夜の照明が落ち着いて、スタジオの空気が一段だけ軽くなる。
最後の段取り。最後の立ち位置。最後の目線。
「よーい」
監督の声で、周りの私語が止まる。
「本番――」
俺は息を吸って、吐く。
氷室斎音の呼吸に合わせる。焦らない。急がない。今日は、ここで終わる。
「……」
セリフは短い。
でも短いほど、間が嘘をつけない。
目線を落として、上げる。
言葉を置く場所だけ、外さない。
「カット」
監督が一拍置いて、モニターから顔を上げた。
「……OK。今の、いい」
周りのスタッフが、少しずつ息を吐く。
俺も、肩の奥の力が抜けるのが分かった。
監督が台本を閉じる。
「氷室斎音、これにてオールアップです」
一瞬、静かで――次の瞬間、拍手が広がった。
乾いた音じゃない。長丁場を走り切った音だ。
「お疲れさまでした!」
「オールアップ、おめでとうございます!」
花束が差し出される。俺は受け取って、頭を下げた。
「ありがとうございました。最後まで、支えてもらいました」
言葉はいつも通り短いはずなのに、喉の奥が少しだけ熱い。
それでも、顔は崩さない。崩すのは帰ってからでいい。
監督が近づいてきて、低い声で言う。
「ハヤト君、今日の“溜め”、良かった。やっぱ目が強い」
「ありがとうございます」
スタッフが撤収に動き出す。ケーブルが巻かれ、ライトが落とされる。
現場が“終わりの形”に戻っていくのを見ると、やっと実感が追いついた。
控室に戻る途中、ポケットのスマホが震えた。
今度は確認する。現場が終わった。俺の番だ。
画面に、命からの通知。
『ハヤトさん。綾乃母さんは無事です。いま、もうすぐ生まれそうです。こちらは大丈夫ですので、撮影が終わってからで構いません。帰りは気をつけてください』
胸の奥の固さが、すっとほどける。
俺は短く返信した。
『分かった。今終わった。向かう』
既読がついて、すぐ返ってくる。
『はい。お待ちしております』
その文面だけで、家が回っているのが分かる。
命は余計な言葉を足さない。だから信用できる。
着替えを済ませて、ロビーへ出る。
出口のドアを押すと、夜風が頬に当たった。冷たいのに、頭は妙に冴えている。
車に乗り込む直前、母さんからも短い通知が来る。
『今ね、分娩室。落ち着いてる。急がなくていいから、安全運転で』
急ぐなと言われると、逆に早く着きたくなる。
俺は画面を閉じて、シートベルトを締めた。
終わらせた。
今度は、帰る。
☆
病院の明るい廊下に入った瞬間、空気の匂いが変わる。
消毒の匂い。小さな足音。遠くの低い声。
受付で名前を伝える前に、廊下の奥から命が出てきた。
いつもの命だ。表情は大きく動かない。けど、歩幅が少しだけ速い。
「ハヤトさん」
「命。……どうだ」
命は一拍だけ置いて、ちゃんと頷く。
「……もう、生まれています」
言い切られて、胸が一度だけ強く鳴る。
「間に合わなかったか」
「大丈夫です。母子ともに無事です」
その一言で、肩の奥の力が抜けた。
俺は短く頷く。
「会えるか」
「……こちらです」
声をかけてきたのは、白衣の助産師さんだった。
落ち着いた声で、手のひらを廊下の奥へ向ける。
「面会は短時間になりますが、今なら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
俺は頷いて、後ろを一度だけ振り返る。
命が少し離れた場所で立っていて、小さく頷き返した。
助産師さんの後ろについて歩く。
扉の前で、俺は一度だけ息を整えた。
仕事の顔を外す。
家族の顔に戻す。
そして――扉を開ける。
で、面会で綾乃母さんが言う部分(続きの導入も書く):
病室の空気は静かだった。
綾乃母さんはベッドに寄りかかっていて、疲れはあるのに目ははっきりしている。
澄乃さんが窓際の椅子に腰掛けて、湯呑みを持つみたいに指先を揃えている。
余裕のある“大人のお姉さん”の顔だ。
「来たのね、坊や」
「……遅くなった」
「いいの。大事なのは、来たってこと」
綾乃母さんが小さく頷いて、ベビーベッドの方へ視線を向けた。
「見てください」
俺も、そちらを見る。
小さな命が、規則正しく息をしていた。
綾乃母さんが、そこで初めて言った。
「男の子です」
その一言で、部屋の温度が変わる。
澄乃さんが、ふっと笑う。
「ふふ。念願の男の子。御堂の“待ってた”が、ちゃんと来たのよ」
綾乃母さんは照れたみたいに目を伏せて、それでも声はまっすぐだった。
「元気に泣いて、今は落ち着いて眠っています」
俺は息を吐いて、短く頷く。
知らなかったのに、ずっと家が待っていたもの。
それが、いま目の前にいる。
「……名前は」
「
俺はもう一度、その音を頭の中で転がした。
はるまさ。春と、雅。
「……いい名前だな」
綾乃母さんの表情が、少しだけ緩む。
「そう言ってもらえると、安心します」
俺はベビーベッドに近づく。
小さな手。小さな指。
怖いほど壊れそうなのに、呼吸はしっかりしている。
「抱く」
澄乃さんが軽く顎を上げた。
「ええ。坊や、落ち着いてね。焦ると手が固くなるから」
俺は手を消毒して、腕を差し入れる。
首の下を支えて、背中と腰を受ける。
やり方は知ってる。考える前に体が動く。
春雅を持ち上げた瞬間、体温が腕に移った。
軽い。軽いのに、重い。
春雅の指が、反射みたいに俺の指先を握る。
「……強いな」
澄乃さんが、柔らかく笑う。
「坊やの子だもの。掴むのが上手」
綾乃母さんが、静かに言った。
「……その顔、初めて見ました」
「どんな顔」
「……いい男の顔です」
俺は返事をしない。
代わりに、春雅の呼吸だけを確かめた。
規則正しい。
俺の腕の中で、ちゃんと生きている。