本邸の玄関を上がった瞬間、空気が変わった。
今日は家の中が静かに張っている。
俺はチャコールのスーツの袖を整えてから、本邸へ向かった。
玄関を上がったところで、先に来ていた千鶴さんがこちらに気づいた。
姿勢は綺麗なのに、落ち着かないのが分かる。
「ハヤトさん……!」
「おはようございます」
「私、変なこと言いませんよね」
「言わないでください」
「はい……!」
千鶴さんは頷きすぎて、首が少し揺れた。緊張している。
そこへ、扉の向こうから軽い足音がした。
騒がしくないのに、空気が一段変わる。
「おはようございます。遅くなりました」
入ってきた女性が、綾乃母さんとよく似た輪郭をしていた。
笑顔が上品で、目がよく動く。場を一瞬で読む目だ。
綾乃母さんが迎える。
「智代。来てくれてありがとう」
「姉さん。今日は外せないもの」
智代さんはそう言って、視線をこちらに向けた。
まず命、次に俺、最後に千鶴さん。順番が正確だ。
「初めまして。綾乃の妹の智代です。前は海外で来られなかったので、今日は必ず来ようと思いました」
言い切って、智代さんは命の前で足を止める。
「命。会えて嬉しい」
命が一歩前に出た。声は落ち着いている。
「智代叔母さん。お久しぶりです。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
智代さんの口元がきれいに緩む。
「ええ。前は海外で抜けてしまったからね。今日はどうしても顔を見たかったの」
次に智代さんが俺を見る。
「あなたがハヤト君ね」
距離が近い。馴れ馴れしいんじゃない。社交の近さだ。
「はい。本日はよろしくお願いいたします」
俺が頭を下げると、智代さんは上品に笑った。
「礼儀は十分。――で」
智代さんはさらっと言う。
「姉さんから話を聞いているわ、御堂家の女を4人も相手にしているのよね。体は大丈夫?」
冗談みたいな口調。
でも目は真剣だ。
千鶴さんが息を吸って止めた。
命は表情を変えない。
恵がいないのに、恵が扇子で笑ってる絵が浮かぶ。
俺は逃げずに言う。
「大丈夫です」
「そう、よかった」
智代さんは満足そうに頷いた。
☆
客間へ通される。
花、器、座る位置。全部が決まっている。
今日は“席”だ。
少しして、陽菜乃が入ってきた。
淡い色の訪問着。帯は控えめで、品がある。裾が静かに揺れる。
背筋が伸びて、顔が揺れていない。けど指先だけが少し強い。
俺は陽菜乃の前で止まって、短く聞いた。
「大丈夫か」
陽菜乃は一拍置いて、まっすぐ俺を見る。
「大丈夫でございます」
言い切る声に迷いはない。
「……あなたも、乱さないでくださいませ」
「乱さない」
陽菜乃の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
智代さんが座ったまま、静かに言う。
「始まるわね」
命は一歩引いた位置で、落ち着いている。
俺は姿勢を正した。
婚約の席が、静かに始まった。
☆
最初に口を開いたのは、陽菜乃だった。
淡い色の訪問着の袖が、わずかに揺れる。背筋は伸びている。視線も揺れていない。
「本日は、お時間を頂戴し、ありがとうございます」
声が丁寧で、古風で、よく通る。
場がさらに静かになる。
陽菜乃は一度だけ呼吸を整え、俺を見る。
まっすぐ。逃げない。
「ハヤトさん」
呼び方はいつも通りだ。
けれど、今日は一言が重い。
「わたくしは、ハヤトさんをお慕いしております」
言い切る。
飾らない。逃げない。
指先だけが少し強く握られている。緊張を隠している。
「この先も、あなたの隣に立ちたいと思っております。……結婚を前提に、お付き合いをお願いいたします」
千鶴さんが息を吸って、止めた。
嬉しさと緊張が混じった顔で、陽菜乃を見ている。
綾乃母さんは落ち着いたまま、目だけを陽菜乃に向けている。
智代さんは上品に笑っている。けど目は鋭い。言葉を一つも逃さない。
俺は陽菜乃の目を見て、短く言った。
「分かった」
それだけで終わらせない。
ちゃんと返す。
「俺も、陽菜乃のことが好きだ」
陽菜乃のまばたきが一度だけ遅れる。
表情は整えているのに、頬だけが少し熱を持つ。
「俺は逃げない。陽菜乃の隣に立つ」
俺が言い切ると、陽菜乃は小さく息を吐いた。
それでも姿勢は崩さない。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ柔らかくなる。
けれど、まだ終わりじゃない。陽菜乃は次を準備している。
陽菜乃は膝の前に置いていた小箱を、両手で持ち上げた。
箱は小さい。けれど場の空気がさらに張る。
智代さんの声が落ちた。
「“契り”ね」
陽菜乃は頷く。
「はい。御堂家の婚姻具、『契り』でございます」
箱が開く。
中に、対になったペンダントが収まっている。片方だけでは完成しない形。
光は派手じゃない。品がある。
陽菜乃はその片方を取って、手の中に置く。
一度だけ目を伏せて、また俺を見る。
「あなたに、お渡しいたします」
陽菜乃は立ち上がった。
畳の上での動きが丁寧だ。裾の音がしない。
目の前まで来て、ペンダントを差し出す。
「……受け取ってくださいませ」
俺は手を伸ばして受け取った。
陽菜乃が言う。声は揺れない。
「これを渡すということは、わたくしの覚悟です」
千鶴さんが唇を噛んで、頷いた。
言葉にしないのに、応援しているのが分かる。
俺はペンダントを握って、陽菜乃を見る。
「受け取った。俺も同じだ」
陽菜乃は、自分の分の「契り」を胸元にそっと当てた。
それから俺の手の中のペンダントを見る。視線が揺れない。
「……ありがとうございます」
「大事にする」
「はい。わたくしもです」
綾乃母さんが穏やかに言った。
「これで、形になったわね」
智代さんが上品に笑って言う。
「形だけじゃない。言葉も揃った。良い席だわ」
俺は陽菜乃を見て、最後に言う。
「これからも、ちゃんと向き合う」
陽菜乃は小さく頷いた。
「はい。わたくしも、逃げません」
婚約の席は、静かに進んでいく。
けれど、ここで一番大事なところは、もう終わった。