※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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216話 出産と御堂春雅

 夜の照明が落ち着いて、スタジオの空気が一段だけ軽くなる。

 最後の段取り。最後の立ち位置。最後の目線。

 

「よーい」

 

 監督の声で、周りの私語が止まる。

 

「本番――」

 

 俺は息を吸って、吐く。

 氷室斎音の呼吸に合わせる。焦らない。急がない。今日は、ここで終わる。

 

「……」

 

 セリフは短い。

 でも短いほど、間が嘘をつけない。

 

 目線を落として、上げる。

 言葉を置く場所だけ、外さない。

 

「カット」

 

 監督が一拍置いて、モニターから顔を上げた。

 

「……OK。今の、いい」

 

 周りのスタッフが、少しずつ息を吐く。

 俺も、肩の奥の力が抜けるのが分かった。

 

 監督が台本を閉じる。

 

「氷室斎音、これにてオールアップです」

 

 一瞬、静かで――次の瞬間、拍手が広がった。

 乾いた音じゃない。長丁場を走り切った音だ。

 

「お疲れさまでした!」

「オールアップ、おめでとうございます!」

 

 花束が差し出される。俺は受け取って、頭を下げた。

 

「ありがとうございました。最後まで、支えてもらいました」

 

 言葉はいつも通り短いはずなのに、喉の奥が少しだけ熱い。

 それでも、顔は崩さない。崩すのは帰ってからでいい。

 

 監督が近づいてきて、低い声で言う。

 

「ハヤト君、今日の“溜め”、良かった。やっぱ目が強い」

「ありがとうございます」

 

 スタッフが撤収に動き出す。ケーブルが巻かれ、ライトが落とされる。

 現場が“終わりの形”に戻っていくのを見ると、やっと実感が追いついた。

 

 控室に戻る途中、ポケットのスマホが震えた。

 今度は確認する。現場が終わった。俺の番だ。

 

 画面に、命からの通知。

 

『ハヤトさん。綾乃母さんは無事です。いま、もうすぐ生まれそうです。こちらは大丈夫ですので、撮影が終わってからで構いません。帰りは気をつけてください』

 

 胸の奥の固さが、すっとほどける。

 俺は短く返信した。

 

『分かった。今終わった。向かう』

 

 既読がついて、すぐ返ってくる。

 

『はい。お待ちしております』

 

 その文面だけで、家が回っているのが分かる。

 命は余計な言葉を足さない。だから信用できる。

 

 着替えを済ませて、ロビーへ出る。

 出口のドアを押すと、夜風が頬に当たった。冷たいのに、頭は妙に冴えている。

 

 車に乗り込む直前、母さんからも短い通知が来る。

 

『今ね、分娩室。落ち着いてる。急がなくていいから、安全運転で』

 

 急ぐなと言われると、逆に早く着きたくなる。

 俺は画面を閉じて、シートベルトを締めた。

 

 終わらせた。

 今度は、帰る。

 

 ☆

 

 病院の明るい廊下に入った瞬間、空気の匂いが変わる。

 消毒の匂い。小さな足音。遠くの低い声。

 

 受付で名前を伝える前に、廊下の奥から命が出てきた。

 いつもの命だ。表情は大きく動かない。けど、歩幅が少しだけ速い。

 

「ハヤトさん」

「命。……どうだ」

 

 命は一拍だけ置いて、ちゃんと頷く。

 

「……もう、生まれています」

 

 言い切られて、胸が一度だけ強く鳴る。

 

「間に合わなかったか」

「大丈夫です。母子ともに無事です」

 

 その一言で、肩の奥の力が抜けた。

 俺は短く頷く。

 

「会えるか」

「……こちらです」

 

 声をかけてきたのは、白衣の助産師さんだった。

 落ち着いた声で、手のひらを廊下の奥へ向ける。

 

「面会は短時間になりますが、今なら大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 

 俺は頷いて、後ろを一度だけ振り返る。

 命が少し離れた場所で立っていて、小さく頷き返した。

 

 助産師さんの後ろについて歩く。

 扉の前で、俺は一度だけ息を整えた。

 

 仕事の顔を外す。

 家族の顔に戻す。

 

 そして――扉を開ける。

 

で、面会で綾乃母さんが言う部分(続きの導入も書く):

 

 病室の空気は静かだった。

 綾乃母さんはベッドに寄りかかっていて、疲れはあるのに目ははっきりしている。

 

 澄乃さんが窓際の椅子に腰掛けて、湯呑みを持つみたいに指先を揃えている。

 余裕のある“大人のお姉さん”の顔だ。

 

「来たのね、坊や」

「……遅くなった」

「いいの。大事なのは、来たってこと」

 

 綾乃母さんが小さく頷いて、ベビーベッドの方へ視線を向けた。

 

「見てください」

 

 俺も、そちらを見る。

 小さな命が、規則正しく息をしていた。

 

 綾乃母さんが、そこで初めて言った。

 

「男の子です」

 

 その一言で、部屋の温度が変わる。

 澄乃さんが、ふっと笑う。

 

「ふふ。念願の男の子。御堂の“待ってた”が、ちゃんと来たのよ」

 

 綾乃母さんは照れたみたいに目を伏せて、それでも声はまっすぐだった。

 

「元気に泣いて、今は落ち着いて眠っています」

 

 俺は息を吐いて、短く頷く。

 知らなかったのに、ずっと家が待っていたもの。

 それが、いま目の前にいる。

 

「……名前は」

「春雅(はるまさ)。そう呼びたいと思っています」

 

 俺はもう一度、その音を頭の中で転がした。

 はるまさ。春と、雅。

 

「……いい名前だな」

 

 綾乃母さんの表情が、少しだけ緩む。

 

「そう言ってもらえると、安心します」

 

 俺はベビーベッドに近づく。

 小さな手。小さな指。

 怖いほど壊れそうなのに、呼吸はしっかりしている。

 

「抱く」

 

 澄乃さんが軽く顎を上げた。

 

「ええ。坊や、落ち着いてね。焦ると手が固くなるから」

 

 俺は手を消毒して、腕を差し入れる。

 首の下を支えて、背中と腰を受ける。

 やり方は知ってる。考える前に体が動く。

 

 春雅を持ち上げた瞬間、体温が腕に移った。

 軽い。軽いのに、重い。

 

 春雅の指が、反射みたいに俺の指先を握る。

 

「……強いな」

 

 澄乃さんが、柔らかく笑う。

 

「坊やの子だもの。掴むのが上手」

 

 綾乃母さんが、静かに言った。

 

「……その顔、初めて見ました」

「どんな顔」

「……いい男の顔です」

 

 俺は返事をしない。

 代わりに、春雅の呼吸だけを確かめた。

 

 規則正しい。

 俺の腕の中で、ちゃんと生きている。

 

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