ゴールデンウィークの朝は、いつもより静かだった。
家の中の音が少ないんじゃない。俺の耳が、余計な音を拾わないだけだ。
最終日は外せない。
だから、旅は最終日を避けて組んだ。5/3から2泊3日。
決まった時点で、もう“行く”になっていた。
玄関の横で、母さんが鞄の口を確認している。
「忘れ物ない?」
「ない」
「充電器」
「入れた」
「チケット」
「恵が持ってる」
母さんは頷いて、それ以上言わない。
リビングの方から、小さな声がした。
菜桜が泣いている。今も夜はよく泣く。朝だって、泣く時は泣く。
綾乃さんが抱いて、背中をゆっくり撫でている。
腕の中で、菜桜の声が少しずつ短くなる。
その隣で、春雅は眠っている。毛布の中で、規則正しく息をしていた。
こひなが、俺の靴の匂いを嗅いでから、ぺろっと舐めた。
「こひな」
名前を呼ぶと、こひなは尻尾を振って、今度は鞄の持ち手に鼻を押しつける。
“置いていくな”って顔だ。
「すぐ戻る」
言うと、こひながもう一回ぺろっと舐めた。納得してない。
門を出る前に、綾乃さんが一度だけ俺を見た。
「……気をつけて。無理はしないでください」
「しない」
短く返して、俺は視線を春雅に落とす。
眠っているだけなのに、胸の奥が少しだけ重い。
母さんが、俺の背中を軽く叩いた。
「行っておいで。……今日は楽しんできなさい」
「分かった」
玄関を出る。
空気が少し冷たくて、頭が冴える。
門の外に停まっていたのは、黒塗りの8人乗りワゴンだった。
運転手が先に降りて、ドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
俺が乗り込むと、すでに恵と命が座っていた。
恵は膝の上に薄い冊子を揃えて置いている。パンフレットだ。
命は窓の外を見ていた。表情は変わらないのに、目だけが落ち着いている。
「準備はよろしいですか、ハヤトさん」
「大丈夫」
「では、参りましょう」
恵がそう言ったタイミングで、運転手が静かに運転席へ戻る。
車が門を出て、朝の道を滑るように進んだ。
信号の待ち時間だけが、妙に長い。
俺は鞄の持ち手を指で一度だけ叩いて、呼吸を整える。
ロータリーが見えてきた。
先に着いていた日和が手を振る。
その横でレンが、落ち着いた顔で立っている。
車が止まると、日和が窓の方へ寄ってきた。
「おはよ。ほんとに行くんだね」
「行く」
レンが小さく頷く。
「おはよう。……楽しもうね」
少し遅れて、結陽が走ってくる。
「先輩! 間に合ったっす!」
その後ろに、ゆきが歩く速度のままついてくる。
息も乱れていない。
「おはようございます、先輩。集合は時間通りです」
「結陽、走るな」
「すみっす!」
「略すな」
恵が全員を見回して、穏やかに言った。
「揃いましたわね。敷地内の宿も、2パークのチケットも手配済みですわ。出発いたします」
運転手がドアを閉める。
車内に、軽い緊張と小さな期待が同居した。
ゴールデンウィークが、動き出す。
結陽がシートベルトを締めた瞬間、すぐ喋り始める。
「先輩! いまからランドっす! やばいっす!」
日和が笑って、結陽の勢いをそのまま受け取る。
「そのテンション、車酔いだけは気をつけてね」
「大丈夫っす! たぶん!」
ゆきが小さく息を吐いて、けど止めはしない。
「……酔ったら言って。水あるから」
「間柴さん、優しいっす」
レンが窓の外を見ながら、小さく言う。
「結陽が元気だと、車の中が明るいね」
命は会話に混ざらない。
でも聞いてないわけでもない。目線だけが、必要なところで動く。
恵が膝の上の冊子を開く。
「まず、確認いたしますわ。今日は到着したら宿に荷物を預けて、そのままフロンティアへ入ります。夕方まで軽く回って、夜はショー。明日はフロンティアをしっかり回って、最終日はスタジオでゆるく締めますの」
恵の声は落ち着いているのに、段取りだけが速い。
言われた通りに動けば、混雑に振り回されない。そういう形だ。
結陽が即座に手を挙げる。
「初日の“軽く”ってどのくらいっすか! 軽くで終わらないっす!」
日和が笑う。
「終わらないよね、結陽は」
「終わらないっす!」
レンが小さく言う。
「でも、夜ショーが本命なら、体力は残した方がいい」
結陽が真面目に頷いた。
「それはそうっす……! 私、夜に全力出したいっす!」
ゆきが淡々と確認する。
「初日は、並ぶ時間が短いものを優先。明日の朝一で、混むライドを押さえる。そういう配分ですね」
「そうですわ」
恵がうなずく。
「初日は港町と庭園を中心に。歩いて楽しい場所にいたします。写真も撮れますし」
命が静かに言う。
「……夜の庭園は、綺麗そうです」
「綺麗だろうな」
俺が短く返すと、恵が少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
レンが窓の外を見て言う。
「もう看板見えた」
前方に、オーロラの帯が描かれた巨大なロゴが見える。
誰でも知ってる“ランド枠”の入口。実物は、写真より大きい。
結陽が窓に顔を寄せる。
「うわ……ほんとに来たっす……」
日和が笑う。
「来たね。実感、今?」
「今っす!」
車が緩やかに減速して、敷地内の道へ入った。
並木の向こうに、ホテルの建物が見える。外装がもう世界観の中にある。
恵が言う。
「宿に着きましたわ。荷物だけ預けて、すぐ入園いたします」
運転手が車を停める。
ドアが開いて、外の空気が流れ込んだ。
空気が違う。
ただの旅行先じゃない。ここは“物語の中に入る場所”だ。
俺は一度だけ息を吸って、吐く。
「行こう」
結陽が即答する。
「行くっす!」
レンが頷く。
「うん」
命が静かに言う。
「……楽しみましょう、ハヤトさん」
日和が笑って、最後に言った。
「よし、冒険開始」
そして俺たちは、敷地内ホテルの入口へ向かった。