※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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213話 恋人が出来たらしたいこと

 襖が閉まる音が、廊下の奥で小さく響いた。

 綾乃母さんに報告を終えた帰り道。並んで歩く陽菜乃の歩幅は、さっきより少しだけ軽い。

 

「あなた」

 

 呼ばれて、俺は足をゆるめた。

 振り向くと、陽菜乃が両手を胸の前で重ねたまま、まっすぐこっちを見ている。

 

「どうした、陽菜乃」

「先ほどは、ありがとうございました」

「礼は俺のほうだ」

「いいえ。きちんと受け止めてくださって、うれしかったです」

 

 陽菜乃の声は丁寧で、いつも通り落ち着いている。

 でも、言葉の終わりだけ、少しだけやわらかい。

 その小さな違いが、今はよく分かる。

 

「陽菜乃が言った約束」

「はい。迷いや不安は、きちんと伝える、ですよね」

「うん。だから俺も、今の気持ちを言う」

 

 陽菜乃が、ほんの少しだけ目を見開く。

 俺は廊下の窓際で足を止めた。夕方の光が障子を透かして、床に淡い四角を作っている。

 

「今日は、すごくうれしい」

「……はい」

「陽菜乃がちゃんと自分の言葉で言ってくれたの、格好よかった」

 

 陽菜乃のまつげが揺れて、視線が一度だけ下に落ちる。

 それから、静かに戻ってきた。

 

「そう言っていただけると、救われます」

「ちゃんと本音だよ」

「はい。受け取りました」

 

 短くうなずいて、陽菜乃が半歩だけ近づく。

 触れるか触れないかの距離で、俺の袖をそっとつまんだ。

 その仕草が、妙に大事な合図に見えた。

 

「あなた。今の気持ちを、伝えてもよろしいでしょうか」

「聞かせて」

「私は、緊張すると平気な顔をしてしまいます。けれど本当は、ちゃんと、どきどきしています」

 

 陽菜乃は言い終えると、胸の前で重ねた指先に、そっと力を込めた。

 夜の静けさの中で、その小さな震えだけがはっきり見える。

 

「分かった」

 

 俺は短く返して、陽菜乃の目をまっすぐ見た。

 逃げないように、急がないように、声を落とす。

 

「陽菜乃の気持ち、ちゃんと受け取った」

「……はい」

「俺も、どきどきしてる」

 

 陽菜乃のまつげが、かすかに揺れる。

 頬にさした熱が、街灯の下でやわらかく浮いた。

 

「あなた」

「うん」

「1つ、お願いがございます」

「聞かせて」

 

 陽菜乃は息を整えてから、ゆっくり言った。

 

「今夜は、私の願いを叶えてください」

 

 その言葉を聞いた瞬間、前に交わした会話が胸の奥で静かによみがえった。

 恋人ができたらしてみたいことを問うた夜。

 少しだけ頬を染めながら、陽菜乃が「キスをしてみたい」と口にした、あのまっすぐな声。

 

 その言葉に、俺はうなずく。

 手を伸ばすと、陽菜乃はためらわずに自分の手を重ねてきた。

 指先は少し冷たいのに、握る力はしっかりしている。

 

 顔を近づけると陽菜乃は小さく目を閉じた。

 俺は彼女の表情をひと呼吸ぶん見てから、ゆっくり距離を縮める。

 

 唇が触れてからも、すぐには離れなかった。

 陽菜乃はそっと腕を伸ばし、俺の背に回して、静かに抱きしめてくる。

 細い指先に、ためらいより強い意志がこもっていた。

 

 そのぬくもりを受け止めながら、俺はもう一度、やわらかく唇を重ねる。

 夜の音が遠のいて、2人の呼吸だけが近くなる。

 少し長いキスのあと、名残を残すようにゆっくり離れた。

 

 離れると、陽菜乃は目を開けて、かすかに息をこぼした。

 頬は赤いままなのに、目は驚くほどまっすぐだった。

 

「……ありがとうございます」

「こっちこそ」

「噂より、ずっと気持ちの良いものなのですね」

 

 陽菜乃はそう言って、照れたように笑う。

 俺もつられて笑ってしまう。

 

「陽菜乃」

「はい」

「これからも、やりたいことも気持ちも、今日みたいにちゃんと言ってくれ」

「はい。きちんと伝えます」

「俺もそうする」

 

 陽菜乃はうなずいて、そっと俺の腕に手を添えた。

 触れ方は控えめなのに、離れない意志だけははっきりしている。

 

「あなた」

「ん」

「もう少しだけ、このままでもよろしいでしょうか」

「もちろん」

 

 陽菜乃の指先が、俺の腕にそっと重なる。

 細い力なのに、不思議なくらいまっすぐで、離したくない気持ちがそのまま伝わってきた。

 

 言葉は少ないのに、沈黙は気まずくなかった。

 隣にいること自体が、ちゃんと会話になっている。

 

 しばらくして、屋敷の奥から渡会風香の足音が近づいてきた。

 角を曲がった風香は、俺たちを見ると一礼して口を開く。

 

「お食事のご用意が整いました。皆さま、お待ちでございます」

 

「分かった。すぐ行く」

 

「はい。参ります」

 

 陽菜乃が腕から手を離す。

 名残を惜しむみたいに、指先が一瞬だけ袖をかすめた。

 それだけで、胸の奥が少し熱くなる。

 

 食堂へ入ると、いつもより香りが甘い。

 湯気の向こうに、艶のある赤いご飯が見えた。

 

「……赤飯」

 

 思わず声に出すと、澄乃さんが目を細める。

 

「お祝いの日だもの。これくらいは当然よ、坊や」

「ありがとうございます、澄乃さん」

 

 席に着くと、千佳が目を輝かせて箸を握った。

 器をのぞき込んで、期待を隠しきれない顔で綾乃母さんを見る。

 

「お母様、赤飯ってことは、何かいいことあったの」

 

 食卓の空気が、ふわりと静かになる。

 綾乃母さんは一度、陽菜乃と俺を見てから、やわらかく微笑んだ。

 

「ええ。とても良いことがありました」

 

 千佳が身を乗り出す。

 

「なに、なに」

 

 綾乃母さんは姿勢を正し、家族全員に届く声で言った。

 

「陽菜乃と隼人さんが、婚約しました」

 

 一拍遅れて、千佳の顔がぱっと明るくなる。

 次の瞬間、椅子から跳ねるように立ち上がった。

 

「ほんとに!? すごい! ハヤト兄、おめでとう!」

「ありがとう、千佳」

「ありがとうございます」

 

 陽菜乃は丁寧に答えたあと、照れを隠すように箸先をそろえた。

 耳の先がほんのり赤い。

 でも表情は、迷いなく晴れている。

 

 澄乃さんが湯呑みを置いて、満足そうにうなずく。

 

「今日は祝いなさい。明日からは、もっと忙しくなるわよ」

「はい、お婆様」

「はい」

 

 沙織さんも、うれしそうに笑って俺を見た。

 

「隼人、ちゃんと食べなさい。こういう日は体力使うんだから」

「母さん、今日はまだ何もしてない」

「顔見れば分かるわよ。緊張してたでしょう」

 

 図星で、俺は少しだけ苦笑いする。

 隣で陽菜乃が小さく笑って、器に赤飯をよそう。

 

「あなた」

「ん」

「お赤飯、少し多めによそってもよろしいですか」

「いいよ。むしろ頼む」

「ふふ。かしこまりました」

 

 陽菜乃がよそった赤飯を受け取る。

 湯気の向こうで目が合って、どちらからともなく小さく笑った。

 

 祝いの席は、にぎやかで、あたたかかった。

 千佳は何度も「おめでとう」を繰り返し、そのたびに陽菜乃が「ありがとうございます」と丁寧に返す。

 綾乃母さんは穏やかに全体を見守り、澄乃さんはときどき鋭いひと言で場を締める。

 いつもの御堂家の食卓なのに、今夜だけは、同じ景色が少し違って見えた。

 

 食後、廊下に出ると、陽菜乃が俺の隣へ自然に並ぶ。

 人の気配が遠のいたところで、彼女は小さな声で言った。

 

「あなた。先ほどの発表、少しだけ恥ずかしかったです」

「俺も」

「でも、うれしかったです」

「うん。俺も、うれしい」

 

 陽菜乃は静かにうなずいて、俺の腕にそっと手を添えた。

 控えめな仕草なのに、さっきよりずっと自然だ。

 

「これからも、ちゃんと伝えます」

「俺も、ちゃんと言う」

「はい」

 

 短い返事。

 でもその1文字に、今日いちばん大きな安心が入っていた。

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