「……おはようございます」
朝食の席に入る。
湯気。味噌汁の匂い。いつもの席順。
そして――赤飯。
誰も顔色ひとつ変えない。
綾乃母さんは当たり前の手つきで椀を並べ、母さんは当たり前の顔で箸を取っている。
澄乃さんも、ただ一口目の茶をすすっただけだ。
「赤飯か」
「はい」
綾乃母さんが淡々と返す。
俺は椅子に座る。
陽菜乃も、すでに座っていて、背筋はいつも通り真っすぐ。
ただ、指先だけが少し落ち着かない。
「……あなた」
「おはよう、陽菜乃」
陽菜乃は短く頷く。
その頷きにも、言い訳は混ざらない。
その時。
「おはよー……って、え、赤飯? 今日なに?」
千佳の声だけが、場違いに明るい。
箸を持ったまま、完全に初見の顔をしている。
母さんが、一拍も置かずに言う。
「千佳は、普通に食べなさい」
「え、なにそれ。余計気になるんだけど」
「気にしなくていいの」
綾乃母さんも、同じ温度で重ねる。
「赤飯は赤飯です。召し上がってください」
「いや、そうなんだけど! みんな反応なさすぎじゃない!?」
千佳だけが騒いで、他は静かに食べ始める。
それがこの家の“普通”になっている。
俺は赤飯を一口食べる。
祝いの甘さじゃない。整った塩気。
澄乃さんが湯呑みを置く。
「陽菜乃昨夜は上手くできましたか」
「……あまり、うまくはできませんでした」
「そう……これから慣れていけばいいのよ」
俺は箸を置いて、当然の顔をしている家族を一度だけ見回す。
誰も目を逸らさない。そもそも、隠す気がない。
「婚姻の儀、いつにする」
言った瞬間、母さんが頷く。
「二週間後なら大丈夫」
「分かった」
綾乃母さんが、いつもの調子で段取りを口にする。
「衣装と会場は整えます。連絡もこちらで。あなたは予定の整理だけしてください」
「了解」
陽菜乃が、小さく息を吸ってから言う。
「……二週間後。承知いたしました」
命が赤飯を一口食べて、箸を静かに置く。
表情はいつも通り読みにくい。けど、視線だけが俺に向く。
「……本日の予定は」
「撮影」
それだけで十分だった。
命が小さく頷く。
「……分かりました」
陽菜乃が、俺の方を見て、言い方を選びながら口を開く。
「……あなた。ご無理は、なさらないでください」
「無理はしない、それに撮影はもうすぐ終わりそうなんだ」
そう返すと、陽菜乃の指先が少しだけ落ち着く。
安心したふりじゃなく、本当に息が整う感じ。
澄乃さんは湯呑みを持ったまま笑みを浮かべる。
「ふふ。坊や、ちゃんと帰ってきてね。疲れてても、私が甘やかしてあげるから」
千佳が即座に反応する。
「え、私も甘やかしてほしい!」
「いいわよ。千佳もおいで。……ただし、ちゃんと食べてからね」
俺は赤飯をもう一口食べて、立ち上がる。
「行ってくる」
命が俺を見る。
「……お気をつけて」
「うん」
陽菜乃が、いつもより少しだけ小さな声で言う。
「……いってらっしゃいませ。あなた」
「行ってくる」
玄関を出ると、空気が少し冷たい。
車に乗って、現場へ向かう。考えることは多いのに、やることは単純だ。行って、やって、戻る。
スタジオの入口が見えたあたりで、スマホが短く震えた。
撮影の連絡かと思って画面を見る。
『綾乃母さんが、産気づいたそうです。お婆様と母さんが病院へ向かいました。ハヤトさんは、今日は撮影に集中してください。こちらは大丈夫です』
指が止まる。
息を吸って、吐く。胸の奥が一瞬だけざわつく。でも、動揺を長引かせる場面じゃない。
俺は歩きながら返信する。
『分かった。そっちは任せる。何かあったらすぐ言って』
送信。
すぐに既読がついて、返事が来る。
『はい。ハヤトさんは、仕事を』
短い。命らしい。
俺はスマホをポケットに戻して、顔を上げた。
現場の空気に切り替える。
今ここで俺が乱れたら、誰も得しない。
家のことは、家が回る。命がいる。母さんも、澄乃さんもいる。
控室に入ると、スタッフが声をかけてくる。
「おはようございます。今日、よろしくお願いします」
「おはようございます。お願いします」
台本を受け取って、目を落とす。
手順。動き。目線。呼吸。
頭の中の棚に、別件として“家”を置く。完全に消すんじゃない。いつでも取り出せる場所に、きちんとしまう。
メイクの椅子に座った瞬間、またスマホが震えた。
反射で手が伸びかけて、止める。今は確認しない。命が「大丈夫」と言った。
鏡の中の俺が、少しだけ硬い顔をしている。
俺は目を一度閉じて、開く。
やる。
終わらせて、帰る。
それが、今の俺の役目だ。
鏡の中の自分に、余計な感情は要らない。
焦りも、心配も、今は握っておくだけでいい。手放さない代わりに、振り回されない。
「ハヤト君、次、立ち位置確認いけます?」
「行きます」
立ち上がって、現場へ出る。
白い床に貼られたテープの位置。照明の角度。カメラの高さ。
全部が、いつも通り整っている。だから俺も、いつも通り整える。
監督が台本をめくりながら言った。
「今日、残りカットなんだけど、今日は長いんだけど。いけるよね」
「はい」
返事は短く。
その方が、揺れない。
カメラ前に立つ。
セリフを頭でなぞる前に、呼吸だけを整える。
胸の奥に残っている家の匂いを、いったん薄める。消すんじゃない。仕事の奥に押し込む。
「……よーい」
アシスタントの声が入る。
その瞬間、スマホの振動のことも、赤飯のことも、二週間後の儀のことも、全部が遠のく。
「本番――」
俺は目線を合わせる。
声を出す。
体を動かす。
“氷室斎音”としての俺が、ここに立つ。
「カット。いいね、もう一回だけ角度変えて」
「はい」
テイクが進むたびに、余計なものが削れていく。
残るのは、やるべき動きと、やるべき言葉だけだ。
次の準備の合間、胸の内側で一度だけ確認する。
家は回っている。命がいる。母さんもいる。澄乃さんもいる。
俺はここで、ちゃんと終わらせて戻る。
スタッフが走りながら声を上げる。
「ハヤト君、ラスト前! 次で決まったら押せます!」
「分かった」
短く返して、立ち位置に立つ。
もう一度だけ、息を吸う。
帰るために。
守るために。
そして、選んだ分を背負うために。