※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

221 / 238
220話 小さな命が2つ

 玄関の鍵が回る音がして、家の空気が少しだけ変わった。

 

「ただいま戻りました」

 

 綾乃さんの腕の中に、小さな毛布の塊がある。

 春雅だ。規則正しい呼吸が、布越しにも分かる。

 

 その横を、黒柴のこひなが落ち着かない足取りでついて回る。

 鼻先を伸ばして、でも距離は守っている。えらい。

 

「こひな、優しく」

 

 沙織さんが言うと、こひなは尻尾だけ振って、ぺろっと空気を舐めた。

 

「……ただいま、沙織さん」

「おかえり、綾乃さん。……春雅も、おかえり」

 

 綾乃母さんは、その呼び方のまま近づいていく。

 背中を伸ばしているのに、歩幅だけは慎重だった。

 

 黒柴のこひなが、綾乃母さんの足元へ駆けていく。

 尻尾をぶんぶん振って、靴下をぺろぺろ舐めた。

 

「こひな、くすぐったいです」

 

 笑い方も控えめで、でもちゃんと笑ってるのが分かる。

 

「ごめんね、こひな。心配してたの」

 

 母さんがそう言うと、こひなは返事みたいにもう一回舐めた。

 それから、次の獲物を見つけたみたいにベビーベッドへ目を向ける。

 

「こひな、だめ」

 

 俺が短く言うと、こひなは一瞬だけ止まって、それでも諦めきれない顔をした。

 鼻先だけを伸ばして、距離を測る。

 

 綾乃母さんが手を洗って戻ってくる。

 

「……抱いても、いいですか」

「もちろん」

 

 母さんが菜桜をそっと渡す。

 綾乃母さんは受け取る手つきが丁寧で、迷いがない。首と背中を支えて、胸に近づける。

 

「菜桜」

 

 呼ばれた菜桜が、ふにゃっと口を動かした。

 綾乃母さんの指先が、頬を軽く撫でる。

 

「お利口さんですね」

 

 その一言で、部屋がさらに静かになる。

 落ち着く静けさだ。

 

 ベビーベッドの方から、小さな声がした。

 春雅が起きた。

 

「……起きたな」

 

 俺が立ち上がるより先に、綾乃母さんが視線だけで春雅を確認した。

 

「春雅も……」

「俺が」

 

 短く言って、ベビーベッドへ行く。

 春雅の呼吸は整ってる。泣き方も弱くない。ちゃんと生きてる音だ。

 

 俺が春雅を抱き上げると、こひながまた近づいてきた。

 今度は春雅の足先を、ぺろっと舐める。

 

「こひな」

 

 名前を呼ぶと、こひなは「やりすぎた」みたいな顔で一歩下がった。

 尻尾だけは振り続けている。

 

 綾乃母さんが、菜桜を抱いたまま、俺と春雅を見る。

 視線が少しだけ柔らかい。

 

 沙織母さんが小さく笑った。

 

「綾乃母さん、帰ってきてくれてよかった。家、やっと“戻った”感じする」

「……ご迷惑をおかけしました」

「迷惑じゃない」

 

 俺が言うと、綾乃さんは一拍置いて頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 春雅が小さく息を吸って、吐く。

 その呼吸の音だけで、部屋の温度が落ち着く。

 

 こひなが、ベビーバッグの匂いを嗅ぎたくてそわそわしている。

 鼻先を伸ばして、でも距離は守る。えらい。

 

「こひな、座れ」

 

 俺が言うと、こひなはしぶしぶ座って、尻尾だけを振った。

 

 綾乃さんが菜桜をあやしながら、静かに言う。

 

「……賑やかになりますね」

「なるな」

 

 沙織さんがうなずく。

 

「賑やかでいいのよ。……ね、ハヤト」

「うん」

 

 その時、廊下の方で気配がした。

 視線を向けると、少し離れた場所に恵さんと命が立っていた。

 

 2人とも、部屋に入ってくるでもなく、遠目で様子だけを見ている。

 邪魔をしない距離。けど、目はちゃんとここにある。

 

 恵さんが先に口を開く。

 

「……よろしい光景ですわね」

 

 声は抑えているのに、柔らかい。

 命は小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 命の表情は読みにくい。

 でも、視線が春雅に向いたまま離れない。

 

 沙織さんが気づいて、手招きする。

 

「恵さん、命。遠慮しないで入って。……ただ、今は静かにね」

「承知いたしましたわ」

「……はい」

 

 2人は足音を消すみたいに近づいた。

 恵さんはまず綾乃さんに目礼してから、ベビーベッドの方を見る。

 

「春雅さん……」

 

 名前を呼ぶだけで、声が少しだけ優しくなるのが分かった。

 

 命は何も言わずに、菜桜の方も一度見た。

 目に入った情報を、静かに胸にしまうような視線だった。

 

 恵さんが、抑えた声で言う。

 

「……尊い、という言葉は、こういう時に使うのでしょうね」

 

 沙織さんが笑う。

 

「そうね。……でも、ここは家だから、難しい言葉いらないわ」

 

 恵さんが小さく微笑む。

 

「では……嬉しい、ですわ」

 

 命が遅れて、短く言った。

 

「……安心します」

 

 その一言が、やけに重い。

 俺は春雅の背中を軽く叩く。呼吸は一定のままだ。

 

 恵さんと命は、もう一歩だけ近づいて、でも手は出さない。

 触れたい気持ちを、距離に変えて守ってる。

 

 恵さんが命を横目で見て、ほんの少しだけ声を落とす。

 

「……いつか、と思ってしまいますわね」

 

 命は目を伏せずに答える。

 

「……はい。私も」

 

 それ以上は言わない。

 言わないから、余計に伝わる。

 

 綾乃さんが菜桜の背中を撫でて、ゆっくり息を吐いた。

 

「……抱っこ、してみますか」

 

 恵さんが一拍置いて、丁寧に頷く。

 

「よろしいのですか」

「はい。……ただ、手を洗ってから」

「もちろんですわ」

 

 命も小さく頷いた。

 

「……手順は、分かります」

 

 2人が洗面所へ向かう足音は、驚くほど静かだった。

 この家の空気を、壊さないための歩き方だ。

 

 俺は春雅の顔を見下ろす。

 目は閉じたまま。小さな口が、ふっと動く。泣く前の気配。

 

「泣くか」

 

 沙織さんが笑う。

 

「泣いていいのよ。泣くのが仕事なんだから」

「仕事か」

「そう。菜桜もそうだったでしょ」

 

 4月8日に生まれたばかりの菜桜は、今も夜はよく泣く。

 眠いのに、抱けば少しだけ落ち着く時がある。

 それでも、また泣く。

 それが普通だって、頭では分かってる。

 

 こひなが、その「泣きそう」の匂いを嗅ぎ取ったみたいに立ち上がる。

 尻尾を振って、春雅の足元へ寄ろうとする。

 

「こひな、待て」

 

 俺が言うと、こひなはぴたりと止まる。

 止まって、舌だけ出して、ぺろっと空気を舐めた。諦めてない。

 

 綾乃さんが小さく笑った。

 

「……こひなも、家族ですね」

「そうだな」

 

 その言葉に、沙織さんが頷く。

 

「家の中が、急に“生き物だらけ”になった感じ」

「元からだろ」

「確かに」

 

 笑う声は小さくて、でも温かい。

 

 洗面所から戻ってきた恵さんが、まず綾乃さんに目礼した。

 

「失礼いたします」

 

 綾乃さんは菜桜を抱いたまま、抱き方の位置だけを少し調整する。

 首と背中が安定する角度。そこに、恵さんの腕が入る。

 

 恵さんは受け取った瞬間、顔色を変えない。

 でも、目の奥だけが少しだけ揺れた。

 

「……軽い」

 

 言葉は短いのに、重い。

 恵さんは息を整えてから、菜桜を見下ろす。

 

「菜桜さん。はじめまして……ではありませんわね」

 

 沙織さんが「ふふ」と笑った。

 

「そうね」

 

 恵さんは頷いて、菜桜の頬を見つめる。

 触れない。見て、守る距離を保つ。

 

 その隣で、命が静かに立つ。

 抱かないまま、目だけで全部を受け取っている。

 

 綾乃さんが命に言った。

 

「命も、どうしますか」

 

 命は一瞬だけ迷ってから、丁寧に答える。

 

「……では。少しだけ」

 

 恵さんが、菜桜を渡す前に小さく言う。

 

「命。焦らなくて大丈夫ですわ。ゆっくり」

「……はい」

 

 命の手は静かだ。

 揺れない。揺れているのは、指先のほんのわずかな力だけ。

 

 命が菜桜を抱く。

 その瞬間、菜桜がふにゃっと口を動かして、小さく声を出した。

 

 命のまばたきが一度だけ遅れる。

 表情は変わらないのに、胸の中の何かが動いたのが分かった。

 

「……温かいです」

 

 ぽつりと落ちた言葉が、部屋の静けさに溶ける。

 

 俺の腕の中で、春雅がとうとう泣いた。

 短く、でも力のある声。

 

 沙織さんが、俺の背中を軽く叩いた。

 

「ほら。あやして」

「……ああ」

 

 俺は春雅の背中を一定のリズムで叩く。

 泣き声が少しずつ短くなる。

 

 この家の音が、落ち着いていく。

 赤ん坊の呼吸と、紅茶の残り香と、こひなの尻尾。

 それだけで、十分だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。