「……どうぞ」
扉が静かに開く。
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
肩にかかるくらいの黒髪が、柔らかく揺れている。きっちり固めた髪型じゃないのに、手入れが行き届いていて清潔感がある。
表情は穏やかで、口元がふっと緩んでいる。
目元も優しい。綺麗だと思うのに、威圧感がない。近づきやすい美人、ってこういう感じか。
ただ──新任らしい“少しだけ”が混ざっている。
部屋に入る前に、ほんの一瞬だけ息を整えたみたいな間。視線の動きが慎重で、確認する癖が出る。でもそれが不安げじゃなくて、丁寧に見ているだけに見える。
「失礼します」
声も、見た目のまま柔らかい。
ゆっくりした話し方で、空気がすっと落ち着く。
優しいのに、視線はちゃんと人を見る。
おっとりしているのに、何も見逃さないタイプだと分かる。
──相川美紀先生。
新任の顧問。名前だけは聞いていた。
「はい」
俺が答えると、先生はふわっと笑った。
「よかった。場所、合っていますね」
日和がソファーから身を起こして、軽く頭を下げる。
「はい、相川先生。私、日和です」
レンもカップを置いて、小さく頭を下げた。
「……レンです」
恵は背筋を崩さず、丁寧に会釈する。
「恵ですわ。よろしくお願いいたします、相川先生」
結陽は慌てて立ち上がって、元気よく頭を下げた。
「1年の日向結陽です! よろしくお願いしますっす、相川先生!」
相川先生はその勢いにも驚いた様子はなく、むしろ少し嬉しそうに目を細めた。
「はい。よろしくね、結陽さん」
声が柔らかい。
なのに、部屋の空気がすっと整う。
先生の視線が、部屋の中をゆっくり一周した。
執務机。執務椅子。左右の長ソファー。テーブル。電気ケトル。
「……素敵なお部屋ですね」
日和が笑いながら言う。
「恵が本気出しました」
恵が涼しい顔で返す。
「必要でしたので」
相川先生が小さく頷いた。
「居場所って、形があると続きやすいですものね」
その言い方が、妙に刺さった。
軽いのに、適当じゃない。
先生は扉の近くに立ったまま、俺を見た。
「部長さんは、どなたですか?」
俺は一瞬だけ視線を恵に向けてから、前を見た。
「俺です。ハヤトです」
「ハヤトさん」
相川先生は名前を一度だけ口にして、ゆっくり頷く。
「今日は、初めての活動ですか?」
「形が整ったんで、今日からちゃんと」
俺が言うと、先生は部屋の中央を見る。
「お茶の香り、いいですね」
結陽がすぐに乗る。
「相川先生も飲むっすか?」
日和が笑って、結陽の方を見る。
「結陽、先生にいきなり誘うの強いね」
「だって、お茶部っす!」
結陽は真顔だ。
相川先生は困った顔をせずに、ふわっと笑った。
「ありがとう。でも、今日は様子を見に来ただけにします」
そして、少しだけ声を落とす。
「……安全だけ、確認させてくださいね。ケトル、触った後はコードをまとめること。あと、熱いお湯は走って運ばない」
「分かりました」
俺が答えると、先生は満足そうに頷いた。
「それと」
視線が日和、レン、恵、結陽へ順番に移る。
「ここは“落ち着く場所”にしたいんですよね」
「はい」
日和が先に返す。
「私たち、屋上以外にも居場所が欲しくて」
レンも小さく頷く。
「……静かに、休める場所」
恵が続ける。
「続けるために、整えましたわ」
結陽が元気よく手を挙げる。
「私、放課後に落ち着ける場所、欲しかったっす」
「うん。そういう場所にしよう」
日和が笑って頷いた。
相川先生がふっと笑った。
「うん。そういう気持ち、いいですね」
先生は一歩だけ部屋の中に入って、床を見た。
ゴミがない。濡れた跡もない。物の置き方も整っている。
「……きれいに使えてますね」
俺は短く返した。
「最初に掃除しました」
「素敵」
相川先生の言葉は、褒めてるのに軽くない。
「大げさなことは言いません。みんなが気持ちよく使えて、他の人の迷惑にならなければ、それで十分です」
その一言が、肩の力を抜かせた。
先生は最後に、俺を見て言った。
「困ったことがあったら、言ってください。無理に抱え込まないでね、ハヤトさん」
「……はい」
俺が頷くと、先生はまた柔らかく笑った。
「では、邪魔しません。楽しんでください」
先生はゆっくり扉へ戻る。
出る直前、振り返って付け足した。
「あと、続けるなら“当番”を作るといいですよ。お湯と片付け、チェックする人。責任が分かれると、長持ちします」
「分かりました」
俺が答えると、相川先生は軽く手を振って出ていった。
扉が閉まる。
部室に戻った静けさが、さっきより柔らかかった。
「……相川先生、優しい」
レンが小さく言った。
「おっとりしてるのに、言うことはちゃんと言うタイプ」
日和が頷く。
恵がティーカップを持ち上げて、少しだけ口元を緩める。
「良い方ですわね」
結陽が俺を見る。
「ハヤト先輩。顧問って、ああいう感じなんすね」
「そういう先生もいる」
「安心っす」
結陽はカップを両手で持って、湯気を見つめた。
「……ここ、ほんといいっすね。落ち着くっす」
その言い方が、さっきより静かで真っ直ぐだった。
俺はソファーの背に少しだけ体重を預ける。
「続けるぞ」
「うん」
日和が笑う。
「私、続けたい。ここ」
レンが小さく頷く。
「……続けよう」
恵が当然のように言う。
「続けますわ」
結陽が勢いよく頷く。
「続けるっす!」
──いい。
この部屋は、もう“偶然できた場所”じゃない。
俺たちが、続けるって決めた場所だ。
「じゃ、次の決め事」
俺は執務机のノートを開いた。
「当番。片付けチェック。ケトル。あと、お菓子の回し方」
「回し方?」
結陽が首を傾げる。
「独り占め禁止」
俺が言うと、結陽は即答した。
「しないっす!」
「分かった」
「はいっす!」
レンが小さく笑って、袋の中の焼き菓子を1つずつ机に置いた。
「……順番に、取ろう」
「レン、優し」
日和が言って、手を伸ばす前に一度止める。
「……じゃ、私からじゃなくて。結陽から」
「え、いいんすか!?」
「いいよ。新入り特権」
「やったっす!」
結陽は嬉しそうに1つ取って、丁寧に袋を開けた。
かじった瞬間、目がさらに丸くなる。
「……うまっ」
その一言で、部室の空気がまた少しだけ温かくなった。
俺はノートにペンを走らせる。
続く形にする。
今日の笑いも、先生の言葉も、全部まとめて。
──俺たちは、ちゃんと始めた。