玄関の鍵が回る音がして、家の空気が少しだけ変わった。
「ただいま戻りました」
綾乃さんの腕の中に、小さな毛布の塊がある。
春雅だ。規則正しい呼吸が、布越しにも分かる。
その横を、黒柴のこひなが落ち着かない足取りでついて回る。
鼻先を伸ばして、でも距離は守っている。えらい。
「こひな、優しく」
沙織さんが言うと、こひなは尻尾だけ振って、ぺろっと空気を舐めた。
「……ただいま、沙織さん」
「おかえり、綾乃さん。……春雅も、おかえり」
綾乃母さんは、その呼び方のまま近づいていく。
背中を伸ばしているのに、歩幅だけは慎重だった。
黒柴のこひなが、綾乃母さんの足元へ駆けていく。
尻尾をぶんぶん振って、靴下をぺろぺろ舐めた。
「こひな、くすぐったいです」
笑い方も控えめで、でもちゃんと笑ってるのが分かる。
「ごめんね、こひな。心配してたの」
母さんがそう言うと、こひなは返事みたいにもう一回舐めた。
それから、次の獲物を見つけたみたいにベビーベッドへ目を向ける。
「こひな、だめ」
俺が短く言うと、こひなは一瞬だけ止まって、それでも諦めきれない顔をした。
鼻先だけを伸ばして、距離を測る。
綾乃母さんが手を洗って戻ってくる。
「……抱いても、いいですか」
「もちろん」
母さんが菜桜をそっと渡す。
綾乃母さんは受け取る手つきが丁寧で、迷いがない。首と背中を支えて、胸に近づける。
「菜桜」
呼ばれた菜桜が、ふにゃっと口を動かした。
綾乃母さんの指先が、頬を軽く撫でる。
「お利口さんですね」
その一言で、部屋がさらに静かになる。
落ち着く静けさだ。
ベビーベッドの方から、小さな声がした。
春雅が起きた。
「……起きたな」
俺が立ち上がるより先に、綾乃母さんが視線だけで春雅を確認した。
「春雅も……」
「俺が」
短く言って、ベビーベッドへ行く。
春雅の呼吸は整ってる。泣き方も弱くない。ちゃんと生きてる音だ。
俺が春雅を抱き上げると、こひながまた近づいてきた。
今度は春雅の足先を、ぺろっと舐める。
「こひな」
名前を呼ぶと、こひなは「やりすぎた」みたいな顔で一歩下がった。
尻尾だけは振り続けている。
綾乃母さんが、菜桜を抱いたまま、俺と春雅を見る。
視線が少しだけ柔らかい。
沙織母さんが小さく笑った。
「綾乃母さん、帰ってきてくれてよかった。家、やっと“戻った”感じする」
「……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃない」
俺が言うと、綾乃さんは一拍置いて頷いた。
「……ありがとうございます」
春雅が小さく息を吸って、吐く。
その呼吸の音だけで、部屋の温度が落ち着く。
こひなが、ベビーバッグの匂いを嗅ぎたくてそわそわしている。
鼻先を伸ばして、でも距離は守る。えらい。
「こひな、座れ」
俺が言うと、こひなはしぶしぶ座って、尻尾だけを振った。
綾乃さんが菜桜をあやしながら、静かに言う。
「……賑やかになりますね」
「なるな」
沙織さんがうなずく。
「賑やかでいいのよ。……ね、ハヤト」
「うん」
その時、廊下の方で気配がした。
視線を向けると、少し離れた場所に恵さんと命が立っていた。
2人とも、部屋に入ってくるでもなく、遠目で様子だけを見ている。
邪魔をしない距離。けど、目はちゃんとここにある。
恵さんが先に口を開く。
「……よろしい光景ですわね」
声は抑えているのに、柔らかい。
命は小さく頷いた。
「……はい」
命の表情は読みにくい。
でも、視線が春雅に向いたまま離れない。
沙織さんが気づいて、手招きする。
「恵さん、命。遠慮しないで入って。……ただ、今は静かにね」
「承知いたしましたわ」
「……はい」
2人は足音を消すみたいに近づいた。
恵さんはまず綾乃さんに目礼してから、ベビーベッドの方を見る。
「春雅さん……」
名前を呼ぶだけで、声が少しだけ優しくなるのが分かった。
命は何も言わずに、菜桜の方も一度見た。
目に入った情報を、静かに胸にしまうような視線だった。
恵さんが、抑えた声で言う。
「……尊い、という言葉は、こういう時に使うのでしょうね」
沙織さんが笑う。
「そうね。……でも、ここは家だから、難しい言葉いらないわ」
恵さんが小さく微笑む。
「では……嬉しい、ですわ」
命が遅れて、短く言った。
「……安心します」
その一言が、やけに重い。
俺は春雅の背中を軽く叩く。呼吸は一定のままだ。
恵さんと命は、もう一歩だけ近づいて、でも手は出さない。
触れたい気持ちを、距離に変えて守ってる。
恵さんが命を横目で見て、ほんの少しだけ声を落とす。
「……いつか、と思ってしまいますわね」
命は目を伏せずに答える。
「……はい。私も」
それ以上は言わない。
言わないから、余計に伝わる。
綾乃さんが菜桜の背中を撫でて、ゆっくり息を吐いた。
「……抱っこ、してみますか」
恵さんが一拍置いて、丁寧に頷く。
「よろしいのですか」
「はい。……ただ、手を洗ってから」
「もちろんですわ」
命も小さく頷いた。
「……手順は、分かります」
2人が洗面所へ向かう足音は、驚くほど静かだった。
この家の空気を、壊さないための歩き方だ。
俺は春雅の顔を見下ろす。
目は閉じたまま。小さな口が、ふっと動く。泣く前の気配。
「泣くか」
沙織さんが笑う。
「泣いていいのよ。泣くのが仕事なんだから」
「仕事か」
「そう。菜桜もそうだったでしょ」
4月8日に生まれたばかりの菜桜は、今も夜はよく泣く。
眠いのに、抱けば少しだけ落ち着く時がある。
それでも、また泣く。
それが普通だって、頭では分かってる。
こひなが、その「泣きそう」の匂いを嗅ぎ取ったみたいに立ち上がる。
尻尾を振って、春雅の足元へ寄ろうとする。
「こひな、待て」
俺が言うと、こひなはぴたりと止まる。
止まって、舌だけ出して、ぺろっと空気を舐めた。諦めてない。
綾乃さんが小さく笑った。
「……こひなも、家族ですね」
「そうだな」
その言葉に、沙織さんが頷く。
「家の中が、急に“生き物だらけ”になった感じ」
「元からだろ」
「確かに」
笑う声は小さくて、でも温かい。
洗面所から戻ってきた恵さんが、まず綾乃さんに目礼した。
「失礼いたします」
綾乃さんは菜桜を抱いたまま、抱き方の位置だけを少し調整する。
首と背中が安定する角度。そこに、恵さんの腕が入る。
恵さんは受け取った瞬間、顔色を変えない。
でも、目の奥だけが少しだけ揺れた。
「……軽い」
言葉は短いのに、重い。
恵さんは息を整えてから、菜桜を見下ろす。
「菜桜さん。はじめまして……ではありませんわね」
沙織さんが「ふふ」と笑った。
「そうね」
恵さんは頷いて、菜桜の頬を見つめる。
触れない。見て、守る距離を保つ。
その隣で、命が静かに立つ。
抱かないまま、目だけで全部を受け取っている。
綾乃さんが命に言った。
「命も、どうしますか」
命は一瞬だけ迷ってから、丁寧に答える。
「……では。少しだけ」
恵さんが、菜桜を渡す前に小さく言う。
「命。焦らなくて大丈夫ですわ。ゆっくり」
「……はい」
命の手は静かだ。
揺れない。揺れているのは、指先のほんのわずかな力だけ。
命が菜桜を抱く。
その瞬間、菜桜がふにゃっと口を動かして、小さく声を出した。
命のまばたきが一度だけ遅れる。
表情は変わらないのに、胸の中の何かが動いたのが分かった。
「……温かいです」
ぽつりと落ちた言葉が、部屋の静けさに溶ける。
俺の腕の中で、春雅がとうとう泣いた。
短く、でも力のある声。
沙織さんが、俺の背中を軽く叩いた。
「ほら。あやして」
「……ああ」
俺は春雅の背中を一定のリズムで叩く。
泣き声が少しずつ短くなる。
この家の音が、落ち着いていく。
赤ん坊の呼吸と、紅茶の残り香と、こひなの尻尾。
それだけで、十分だった。