翌日の席に備えて、今日は家の空気が少し違った。
静かなまま、準備だけが増えている。花の香り、紙の匂い、足音の数。
別棟から本邸へ向かう途中、こひなが俺を見つけて尻尾を振った。
勢いで足に鼻を押しつけてくる。
「こら」
撫でると満足して離れた。
犬の機嫌は単純で助かる。
本邸に入ると、さらに音が減った。
忙しいのに、騒がない。御堂家はそういう家だ。
居間の方から、小さな声が聞こえる。
泣き声じゃない。ぐずる手前の、短い音。
襖を開けると、綾乃母さんが座っていた。
腕の中に春雅。近くに菜桜。赤ちゃんが2人いるだけで、部屋が柔らかくなる。
「ただいま」
「おかえりなさい、ハヤト君」
綾乃母さんは落ち着いた声で言った。
春雅は目を開けたまま、ぼんやりこっちを見ている。
「起きてるな」
俺が覗くと、春雅の手が小さく動いた。
握る、開く。それだけで十分可愛い。
菜桜の方は、抱っこを察したのか小さく声を出す。
綾乃母さんが軽くあやすと、すぐ落ち着いた。
命が座布団を整えながら言った。
「千鶴さんが、今日こちらへ到着するそうです」
俺は頷いた。
「じゃあ俺が玄関の方を見ておく」
「お願いします」
☆
夕方。
玄関の方が少し騒がしくなった。
ドアが開く音。キャリーケースの車輪。
それから、明るい声。
「た、ただいまです!」
千鶴さんの声だった。
俺が玄関へ出ると、千鶴さんはキャリーケースを引きながら立っていた。
姿勢を正そうとしているのに、足元が落ち着いてない。
「千鶴さん。お疲れさまです」
俺が丁寧に言うと、千鶴さんはぱっと顔を上げた。
「ハヤトさん! お久しぶりです! ……あの、帰ってきたはいいんですけど、荷物が多くて手が足りなくて……」
「持ちます」
「すみません……!」
千鶴さんは礼を言いながら、キャリーケースの取っ手を持ち替えようとして――手を滑らせた。
「……あ」
「大丈夫です」
俺が起こすと、千鶴さんは耳まで赤くなる。
「もう、本当に……恥ずかしいです……!」
「大丈夫です。中へどうぞ」
「はい……!」
千鶴さんは靴を揃える動きだけは丁寧だった。
変なところで礼儀正しい。
そこへ綾乃母さんが顔を出した。
「千鶴、おかえりなさい。来てくれてありがとう」
「お母様! お久しぶりです!」
千鶴さんはぴしっと頭を下げた。
その直後、居間から赤ちゃんの声が聞こえて、千鶴さんの目がそっちへ飛んだ。
「……えっ」
千鶴さんが一歩踏み出して、すぐ我慢して歩き直す。
走らない努力をしてるのが分かる。
☆
居間に入ると、綾乃母さんが春雅を抱いていた。
菜桜は近くで眠っている。
千鶴さんは入口で止まって、息を吸った。
次の瞬間、顔が明るくなる。
「……春雅くん」
名前を呼ぶ声が、一気に優しくなる。
電話で聞いていた名前だ。けど、実物を見ると重みが違う。
綾乃母さんが小さく頷いた。
「ええ。春雅よ」
千鶴さんは距離を保ったまま覗き込む。
「小さい……」
それから俺を見て、確かめるみたいに言った。
「……私の弟、なんですよね」
「そうです」
千鶴さんは手を出しかけて止める。
触りたいのに、怖いのが勝ってる。
「抱っこ、しますか」
綾乃母さんが言った。
「えっ、いいんですか!?」
「座って。落としたら大変です」
命が淡々と言って、座布団を千鶴さんの下に滑らせた。
千鶴さんは素直に座る。
「はい……!」
綾乃母さんが春雅を渡す。
千鶴さんは受け取った瞬間、肩が固まった。
「わ、わ……」
「力、抜いてください」
俺が丁寧に言うと、千鶴さんは必死に頷く。
「む、無理です……!」
そう言いながらも、腕の形はちゃんと守っている。
落とさない。守りたいのが先に来てる。
春雅は千鶴さんの顔を見て、まばたきをした。
それだけで千鶴さんの目が潤む。
「……見た……私のこと……」
「見てますね」
「かわいい……」
千鶴さんは言い切って、笑って、すぐ真面目な顔に戻した。
泣きそうなのが恥ずかしいらしい。
こひなが居間の入口まで来て、赤ちゃんの匂いを嗅ごうとして、命に止められた。
「こひな。だめです」
こひなは納得してない顔をする。
でも命の声がはっきりしているので、座って待つ。
千鶴さんがこひなを見て、また笑った。
春雅が小さく口を動かした。
千鶴さんが慌てて綾乃母さんを見る。
「お母様! 今、なんか言いました!」
「言ってないわ。口が動いただけ」
「でも、私には聞こえました! たぶん『おねえちゃん』って!」
「聞こえないです」
俺が言うと、千鶴さんは俺を一瞬睨んで、すぐ春雅に戻る。
「絶対言いました!」
部屋に小さな笑いが落ちる。
こういう笑いは強い。家の温度が上がる。
☆
しばらくして綾乃母さんが春雅を受け取った。
千鶴さんは手を空にしたまま、名残惜しそうに見送る。
「……明日、もっとちゃんと抱っこしたいです」
「明日もいます」
「はい!」
千鶴さんは元気に頷いて、急に思い出したみたいに俺を見る。
「明日、陽菜乃姉の席……私、変なこと言いませんよね!?」
「言わないようにしてください」
「はい……!」
言い切った直後、千鶴さんは自分の荷物にまた足を引っ掛けた。
キャリーケースが小さく動く。
「……あ」
「落ち着いてください」
「はい……」
千鶴さんは耳まで赤くして、でも笑っていた。
前日は、こうして始まった。
明日は席本番だ。
その前に、家の中がちゃんと温かくなったのが、俺は嬉しかった。