廊下の方から、軽い足音が近づいてきた。
止まる。
扉の前で迷ってるみたいに、気配が揺れる。
ノックが、小さく3回。
俺は視線を上げた。
「……どうぞ」
扉が少しだけ開く。
覗いた顔は、見覚えがあった。
明るい目。息が上がってるのに、へこたれてない顔。
「し、失礼するっす……」
日向結陽が、少しだけ身を縮めて頭を下げた。
手ぶら。
でも肩が少しだけ上下してる。走ってきた息だ。
「……隼人先輩」
「どうした」
結陽は一瞬だけ目を泳がせてから、正直に言った。
「校舎、探検してたっす」
「探検」
「はいっす。入学してから、気になって」
日和が口を押さえて笑いを堪える。
レンは小さく瞬きをして、恵は呆れたように目を細めた。
「で」
俺が促す。
「……迷ったっす」
結陽が言い切って、すぐに続けた。
「でも、大丈夫っす。こういうの、よくあるっす」
「大丈夫じゃない」
日和が小声で突っ込む。
俺は廊下の方向を一度だけ見た。
旧校舎側は、初見だと同じ景色が続く。迷うのは分かる。
「今どこに戻りたい」
俺が聞くと、結陽はぱっと顔を上げた。
「昇降口の方っす。たぶん……」
「なんで疑問形?」
「……昇降口っす」
結陽は素直に言い直した。
俺は短く頷いた。
「こっち。ついてこい」
「え、いいんすか」
「迷子放置は面倒が増える」
「はいっす!」
結陽は勢いよく返事をした。
「……あ。すみませんっす。ここ、静かにした方がよかったっすね」
部屋をちらっと見て、結陽が目を丸くする。
「なんか、落ち着くっす」
結陽はもう一度頭を下げる。
「失礼するっす。助かるっす、先輩」
そのまま、ぱたぱたとついてくる足音。
結陽が一度だけ足を止めて、部屋の中をもう一度見た。
未練ってほどじゃない。ただ、気になってる顔だ。
「あの」
小さく言ってから、結陽は俺を見上げる。
「先輩たち、ここで何してたっすか」
日和が口を開きかけた。
俺は先に答える。
「掃除」
「掃除っすか」
「それと、部活の準備」
結陽の目がぱっと明るくなる。
「部活?」
「茶会部。今、立ち上げた」
言い切った瞬間、結陽の反応は早かった。
「え、入りたいっす」
即答。
日和が「早っ」って顔で笑う。
レンは驚いたみたいに瞬きをした。
恵は、薄く笑っている。
「理由は」
俺が短く聞くと、結陽は間を置かない。
「静かで落ち着くっす。あと、まったりお茶できるの最高っす」
「正直だな」
「はいっす!」
俺は一度だけ頷いた。
「いい。入れ」
「え、いいんすか」
「まぁ断る理由ないしな」
結陽は一瞬固まってから、顔を明るくした。
「やったっす!」
結陽は両手を軽く上げて笑った。
声は明るいまま、廊下に響きすぎない程度に収まってる。
恵が口を挟む。
「自由参加ですわ。来られる時だけで構いません」
「めっちゃ助かるっす」
レンが小さく言った。
「……一緒にお菓子、選べる」
結陽が食いつく。
「え、レン先輩っすか? お菓子担当っすか?」
「担当……っていうか、手伝う」
「最高っす。甘いの好きっす」
日和がニヤニヤしながら結陽を見る。
「じゃ、日向。最初に言っとくね」
「はいっす!」
「この部、ハヤトがルール係。破ったら一発で刺される」
「刺されるっすか!?」
「刺さない」
俺が言うと、日和が肩をすくめた。
「刺さないけど、目が怖い」
結陽は俺の顔をじっと見て、真面目に頷く。
「分かったっす。守るっす」
その返事の速さが、変に頼もしい。
結陽が一歩踏み出したその瞬間。
床に置いてあった机の脚に、つま先が引っかかる。
「あっ」
結陽の身体が前に傾く。
転ぶ――と思った瞬間、俺が腕を掴んで止めた。
「……危ない」
「すみませんっす! こういうのよくあるっす!」
結陽はケロッとしてる。
でも、鞄の中身が少しだけ口から出て、プリントの角がぴらっと覗いた。
風が入り込んで、その角を持ち上げる。
「うわ、また」
結陽が慌てて押さえようとして、今度は自分の靴ひもを踏んだ。
ひもがほどける。
「……連鎖するな」
「今日は軽いほうっす!」
結陽は笑って、しゃがんでひもを結び直す。
俺はプリントを押さえてから、結陽に視線を戻した。
「気をつけろよ」
「努力するっす!」
日和が笑いを堪えきれずに吹き出す。
レンが小さく笑う。
恵は呆れたように息を吐いて、でも顔は柔らかい。
「……初日から完成してるね」
日和が肩を揺らして言った。
「完成してない。危ない」
俺が言うと、結陽は座り直して背筋を伸ばす。
「了解っす。次は引っかからないっす」
俺は机の真ん中を軽く叩いた。
「じゃあ改めて自己紹介だ」
「はいっす、ハヤト先輩!」
結陽は一度だけ深呼吸して、全員の顔を順番に見た。
「改めまして、1年の日向結陽です。今日からお世話になりますっす」
ぺこっと頭を下げる。
勢いはあるのに、雑じゃない。
「俺はハヤト。茶会部は、落ち着ける場所にする。騒がない。散らかさない。守れるなら歓迎」
短く言う。
「守るっす!」
扉の近くに立っていた命が、静かに前へ出た。
背筋がまっすぐで、動きに無駄がない。
「御堂命です。よろしくお願いいたします」
声は丁寧で落ち着いている。
それだけなのに、部屋の空気が少し整う。
結陽はぱっと顔を上げて、すぐ頭を下げた。
「よろしくお願いしますっす、命先輩!」
命は小さく頷いた。
「結陽さん。よろしくお願いいたします」
俺はレンを見る。
「レン」
「僕はレン。……甘いの好き。お菓子は、選ぶの手伝う」
結陽がぱっと顔を明るくする。
「レン先輩、甘党っすね! 最高っす!」
日和が横からニヤつく。
「レンにそのテンションで行くの、初手から攻めすぎでしょ」
「え、そうっすか?」
結陽は素直に首を傾げる。
レンは少しだけ目を逸らした。
でも、嫌そうじゃない。
恵が咳払いを1つ。
「恵ですわ」
「恵先輩っすね!」
即答。
「ええ。よろしくお願いしますわ」
「よろしくお願いしますっす、恵先輩!」
日和が笑いながら手を振った。
「あたし日和!」
「日和先輩――」
「先輩っていい響きだよね」
日和が満足そうに頷いた。
俺は結陽に戻す。
「結陽。ここは自由参加だ。来られる時だけ来い。来たら片付けまでがセット」
「了解っす。片付けまでっすね」
「そう」
結陽は部屋を見回した。
「ここ、ほんと落ち着くっすね」
恵が静かに言う。
「続けるなら、品位も必要ですわ。騒がず、乱さず」
「品位!」
結陽がなぜか真顔になる。
「品位、守るっす!」
「難しく考えるな。ルール守れば十分だ」
「了解っす、ハヤト先輩!」
日和が笑う。
「ハヤト先輩、教育係うまいね」
「別に、うまくはないだろ」
俺は紙を取り出した。
「次。初回は準備。決めることがある」
机の上に並べる。
「お茶。お菓子。使う物。あと、保管方法」
恵が先に言った。
「茶葉はこちらで用意できますわ。種類は選びます。香りが強すぎないものから。あと、テーブルと座りやすいソファも手配いたしますわ」
「助かる」
日和がすぐ続ける。
「お菓子は、コンビニでもいいけどさ、最初くらいちゃんとしたいよね」
「ちゃんとって?」
結陽が食いつく。
「クッキーとか、フィナンシェとか。あと和菓子!」
「和菓子、いいっす!」
レンが小さく言った。
「……甘さが強すぎないの、あると嬉しい」
「任せて! レンの好み、当てに行くから!」
日和がやたら気合いを入れる。
俺は話を戻す。
「使う物は、ティーカップがいい。ゴミ増やさない」
「ティーカップ担当、あたし!」
恵が少し考えてから言った。
「保管は学校の棚を借りる必要がありますわね。勝手に置くのは避けた方がよろしいですわ」
「それは俺が能村先生に聞く」
俺が言うと、恵は小さく頷いた。
「お願いしますわ」
結陽が手を挙げる。
「質問いいっすか」
「言え」
「茶会部って、何する部っすか。まったりお茶する以外に、なんかあるっすか」
日和が即答する。
「まったりお茶する部です!」
「終わり」
俺が切る。
「でも、目的はちゃんとある。放課後に落ち着ける場所を作る」
「なるほどっす」
結陽は真面目に頷いた。
「じゃあ、迷子になっても戻れる場所っすね」
日和が腹を抱えて笑う。
「戻ってくるのはいいけど、毎回迷うのは禁止ね」
「分かったっす!」
レンが小さく笑った。
俺は机を軽く叩いた。
「じゃあ今日の決定。初回はこれ」
指を折る。
「1つ。次回までにティーカップを用意。日和」
「2つ。茶葉は恵」
「3つ。お菓子はレンと日和と結陽で候補」
「4つ。俺が保管場所の許可確認」
結陽が身を乗り出した。
「私は何すればいいっすか」
俺は1拍置いてから言った。
「ルール守る。それと」
結陽を見る。
「来る時は、ちゃんと来い。途中で迷子になるな」
「了解っす、ハヤト先輩!」
その瞬間、結陽の腹が小さく鳴った。
静かな部屋に、やけに目立つ音。
日和が目を丸くする。
「今の、聞こえた?」
「聞こえたっす」
結陽が堂々と言った。
「朝から走って、まだ何も食べてないっす」
レンが鞄の中をそっと探って、小さい個包装を机に置いた。
「……飴。食べる?」
結陽の目が一気に輝く。
「え、いいんすか、レン先輩!」
「……うん」
「ありがとうございますっす!」
結陽は両手で受け取って、すぐに口に入れた。
「生き返るっす……」
日和が笑う。
「この部、初回から平和だな」
俺は窓の外を一度だけ見た。
春の光が、机の上を明るくしている。
悪くない。
この空気なら、続く。
俺は立ち上がった。
「終わり。片付け」
「はいっす!」