襖が閉まる音が、廊下の奥で小さく響いた。
綾乃母さんに報告を終えた帰り道。並んで歩く陽菜乃の歩幅は、さっきより少しだけ軽い。
「あなた」
呼ばれて、俺は足をゆるめた。
振り向くと、陽菜乃が両手を胸の前で重ねたまま、まっすぐこっちを見ている。
「どうした、陽菜乃」
「先ほどは、ありがとうございました」
「礼は俺のほうだ」
「いいえ。きちんと受け止めてくださって、うれしかったです」
陽菜乃の声は丁寧で、いつも通り落ち着いている。
でも、言葉の終わりだけ、少しだけやわらかい。
その小さな違いが、今はよく分かる。
「陽菜乃が言った約束」
「はい。迷いや不安は、きちんと伝える、ですよね」
「うん。だから俺も、今の気持ちを言う」
陽菜乃が、ほんの少しだけ目を見開く。
俺は廊下の窓際で足を止めた。夕方の光が障子を透かして、床に淡い四角を作っている。
「今日は、すごくうれしい」
「……はい」
「陽菜乃がちゃんと自分の言葉で言ってくれたの、格好よかった」
陽菜乃のまつげが揺れて、視線が一度だけ下に落ちる。
それから、静かに戻ってきた。
「そう言っていただけると、救われます」
「ちゃんと本音だよ」
「はい。受け取りました」
短くうなずいて、陽菜乃が半歩だけ近づく。
触れるか触れないかの距離で、俺の袖をそっとつまんだ。
その仕草が、妙に大事な合図に見えた。
「あなた。今の気持ちを、伝えてもよろしいでしょうか」
「聞かせて」
「私は、緊張すると平気な顔をしてしまいます。けれど本当は、ちゃんと、どきどきしています」
陽菜乃は言い終えると、胸の前で重ねた指先に、そっと力を込めた。
夜の静けさの中で、その小さな震えだけがはっきり見える。
「分かった」
俺は短く返して、陽菜乃の目をまっすぐ見た。
逃げないように、急がないように、声を落とす。
「陽菜乃の気持ち、ちゃんと受け取った」
「……はい」
「俺も、どきどきしてる」
陽菜乃のまつげが、かすかに揺れる。
頬にさした熱が、街灯の下でやわらかく浮いた。
「あなた」
「うん」
「1つ、お願いがございます」
「聞かせて」
陽菜乃は息を整えてから、ゆっくり言った。
「今夜は、私の願いを叶えてください」
その言葉を聞いた瞬間、前に交わした会話が胸の奥で静かによみがえった。
恋人ができたらしてみたいことを問うた夜。
少しだけ頬を染めながら、陽菜乃が「キスをしてみたい」と口にした、あのまっすぐな声。
その言葉に、俺はうなずく。
手を伸ばすと、陽菜乃はためらわずに自分の手を重ねてきた。
指先は少し冷たいのに、握る力はしっかりしている。
顔を近づけると陽菜乃は小さく目を閉じた。
俺は彼女の表情をひと呼吸ぶん見てから、ゆっくり距離を縮める。
唇が触れてからも、すぐには離れなかった。
陽菜乃はそっと腕を伸ばし、俺の背に回して、静かに抱きしめてくる。
細い指先に、ためらいより強い意志がこもっていた。
そのぬくもりを受け止めながら、俺はもう一度、やわらかく唇を重ねる。
夜の音が遠のいて、2人の呼吸だけが近くなる。
少し長いキスのあと、名残を残すようにゆっくり離れた。
離れると、陽菜乃は目を開けて、かすかに息をこぼした。
頬は赤いままなのに、目は驚くほどまっすぐだった。
「……ありがとうございます」
「こっちこそ」
「噂より、ずっと気持ちの良いものなのですね」
陽菜乃はそう言って、照れたように笑う。
俺もつられて笑ってしまう。
「陽菜乃」
「はい」
「これからも、やりたいことも気持ちも、今日みたいにちゃんと言ってくれ」
「はい。きちんと伝えます」
「俺もそうする」
陽菜乃はうなずいて、そっと俺の腕に手を添えた。
触れ方は控えめなのに、離れない意志だけははっきりしている。
「あなた」
「ん」
「もう少しだけ、このままでもよろしいでしょうか」
「もちろん」
陽菜乃の指先が、俺の腕にそっと重なる。
細い力なのに、不思議なくらいまっすぐで、離したくない気持ちがそのまま伝わってきた。
言葉は少ないのに、沈黙は気まずくなかった。
隣にいること自体が、ちゃんと会話になっている。
しばらくして、屋敷の奥から渡会風香の足音が近づいてきた。
角を曲がった風香は、俺たちを見ると一礼して口を開く。
「お食事のご用意が整いました。皆さま、お待ちでございます」
「分かった。すぐ行く」
「はい。参ります」
陽菜乃が腕から手を離す。
名残を惜しむみたいに、指先が一瞬だけ袖をかすめた。
それだけで、胸の奥が少し熱くなる。
食堂へ入ると、いつもより香りが甘い。
湯気の向こうに、艶のある赤いご飯が見えた。
「……赤飯」
思わず声に出すと、澄乃さんが目を細める。
「お祝いの日だもの。これくらいは当然よ、坊や」
「ありがとうございます、澄乃さん」
席に着くと、千佳が目を輝かせて箸を握った。
器をのぞき込んで、期待を隠しきれない顔で綾乃母さんを見る。
「お母様、赤飯ってことは、何かいいことあったの」
食卓の空気が、ふわりと静かになる。
綾乃母さんは一度、陽菜乃と俺を見てから、やわらかく微笑んだ。
「ええ。とても良いことがありました」
千佳が身を乗り出す。
「なに、なに」
綾乃母さんは姿勢を正し、家族全員に届く声で言った。
「陽菜乃と隼人さんが、婚約しました」
一拍遅れて、千佳の顔がぱっと明るくなる。
次の瞬間、椅子から跳ねるように立ち上がった。
「ほんとに!? すごい! ハヤト兄、おめでとう!」
「ありがとう、千佳」
「ありがとうございます」
陽菜乃は丁寧に答えたあと、照れを隠すように箸先をそろえた。
耳の先がほんのり赤い。
でも表情は、迷いなく晴れている。
澄乃さんが湯呑みを置いて、満足そうにうなずく。
「今日は祝いなさい。明日からは、もっと忙しくなるわよ」
「はい、お婆様」
「はい」
沙織さんも、うれしそうに笑って俺を見た。
「隼人、ちゃんと食べなさい。こういう日は体力使うんだから」
「母さん、今日はまだ何もしてない」
「顔見れば分かるわよ。緊張してたでしょう」
図星で、俺は少しだけ苦笑いする。
隣で陽菜乃が小さく笑って、器に赤飯をよそう。
「あなた」
「ん」
「お赤飯、少し多めによそってもよろしいですか」
「いいよ。むしろ頼む」
「ふふ。かしこまりました」
陽菜乃がよそった赤飯を受け取る。
湯気の向こうで目が合って、どちらからともなく小さく笑った。
祝いの席は、にぎやかで、あたたかかった。
千佳は何度も「おめでとう」を繰り返し、そのたびに陽菜乃が「ありがとうございます」と丁寧に返す。
綾乃母さんは穏やかに全体を見守り、澄乃さんはときどき鋭いひと言で場を締める。
いつもの御堂家の食卓なのに、今夜だけは、同じ景色が少し違って見えた。
食後、廊下に出ると、陽菜乃が俺の隣へ自然に並ぶ。
人の気配が遠のいたところで、彼女は小さな声で言った。
「あなた。先ほどの発表、少しだけ恥ずかしかったです」
「俺も」
「でも、うれしかったです」
「うん。俺も、うれしい」
陽菜乃は静かにうなずいて、俺の腕にそっと手を添えた。
控えめな仕草なのに、さっきよりずっと自然だ。
「これからも、ちゃんと伝えます」
「俺も、ちゃんと言う」
「はい」
短い返事。
でもその1文字に、今日いちばん大きな安心が入っていた。