※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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230話 婚姻の席、前日

 翌日の席に備えて、今日は家の空気が少し違った。

 静かなまま、準備だけが増えている。花の香り、紙の匂い、足音の数。

 

 別棟から本邸へ向かう途中、こひなが俺を見つけて尻尾を振った。

 勢いで足に鼻を押しつけてくる。

 

「こら」

 

 撫でると満足して離れた。

 犬の機嫌は単純で助かる。

 

 本邸に入ると、さらに音が減った。

 忙しいのに、騒がない。御堂家はそういう家だ。

 

 居間の方から、小さな声が聞こえる。

 泣き声じゃない。ぐずる手前の、短い音。

 

 襖を開けると、綾乃母さんが座っていた。

 腕の中に春雅。近くに菜桜。赤ちゃんが2人いるだけで、部屋が柔らかくなる。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい、ハヤト君」

 

 綾乃母さんは落ち着いた声で言った。

 春雅は目を開けたまま、ぼんやりこっちを見ている。

 

「起きてるな」

 

 俺が覗くと、春雅の手が小さく動いた。

 握る、開く。それだけで十分可愛い。

 

 菜桜の方は、抱っこを察したのか小さく声を出す。

 綾乃母さんが軽くあやすと、すぐ落ち着いた。

 

 命が座布団を整えながら言った。

 

「千鶴さんが、今日こちらへ到着するそうです」

 

 俺は頷いた。

 

「じゃあ俺が玄関の方を見ておく」

 

「お願いします」

 

☆

 

 夕方。

 玄関の方が少し騒がしくなった。

 

 ドアが開く音。キャリーケースの車輪。

 それから、明るい声。

 

「た、ただいまです!」

 

 千鶴さんの声だった。

 

 俺が玄関へ出ると、千鶴さんはキャリーケースを引きながら立っていた。

 姿勢を正そうとしているのに、足元が落ち着いてない。

 

「千鶴さん。お疲れさまです」

 

 俺が丁寧に言うと、千鶴さんはぱっと顔を上げた。

 

「ハヤトさん! お久しぶりです! ……あの、帰ってきたはいいんですけど、荷物が多くて手が足りなくて……」

 

「持ちます」

 

「すみません……!」

 

 千鶴さんは礼を言いながら、キャリーケースの取っ手を持ち替えようとして――手を滑らせた。

 

「……あ」

 

「大丈夫です」

 

 俺が起こすと、千鶴さんは耳まで赤くなる。

 

「もう、本当に……恥ずかしいです……!」

 

「大丈夫です。中へどうぞ」

 

「はい……!」

 

 千鶴さんは靴を揃える動きだけは丁寧だった。

 変なところで礼儀正しい。

 

 そこへ綾乃母さんが顔を出した。

 

「千鶴、おかえりなさい。来てくれてありがとう」

 

「お母様! お久しぶりです!」

 

 千鶴さんはぴしっと頭を下げた。

 その直後、居間から赤ちゃんの声が聞こえて、千鶴さんの目がそっちへ飛んだ。

 

「……えっ」

 

 千鶴さんが一歩踏み出して、すぐ我慢して歩き直す。

 走らない努力をしてるのが分かる。

 

☆

 

 居間に入ると、綾乃母さんが春雅を抱いていた。

 菜桜は近くで眠っている。

 

 千鶴さんは入口で止まって、息を吸った。

 次の瞬間、顔が明るくなる。

 

「……春雅くん」

 

 名前を呼ぶ声が、一気に優しくなる。

 電話で聞いていた名前だ。けど、実物を見ると重みが違う。

 

 綾乃母さんが小さく頷いた。

 

「ええ。春雅よ」

 

 千鶴さんは距離を保ったまま覗き込む。

 

「小さい……」

 

 それから俺を見て、確かめるみたいに言った。

 

「……私の弟、なんですよね」

 

「そうです」

 

 千鶴さんは手を出しかけて止める。

 触りたいのに、怖いのが勝ってる。

 

「抱っこ、しますか」

 

 綾乃母さんが言った。

 

「えっ、いいんですか!?」

 

「座って。落としたら大変です」

 

 命が淡々と言って、座布団を千鶴さんの下に滑らせた。

 千鶴さんは素直に座る。

 

「はい……!」

 

 綾乃母さんが春雅を渡す。

 千鶴さんは受け取った瞬間、肩が固まった。

 

「わ、わ……」

 

「力、抜いてください」

 

 俺が丁寧に言うと、千鶴さんは必死に頷く。

 

「む、無理です……!」

 

 そう言いながらも、腕の形はちゃんと守っている。

 落とさない。守りたいのが先に来てる。

 

 春雅は千鶴さんの顔を見て、まばたきをした。

 それだけで千鶴さんの目が潤む。

 

「……見た……私のこと……」

 

「見てますね」

 

「かわいい……」

 

 千鶴さんは言い切って、笑って、すぐ真面目な顔に戻した。

 泣きそうなのが恥ずかしいらしい。

 

 こひなが居間の入口まで来て、赤ちゃんの匂いを嗅ごうとして、命に止められた。

 

「こひな。だめです」

 

 こひなは納得してない顔をする。

 でも命の声がはっきりしているので、座って待つ。

 

 千鶴さんがこひなを見て、また笑った。

 

 春雅が小さく口を動かした。

 千鶴さんが慌てて綾乃母さんを見る。

 

「お母様! 今、なんか言いました!」

 

「言ってないわ。口が動いただけ」

 

「でも、私には聞こえました! たぶん『おねえちゃん』って!」

 

「聞こえないです」

 

 俺が言うと、千鶴さんは俺を一瞬睨んで、すぐ春雅に戻る。

 

「絶対言いました!」

 

 部屋に小さな笑いが落ちる。

 こういう笑いは強い。家の温度が上がる。

 

☆

 

 しばらくして綾乃母さんが春雅を受け取った。

 千鶴さんは手を空にしたまま、名残惜しそうに見送る。

 

「……明日、もっとちゃんと抱っこしたいです」

 

「明日もいます」

 

「はい!」

 

 千鶴さんは元気に頷いて、急に思い出したみたいに俺を見る。

 

「明日、陽菜乃姉の席……私、変なこと言いませんよね!?」

 

「言わないようにしてください」

 

「はい……!」

 

 言い切った直後、千鶴さんは自分の荷物にまた足を引っ掛けた。

 キャリーケースが小さく動く。

 

「……あ」

 

「落ち着いてください」

 

「はい……」

 

 千鶴さんは耳まで赤くして、でも笑っていた。

 

 前日は、こうして始まった。

 明日は席本番だ。

 その前に、家の中がちゃんと温かくなったのが、俺は嬉しかった。

 

 

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