉より先に目を引く。

 

 いい雰囲気だった。

 だからだろすんなりと言葉が出る

 

「今夜の陽菜乃さん、きれいでした。見惚れたって言ったら、困りますか」

 

 陽菜乃さんのまばたきが一度止まる。

 次の瞬間、視線がわずかに揺れて、頬にうすく熱が差した。

 それでも姿勢は崩さず、口元だけが静かにほどける。

 

「……困ります」

 

 小さな間を置いて、陽菜乃さんは続ける。

 

「ですが、嬉しゅうございます」

 

 個室の外を、仲居さんの足音が一度だけ通り過ぎる。

 その音が遠ざかるころ、陽菜乃さんは湯呑みに手を添えたまま、少し照れたように目を伏せた。

 

「そのようなお言葉は、心の準備に猶予を頂きとうございます」

「思ったことが出てしまう質でして」

 

 陽菜乃さんは湯呑みを持ち上げかけて、ふっと笑みをこぼした。

 頬の熱はまだ残っているのに、声はいつもの調子へ戻してくる。

 

「……それは存じております。ハヤトさんは、言葉を選びすぎず、まっすぐ仰いますもの」

 

 俺は肩の力を抜いて頷く。

 否定しようとしても、たぶん説得力はない。

 

「隠すのが下手なんです」

「下手、ではございません」

 

 陽菜乃さんは箸先を揃え、静かに視線を上げた。

 

「誤魔化さないのは、美点でございます」

 

 個室の外を、配膳の車輪が小さく転がっていく。

 その音が遠のくころ、陽菜乃さんは少しだけ声を落とした。

 

「ですので……突然ですと、私の心のほうが追いつかぬのでございます」

 

 俺は一度だけ息を整えて、陽菜乃さんを見る。

 引く言葉より、今は本音のほうがいいと思った。

 

「じゃあ、遠慮しないで言います」

 

 陽菜乃さんのまつ毛がわずかに揺れる。

 卓の上の灯りが、その横顔に薄く落ちた。

 

「俺は、もっと陽菜乃さんを驚かせたいです」

 

 短い沈黙が落ちる。

 陽菜乃さんの指先が湯呑みの縁で止まった。

 

「……驚かせる、でございますか」

「はい」

 

 俺は視線を逸らさずに続ける。

 

「だめ……ですか?」

 

 その一言で、陽菜乃さんの呼吸が小さく乱れる。

 頬にさっきよりはっきり熱が差して、目がわずかに見開かれた。

 けれど逃げるようには逸らさない。

 むしろ、受け止めるように静かに俺を見返してくる。

 

「……その問いかけは、反則でございます」

 

 陽菜乃さんはそっと湯呑みを置き、微笑みを整えた。

 

「ですが――だめ、ではございません」

 

 食事の終わり、甘味が運ばれてきたころ。

 陽菜乃さんは抹茶をひと口飲んでから、穏やかに言う。

 

「今夜、申し上げられてよかったです」

「話してくれて、ありがとうございます」

 

 店を出ると、春の夜気がやわらかく頬を撫でた。

 行灯の明かりが石畳に細く伸びる。

 

 駅へ向かう手前で、陽菜乃さんは足を止める。

 

「本日は、誠にありがとうございました」

 

 俺は頷く。

 

「こちらこそ」

 

 陽菜乃さんは一礼してから、少しだけ言いよどむ。

 それでも目は逸らさなかった。

 

「……将来のお話をしたあとで、このようなことを申し上げるのは、少々照れますが」

 

 短く間を置いて、続ける。

 

「ハヤトさんと話す時間は、やはり心地ようございます」

 

 俺はそのまま返す。

 

「俺もです」

 

 陽菜乃さんは、ほっとしたように微笑んだ。

 その笑みが消える前に、俺は言葉を重ねる。

 

「陽菜乃さんの事、俺はすごく好きです。だから、ちゃんと選ばれる男になります」

 

 陽菜乃さんのまばたきが、そこで一度止まる。

 次の瞬間、視線がわずかに揺れて、頬へ熱が差した。

 袖口に添えていた指先が、ほんの少しだけ力を失う。

 けれど、崩れたのはその一瞬だけだった。

 陽菜乃さんはすぐに呼吸を整え、姿勢を戻し、いつもの丁寧な表情を作り直す。

 

「……過分なお言葉でございます」

 

 声は穏やかで、抑揚も乱れていない。

 外から見れば、いつもの陽菜乃さんだ。

 でも、言葉の終わりにだけ、微かな震えが残っていた。

 

「本気です」

「はい。そのお心は、確かに受け取りました」

 

 陽菜乃さんは小さく頷いて、俺の腕にそっと自分の腕を重ねる。

 ためらいは短く、触れ方は静かで、でも離す気のない力加減だった。

 

 会話はそのまま、日常の話題へ戻る。

 学校のこと、屋敷のこと、最近の些細な出来事。

 陽菜乃さんは丁寧に相槌を打ち、必要なところで微笑み、乱れのない調子を保ち続ける。

 まるで、何も起きていないように。

 

 けれど、街灯の下で横顔を見るたびに、口元には隠しきれない柔らかな熱が残っていた。

 気づかれないように整えているのが、かえって伝わる。

 

 屋敷の門が見えてきたところで、陽菜乃さんは一度だけ足を緩める。

 そして何でもない調子で、前を向いたまま言った。

 

「……ハヤトさん」

「はい」

「先ほどのお言葉、軽んじることはいたしません」

 

 短く、それだけ。

 すぐにいつもの歩幅へ戻る。

 俺は頷いて、同じ速度で隣を歩いた。

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