朝は早い。
窓の外に見えるのは道路じゃない。石畳と運河、尖った屋根の連なりだ。敷地内ホテルは、パークの街の中に建っている。起きた瞬間からもう“中”だ。
廊下に出ると、壁のランタンが静かに灯っていて、階下からパンの匂いが上がってくる。ロビーはもう動いていた。キャストの衣装も、ここでは制服じゃなくて“この世界の住人”に見える。
集合場所もホテルの中だ。
吹き抜けの広場みたいなロビーに、恵が先に立っていた。手元に小さなメモ。顔は落ち着いてるのに、目がもう導線を追ってる。
「おはようございますわ、ハヤトさん。朝食は済みましたの?」
「ああ。みんなは」
「ほどなく揃いますわ」
その言い方の通り、次々に集まる。
「おはよー。今日は本気で回る日だよね?」
日和が軽く手を振る。
「おはようございます」
命が俺の横に来て、いつも通りの丁寧な声で言う。腕が自然に絡んでくる。今日もそれが当たり前だ。
「おはよう、ハヤト」
レンは眠そうにしながらも、目はちゃんと覚めてる。
「おはようございます」
ゆきは小さい声で言う。表情は落ち着いていて、視線が周りを拾っている。
「おはようっす! 先輩たち、今日も行くっすよ!」
結陽が元気に言う。誰も止めない。今日も特別枠だ。
恵が一度だけ全員を見て、言い切った。
「朝はノーザン・ヴァルハラですわ。最優先は《フロストドラゴン・アサルト》。混む前に取ります」
「了解」
俺が短く返すと、みんな動く。
この集団、動きが早い。恵の指示が明確だからだ。
☆
入園して、歩く速度が一段上がる。
通路の向こうに、氷の城が見えた。白い壁、尖った塔。朝の光で輪郭が硬い。
エリアの空気が変わる。
冷たい。湿り気が少ない。鼻の奥が少しだけ冴える。
足元の石畳も白っぽくて、霜の演出が薄く走っている。
「……雰囲気が、昨日と全然違いますね」
命が小さく言う。視線は城と、その手前の森に向いてる。
森の木々にはルーン文字が刻まれていて、淡い光が線で走っている。
「北欧の氷だ」
「はい。……綺麗です」
命は淡々と言うのに、目はちゃんと綺麗だって言ってる。
腕の絡みが少し強くなる。
「こちらですわ」
恵が迷いなく曲がる。
《フロストドラゴン・アサルト》の入口。もう列が伸び始めてる。朝イチでも容赦ない。
「間に合ったな」
「ギリっすね! 最高っす!」
結陽が嬉しそうに言う。声がでかい。許される。
並びながら、周囲の造形が見える。
ルーンが光る森の小道。巨人族の遺跡を模した石柱。欠けた斧、割れた盾。
氷の粒の演出が風で舞っている。冷たい空気の中だと本物っぽく感じる。
「この列、早いです。回転が高いですね」
ゆきが言う。観察が鋭い。
「フライングライドですもの。乗降が整っていれば流れますわ」
恵が当然みたいに返す。
☆
順番が来る。
スタッフの案内で、乗り場へ進む。
フライングのハーネス。上半身が固定される。
恵は動きが速い。手順を一度見て、迷わず従う。
「怖くないか」
「怖いわけありませんわ。……ハヤトさんが、隣にいますもの」
恵はそう言って、はっきり笑った。
俺は短く頷く。余計な言葉は要らない。
カチッ、とロック音。
視界が前へ開く。氷の森が下に見える。
発進。
風が来る。冷たい。気持ちいい。
ルーンの光が足元を流れる。森を滑空して、氷の城の外壁を掠める。
城の尖塔が近い。影が一瞬だけ落ちる。
「うわ、これ、速い!」
日和が笑い声を上げる。
「最高っす! これっす!」
結陽は叫ぶ。止めない。
次の瞬間、氷竜の巣。
巨大な爪痕。氷の結晶。息の白い霧。
影が動く。ドラゴンの輪郭が見える。演出でも迫力は十分だ。
命が俺のほうへ視線を寄せる。
怖い顔じゃない。むしろ目が光ってる。
「……すごいです」
「だろ」
そのまま一気に抜ける。
最後は森の上を滑って、減速。着地。
ハーネスが外れて、現実に戻る。
降りた瞬間、命が息を吐いた。短く笑う。
表情が崩れた。ちゃんと楽しそうだ。
「命、笑ってる」
俺が言うと、命は一瞬だけ照れて、でも隠さない。
「……はい。楽しかったです」
俺の隣に来ると、腕を組み直して、ぎゅっと絡めてくる。
恵も、珍しく口元が緩んでいた。
ちゃんと満足してる顔だ。
「……良いですわね。朝に取る価値がありましたわ」
「恵も楽しそうだな」
「ええ。楽しいですわ」
恵はそう言って、口元が、きれいに緩んだ。
☆
体が冷えた。ここで温かい飲み物を入れる。
屋台の前。湯気が立ってる。
スパイスと蜂蜜の匂いが混じって、氷の国っぽい。
「ホットスパイスミルク、7つ」
受け取ったカップを、命は両手で持つ。指先が白い。
少しだけ息を吹きかけて、飲む。目が柔らかくなる。
「……温かい」
「冷えてたからな」
「はい」
命はカップを持ったまま、俺の腕に寄る。
さっきのライドの余韻がまだ残ってる顔だ。
結陽は別の飲み物を持って、すでに元気だ。
「これ、うまいっす! 先輩も飲むっす!」
「飲んでる」
「じゃあ勝ちっす!」
意味は分からないけど、元気ならそれでいい。
ゆきは自分のカップを一口飲んで、すぐ恵を見る。
「次、予定通りならアカデミアです。移動時間、今なら短いです」
「ええ。休憩はこのくらいで十分ですわ」
恵が言い切って、俺を見る。
「ハヤトさん、命さん、大丈夫ですの?」
「大丈夫」
「はい。……行けます」
命がストレートに言う。
表情は整ってるのに、さっきより柔らかい。
命は俺の腕に絡んだまま。恵は先頭。ゆきは一歩後ろで全体を見てる。結陽は元気。レンは落ち着いてる。日和は空気を軽くしてくれる。
☆
ヴァルハラを抜けると、景色が変わる。
白い石の回廊が増えて、空が広く見える。冷たさが抜けて、風が柔らかい。
アカデミアの入口は、神殿みたいに真っ白だった。
柱が並び、天井の高いアーチが続く。床は磨かれていて、光が反射して眩しい。
「うわ、ここ好き」
日和が素直に言う。
「静かでいいね」
レンも頷く。声が落ち着く場所だ。
ゆきはすぐ周りを見る。
「《ペガサス・スカイライド》、待ち時間は短いです。今なら行けます」
「そのまま行きますわ」
恵が迷わず進む。段取りが早い。
途中で、白い小さなペガサスのマスコットが見えた。
アストロ。小さいのにやけに目立つ。子どもが集まってる。
「かわいいっす! あれ乗るっすか!? ペガサスっすよ!?」
結陽が大声で叫ぶ。誰も止めない。むしろ周りの子どもが笑う。
そして、学者帽をかぶったフクロウの像。
オルフェ。横に小さな看板が立ってる。“今日の予言”。
『本日、空は晴れ。だが、あなたの髪は乱れる。』
日和が吹き出す。
「何それ、雑!」
結陽が即座に突っ込む。
「絶対外れるっす! 髪は乱れないっす! 私、完璧っす!」
恵が上品に笑った。
「外れるから可愛いのですわ」
ゆきが静かに言う。
「でも、たまに当たるらしいです。だから余計に信用できない」
レンが小さく笑う。
「僕、そういうの好き」
命は看板を見てから、俺を見る。
いつもの丁寧な顔のまま、少しだけ口元が柔らかい。
「……乱れません。私は、整えます」
「命は乱れないな」
「はい」
短い返事。けど楽しそうだ。
☆
《ペガサス・スカイライド》の待機列へ入る。
ここは体力を削らない。シアター型。休憩にもなる。
待機列の壁には、星図が描かれている。
星座の線が薄く光って、天井に投影されて動く。
学園の“星読み”って設定がちゃんと見える。
ゆきが一枚の星図を見て言う。
「この線、ルーンに似てます。ヴァルハラのルーンと形が近い」
恵が頷く。
「パーク全体で文字の系統を揃えているのでしょうね。統一感がございますわ」
命が小さく息を吸う。
「……綺麗です」
言い切る。目が星図を追ってる。
俺は短く頷く。命がこういう場所で静かに喜ぶのが分かる。
列が進む。
案内が来る。
「次のシアターへどうぞ」
席に座る。安全バー。暗転。
風の音が入る。
視界いっぱいに空中都市。白い神殿が雲の上に浮かんでいる。
ペガサスの羽音。星の粒。
体がふわっと持ち上がるような浮遊感。
「おお……」
レンが小さく声を漏らす。
ゆきは静かに見てる。
結陽は、叫ぶ一歩手前で我慢してる。
途中、星読みの庭園を上から抜ける。
白い回廊が続いて、噴水が星の形に輝く。
命が息を吸うのが分かる。横で腕の力が少し強くなる。
最後、ペガサスが旋回して、空が開ける。
音が静かに落ちて、シアターが明るくなる。
終わった瞬間、結陽が勝った顔で言う。
「髪、乱れてないっす!」
日和が笑う。
「予言、外れたね」
ゆきが淡々と言う。
「外れた方が安心です」
恵が上品に笑って、扇子を軽く揺らした。
「では、オルフェは今日も平常運転ですわ」
☆
外に出ると、白い回廊が眩しい。
星読みの庭園が近い。写真スポットだ。
「写真、撮りますか」
命が言う。珍しく自分から。
俺は頷く。
「撮ろう」
星の噴水の前に並ぶ。
恵が位置を整える。ゆきが角度を確認する。日和が全員を入れる。結陽はピースがでかい。レンは控えめ。
シャッターが切れる。
命が画面を見て、少しだけ口元を緩めた。
「……良いです」
「良かったな」
「はい」
短い。けど満足してる。
恵が次を言う。
「昼前に軽く食べますわ。混む前に入れます。午後は刺激が強いので、先に回復です」
「了解」
俺は頷いた。
アカデミアの白い風が、朝の冷えを完全に押し流していた。