「失礼します」
襖を二度叩いて返事を待ち、俺は静かに和室応接間へ入った。畳の香りと、床の間の花の甘い匂いが薄く混じっている。低い座卓の向こうで、陽菜乃さんは正座していた。背筋はきれいに伸びているのに、膝の上の指先だけが少し硬い。
「お呼び立てしてしまい、申し訳ございません」
陽菜乃さんは丁寧に頭を下げた。声は整っている。けれど、語尾にだけ緊張が残っていた。俺も座布団に正座して、正面から向き合う。
「いや、大丈夫です。呼んでくれてありがとうございます」
返したあと、部屋に静けさが落ちた。庭の鹿威しの音が、遠くで一度だけ響く。陽菜乃さんは一度視線を落とし、また上げた。言葉を選んでいる、長い間だった。
「本日は、お願いしたいことがございます」
そこでまた、ほんの少し止まる。言うべき中身は決まっているのに、言い出す瞬間だけが掴めない。そんな空気が、呼吸の浅さで伝わってきた。
「最近は、お忙しいでしょうか」
「前よりは落ち着いてます」
「それは何よりです」
会話としては自然だった。けれど、これは前置きだ。陽菜乃さん自身が、いちばん分かっている。だからこそ、次の一歩に時間がかかる。
「……順序が違うことは、承知しております」
陽菜乃さんは両手をそろえ直し、息を整えた。目が、まっすぐ俺を捉える。
「私は、ハヤト様に惚れることにいたしました」
「結婚を前提としたお付き合いをお願いします」
陽菜乃さんはまっすぐ俺を見たまま、返事を待った。指先にだけ、わずかな震えが残っている。
「ありがとうございます、陽菜乃さん。嬉しいです。俺も陽菜乃さんと結婚したいです」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜乃さんの肩から力が抜けた。陽菜乃さんは座卓の脇へ静かに進み、膝を揃える。指先を畳につき、深く三つ指をついた。
「……改めまして、不束者ですが、何卒よろしくお願いします」
顔を上げた陽菜乃さんの頬は、わずかに赤い。けれど視線は逸れない。その所作は揺れず、きれいだった。
その姿を見た瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。さっきまでの緊張や迷いを、陽菜乃さんは全部その所作に込めていた。言葉だけじゃない。身体ごと、覚悟を差し出しているのが分かる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺も正座を崩さず、深く頭を下げた。受けるなら、同じだけの重さで受ける。軽い返事だけで終わらせる気はなかった。
顔を上げると、陽菜乃さんはまだ少しだけ頬を染めたまま、それでもまっすぐ俺を見ていた。視線が合って、どちらともなく小さく息を吐く。張りつめていた空気が、ようやく人の体温に戻っていく。
「……ありがとうございます」
「いや。礼を言うのは、俺のほうですよ」
和室の静けさが、今は心地いい。庭の竹が風に触れるかすかな音と、湯呑みの湯気だけが、ゆっくり時間を進めていく。
陽菜乃さんは一度だけ指先を揃え直して、言いにくそうに口を開いた。さっき大きな言葉を言い切った人の、次の慎重さだった。
「1つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「うん。聞かせてください」
「本日のことは、きちんと順を追って、お婆様とお母様へご報告いたします。ですが、その前に、私たち2人の約束を、先に決めておきたいのです」
俺は頷いた。筋が通っている。陽菜乃さんらしい提案だった。
「どんな約束ですか?」
陽菜乃さんは少し視線を落とし、言葉を選んでから、はっきりと告げた。
「迷いや不安が出たときは、黙って抱え込まず、きちんと相手へ伝えることです」
その言葉は、飾っていなかった。きれいな言い回しの中に、まっすぐな本音があった。俺は正面から受け止めて、短く答える。
「分かりました」
俺は陽菜乃さんの目をまっすぐ見て、うなずいた。
「その約束、俺は守ります」
「迷いや不安が出たら、その日のうちに必ず言います」
「陽菜乃さんも、1人で抱えないでください」
「はい」
「もう1つだけ、よろしいでしょうか」
「はい」
「人前ではこれまで通りで構いません。ですが、2人のときだけでも、呼び方を改めたいのです。」
俺は自然に背筋を伸ばした。言葉の続きを待つ。
「『ハヤトさん』ではなく、『あなた』とお呼びしても、よろしいでしょうか」
一瞬だけ、間が落ちた。重い話じゃない。けれど、陽菜乃さんにとっては、たぶん大きな一歩だ。距離を縮めるというのは、こういう小さな選択の積み重ねなんだと思う。
「もちろんです。俺は嬉しいです」
陽菜乃さんは小さく頷き、呼吸を整えた。次の一言にだけ、少しだけ勇気が要る。けれど、その目はもう迷っていなかった。
「……あなた」
たったそれだけで、胸の奥が温かくなる。呼び方が変わっただけなのに、関係の輪郭が少しだけはっきりした気がした。
「はい。陽菜乃さん。」
俺が呼び返すと、陽菜乃さんは照れたように目を細めた。笑みは控えめなのに、さっきよりずっと柔らかい。和室の空気が、さらにやわらいでいく。
「私の事もこれからは、『陽菜乃さん』ではなく『陽菜乃』と呼んでください。私には、どうぞ敬語なしで話してください」
陽菜乃さんは、言い切ってから小さく息を整えた。
視線はまっすぐなのに、指先だけが少し強く重なっている。
「……分かった」
「じゃあ、陽菜乃。これでいいか」
「……はい。うれしいです」
「先ほどの『惚れることにいたしました』という言い方ですが……」
「うん」
「正確には、以前から惹かれておりました。ただ、本日、覚悟として言葉にいたしました」
その言い方が、やっぱり陽菜乃さんらしい。気持ちを勢いで流さず、責任のある言葉に変えて差し出す。だから重いし、だから信じられる。
「ありがとう。覚悟で言ってくれたこと、ちゃんと受け取った」
陽菜乃さんは静かに頷き、もう一度だけ背筋を正した。
「では、改めまして。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。よろしく」
湯呑みを手に取ると、少し冷めた茶が喉を通った。さっきまでの緊張とは違う熱が、胸の中に残っている。今日決まったのは、気持ちだけじゃない。これから先、2人で守る約束の形だ。
和室応接間を出るとき、俺は襖の前で一度だけ振り返った。陽菜乃さんは座布団の脇で、きちんと俺を見送っていた。その姿はいつも通り端正で、でも確かに、さっきまでより近かった。
「あなた」
呼ばれて足を止める。
「はい」
「本日のこと、私にとっては、人生でいちばん勇気を使った時間でした」
陽菜乃さんはそう言って、少しだけ笑った。気丈に整えた笑顔じゃない。素の温度が見える、短い笑みだった。
「だから、受け取ってくださって、本当に嬉しいです」
「俺も同じだ」
そう返すと、陽菜乃さんは安心したように深く頷いた。
襖を閉め、廊下を歩き出す。足取りは不思議なくらい静かで、心臓だけがはっきり鳴っていた。軽くはない。むしろ重い。けれど、その重さは怖さじゃない。守ると決めたものができた重さだった。