※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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215話 めでたい日

「……おはようございます」

 

 朝食の席に入る。

 

 湯気。味噌汁の匂い。いつもの席順。

 そして――赤飯。

 

 誰も顔色ひとつ変えない。

 綾乃母さんは当たり前の手つきで椀を並べ、母さんは当たり前の顔で箸を取っている。

 澄乃さんも、ただ一口目の茶をすすっただけだ。

 

「赤飯か」

「はい」

 

 綾乃母さんが淡々と返す。

 

 俺は椅子に座る。

 陽菜乃も、すでに座っていて、背筋はいつも通り真っすぐ。

 ただ、指先だけが少し落ち着かない。

 

「……あなた」

「おはよう、陽菜乃」

 

 陽菜乃は短く頷く。

 その頷きにも、言い訳は混ざらない。

 

 その時。

 

「おはよー……って、え、赤飯? 今日なに?」

 

 千佳の声だけが、場違いに明るい。

 箸を持ったまま、完全に初見の顔をしている。

 

 母さんが、一拍も置かずに言う。

 

「千佳は、普通に食べなさい」

「え、なにそれ。余計気になるんだけど」

「気にしなくていいの」

 

 綾乃母さんも、同じ温度で重ねる。

 

「赤飯は赤飯です。召し上がってください」

「いや、そうなんだけど! みんな反応なさすぎじゃない!?」

 

 千佳だけが騒いで、他は静かに食べ始める。

 それがこの家の“普通”になっている。

 

 俺は赤飯を一口食べる。

 祝いの甘さじゃない。整った塩気。

 

 澄乃さんが湯呑みを置く。

 

「陽菜乃昨夜は上手くできましたか」

「……あまり、うまくはできませんでした」

「そう……これから慣れていけばいいのよ」

 

 俺は箸を置いて、当然の顔をしている家族を一度だけ見回す。

 誰も目を逸らさない。そもそも、隠す気がない。

 

「婚姻の儀、いつにする」

 

 言った瞬間、母さんが頷く。

 

「二週間後なら大丈夫」

「分かった」

 

 綾乃母さんが、いつもの調子で段取りを口にする。

 

「衣装と会場は整えます。連絡もこちらで。あなたは予定の整理だけしてください」

「了解」

 

 陽菜乃が、小さく息を吸ってから言う。

 

「……二週間後。承知いたしました」

 

 命が赤飯を一口食べて、箸を静かに置く。

 表情はいつも通り読みにくい。けど、視線だけが俺に向く。

 

「……本日の予定は」

「撮影」

 

 それだけで十分だった。

 命が小さく頷く。

 

「……分かりました」

 

 陽菜乃が、俺の方を見て、言い方を選びながら口を開く。

 

「……あなた。ご無理は、なさらないでください」

「無理はしない、それに撮影はもうすぐ終わりそうなんだ」

 

 そう返すと、陽菜乃の指先が少しだけ落ち着く。

 安心したふりじゃなく、本当に息が整う感じ。

 

 澄乃さんは湯呑みを持ったまま笑みを浮かべる。

 

「ふふ。坊や、ちゃんと帰ってきてね。疲れてても、私が甘やかしてあげるから」

 

 千佳が即座に反応する。

 

「え、私も甘やかしてほしい!」

「いいわよ。千佳もおいで。……ただし、ちゃんと食べてからね」

 

 俺は赤飯をもう一口食べて、立ち上がる。

 

「行ってくる」

 

 命が俺を見る。

 

「……お気をつけて」

「うん」

 

 陽菜乃が、いつもより少しだけ小さな声で言う。

 

「……いってらっしゃいませ。あなた」

「行ってくる」

 

 玄関を出ると、空気が少し冷たい。

 車に乗って、現場へ向かう。考えることは多いのに、やることは単純だ。行って、やって、戻る。

 

 スタジオの入口が見えたあたりで、スマホが短く震えた。

 撮影の連絡かと思って画面を見る。

 

『綾乃母さんが、産気づいたそうです。お婆様と母さんが病院へ向かいました。ハヤトさんは、今日は撮影に集中してください。こちらは大丈夫です』

 

 指が止まる。

 息を吸って、吐く。胸の奥が一瞬だけざわつく。でも、動揺を長引かせる場面じゃない。

 

 俺は歩きながら返信する。

 

『分かった。そっちは任せる。何かあったらすぐ言って』

 

 送信。

 すぐに既読がついて、返事が来る。

 

『はい。ハヤトさんは、仕事を』

 

 短い。命らしい。

 俺はスマホをポケットに戻して、顔を上げた。

 

 現場の空気に切り替える。

 今ここで俺が乱れたら、誰も得しない。

 家のことは、家が回る。命がいる。母さんも、澄乃さんもいる。

 

 控室に入ると、スタッフが声をかけてくる。

 

「おはようございます。今日、よろしくお願いします」

「おはようございます。お願いします」

 

 台本を受け取って、目を落とす。

 手順。動き。目線。呼吸。

 頭の中の棚に、別件として“家”を置く。完全に消すんじゃない。いつでも取り出せる場所に、きちんとしまう。

 

 メイクの椅子に座った瞬間、またスマホが震えた。

 反射で手が伸びかけて、止める。今は確認しない。命が「大丈夫」と言った。

 

 鏡の中の俺が、少しだけ硬い顔をしている。

 俺は目を一度閉じて、開く。

 

 やる。

 終わらせて、帰る。

 それが、今の俺の役目だ。

 

 鏡の中の自分に、余計な感情は要らない。

 焦りも、心配も、今は握っておくだけでいい。手放さない代わりに、振り回されない。

 

「ハヤト君、次、立ち位置確認いけます?」

「行きます」

 

 立ち上がって、現場へ出る。

 白い床に貼られたテープの位置。照明の角度。カメラの高さ。

 全部が、いつも通り整っている。だから俺も、いつも通り整える。

 

 監督が台本をめくりながら言った。

 

「今日、残りカットなんだけど、今日は長いんだけど。いけるよね」

「はい」

 

 返事は短く。

 その方が、揺れない。

 

 カメラ前に立つ。

 セリフを頭でなぞる前に、呼吸だけを整える。

 胸の奥に残っている家の匂いを、いったん薄める。消すんじゃない。仕事の奥に押し込む。

 

「……よーい」

 

 アシスタントの声が入る。

 その瞬間、スマホの振動のことも、赤飯のことも、二週間後の儀のことも、全部が遠のく。

 

「本番――」

 

 俺は目線を合わせる。

 声を出す。

 体を動かす。

 “氷室斎音”としての俺が、ここに立つ。

 

「カット。いいね、もう一回だけ角度変えて」

「はい」

 

 テイクが進むたびに、余計なものが削れていく。

 残るのは、やるべき動きと、やるべき言葉だけだ。

 

 次の準備の合間、胸の内側で一度だけ確認する。

 家は回っている。命がいる。母さんもいる。澄乃さんもいる。

 俺はここで、ちゃんと終わらせて戻る。

 

 スタッフが走りながら声を上げる。

 

「ハヤト君、ラスト前! 次で決まったら押せます!」

「分かった」

 

 短く返して、立ち位置に立つ。

 もう一度だけ、息を吸う。

 

 帰るために。

 守るために。

 そして、選んだ分を背負うために。

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