※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

232 / 238
231話 陽菜乃の婚姻の席

 本邸の玄関を上がった瞬間、空気が変わった。

 今日は家の中が静かに張っている。

 

 俺はチャコールのスーツの袖を整えてから、本邸へ向かった。

 

 玄関を上がったところで、先に来ていた千鶴さんがこちらに気づいた。

 姿勢は綺麗なのに、落ち着かないのが分かる。

 

「ハヤトさん……!」

 

「おはようございます」

 

「私、変なこと言いませんよね」

 

「言わないでください」

 

「はい……!」

 

 千鶴さんは頷きすぎて、首が少し揺れた。緊張している。

 

 そこへ、扉の向こうから軽い足音がした。

 騒がしくないのに、空気が一段変わる。

 

「おはようございます。遅くなりました」

 

 入ってきた女性が、綾乃母さんとよく似た輪郭をしていた。

 笑顔が上品で、目がよく動く。場を一瞬で読む目だ。

 

 綾乃母さんが迎える。

 

「智代。来てくれてありがとう」

 

「姉さん。今日は外せないもの」

 

 智代さんはそう言って、視線をこちらに向けた。

 まず命、次に俺、最後に千鶴さん。順番が正確だ。

 

「初めまして。綾乃の妹の智代です。前は海外で来られなかったので、今日は必ず来ようと思いました」

 

 言い切って、智代さんは命の前で足を止める。

 

「命。会えて嬉しい」

 

 命が一歩前に出た。声は落ち着いている。

 

「智代叔母さん。お久しぶりです。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 

 智代さんの口元がきれいに緩む。

 

「ええ。前は海外で抜けてしまったからね。今日はどうしても顔を見たかったの」

 

 次に智代さんが俺を見る。

 

「あなたがハヤト君ね」

 

 距離が近い。馴れ馴れしいんじゃない。社交の近さだ。

 

「はい。本日はよろしくお願いいたします」

 

 俺が頭を下げると、智代さんは上品に笑った。

 

「礼儀は十分。――で」

 

 智代さんはさらっと言う。

 

「姉さんから話を聞いているわ、御堂家の女を4人も相手にしているのよね。体は大丈夫?」

 

 冗談みたいな口調。

 でも目は真剣だ。

 

 千鶴さんが息を吸って止めた。

 命は表情を変えない。

 恵がいないのに、恵が扇子で笑ってる絵が浮かぶ。

 

 俺は逃げずに言う。

 

「大丈夫です」

「そう、よかった」

 

 智代さんは満足そうに頷いた。

 

☆

 

 客間へ通される。

 花、器、座る位置。全部が決まっている。

 今日は“席”だ。

 

 少しして、陽菜乃が入ってきた。

 淡い色の訪問着。帯は控えめで、品がある。裾が静かに揺れる。

 背筋が伸びて、顔が揺れていない。けど指先だけが少し強い。

 

 俺は陽菜乃の前で止まって、短く聞いた。

 

「大丈夫か」

 

 陽菜乃は一拍置いて、まっすぐ俺を見る。

 

「大丈夫でございます」

 

 言い切る声に迷いはない。

 

「……あなたも、乱さないでくださいませ」

 

「乱さない」

 

 陽菜乃の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 

 智代さんが座ったまま、静かに言う。

 

「始まるわね」

 

 命は一歩引いた位置で、落ち着いている。

 俺は姿勢を正した。

 

 婚約の席が、静かに始まった。

 

☆

 

 最初に口を開いたのは、陽菜乃だった。

 淡い色の訪問着の袖が、わずかに揺れる。背筋は伸びている。視線も揺れていない。

 

「本日は、お時間を頂戴し、ありがとうございます」

 

 声が丁寧で、古風で、よく通る。

 場がさらに静かになる。

 

 陽菜乃は一度だけ呼吸を整え、俺を見る。

 まっすぐ。逃げない。

 

「ハヤトさん」

 

 呼び方はいつも通りだ。

 けれど、今日は一言が重い。

 

「わたくしは、ハヤトさんをお慕いしております」

 

 言い切る。

 飾らない。逃げない。

 指先だけが少し強く握られている。緊張を隠している。

 

「この先も、あなたの隣に立ちたいと思っております。……結婚を前提に、お付き合いをお願いいたします」

 

 千鶴さんが息を吸って、止めた。

 嬉しさと緊張が混じった顔で、陽菜乃を見ている。

 

 綾乃母さんは落ち着いたまま、目だけを陽菜乃に向けている。

 智代さんは上品に笑っている。けど目は鋭い。言葉を一つも逃さない。

 

 俺は陽菜乃の目を見て、短く言った。

 

「分かった」

 

 それだけで終わらせない。

 ちゃんと返す。

 

「俺も、陽菜乃のことが好きだ」

 

 陽菜乃のまばたきが一度だけ遅れる。

 表情は整えているのに、頬だけが少し熱を持つ。

 

「俺は逃げない。陽菜乃の隣に立つ」

 

 俺が言い切ると、陽菜乃は小さく息を吐いた。

 それでも姿勢は崩さない。

 

「……ありがとうございます」

 

 声が少しだけ柔らかくなる。

 けれど、まだ終わりじゃない。陽菜乃は次を準備している。

 

 陽菜乃は膝の前に置いていた小箱を、両手で持ち上げた。

 箱は小さい。けれど場の空気がさらに張る。

 

 智代さんの声が落ちた。

 

「“契り”ね」

 

 陽菜乃は頷く。

 

「はい。御堂家の婚姻具、『契り』でございます」

 

 箱が開く。

 中に、対になったペンダントが収まっている。片方だけでは完成しない形。

 光は派手じゃない。品がある。

 

 陽菜乃はその片方を取って、手の中に置く。

 一度だけ目を伏せて、また俺を見る。

 

「あなたに、お渡しいたします」

 

 陽菜乃は立ち上がった。

 畳の上での動きが丁寧だ。裾の音がしない。

 目の前まで来て、ペンダントを差し出す。

 

「……受け取ってくださいませ」

 

 俺は手を伸ばして受け取った。

 

 陽菜乃が言う。声は揺れない。

 

「これを渡すということは、わたくしの覚悟です」

 

 千鶴さんが唇を噛んで、頷いた。

 言葉にしないのに、応援しているのが分かる。

 

 俺はペンダントを握って、陽菜乃を見る。

 

「受け取った。俺も同じだ」

 

 陽菜乃は、自分の分の「契り」を胸元にそっと当てた。

 それから俺の手の中のペンダントを見る。視線が揺れない。

 

「……ありがとうございます」

 

「大事にする」

 

「はい。わたくしもです」

 

 綾乃母さんが穏やかに言った。

 

「これで、形になったわね」

 

 智代さんが上品に笑って言う。

 

「形だけじゃない。言葉も揃った。良い席だわ」

 

 俺は陽菜乃を見て、最後に言う。

 

「これからも、ちゃんと向き合う」

 

 陽菜乃は小さく頷いた。

 

「はい。わたくしも、逃げません」

 

 婚約の席は、静かに進んでいく。

 けれど、ここで一番大事なところは、もう終わった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。