婚約の席が一区切りつくと、空気が少しだけ緩んだ。
部屋を移して、宴席になる。
畳じゃなく、整えられた広間。卓が並び、器が揃い、花が置かれている。
陽菜乃は席の中央に座っていた。
淡い訪問着の裾を乱さず、背筋を伸ばしている。表情も崩れない。
でもさっきより呼吸が落ち着いているのが分かる。
千鶴さんが隣へ寄って、声を落とした。
「……陽菜乃姉」
「千鶴。ありがとう」
陽菜乃の声は丁寧だ。
けれど姉妹の言葉になっていて、少しだけ柔らかい。
俺は席の端で、杯を受け取った。
こういう場は慣れてない。でもやることは決まってる。
挨拶する。礼をする。余計なことは言わない。
智代さんが俺の近くへ来た。
上品に笑っているのに、目がよく動く。周りも、俺も、全部見ている。
「ハヤト君」
「はい」
智代さんは上品に笑って、短く言った。
「宴は長いわ。肩の力を抜きなさい。陽菜乃の隣にいることだけ忘れなければいい」
「はい」
短く返すと、智代さんは満足そうに頷いた。
☆
料理が運ばれてくる。
派手じゃない。上品で、量も丁度いい。
香りだけが強くて、場の緊張を少しずつ解いていく。
命は一歩引いた位置に座っている。
今日は腕を組まない。前に出ない。
けれど目は外さない。陽菜乃を、場を、ちゃんと見ている。
恵が命の隣に座り、扇子を閉じたまま言った。
「命さん、疲れていませんか」
「大丈夫です」
「なら結構。……今日は、あなたもよく整えていました」
恵の声は上品で、でも優しい。
命は一拍置いて頷いた。
「ありがとうございます。恵さんも」
言葉が短いのに、ちゃんと伝わる。
結陽はもちろんこの席にはいない。学校の子だ。
ここは御堂家の席で、場の人間の種類が違う。
千鶴さんは料理に手をつけながらも、陽菜乃を気にしている。
見過ぎない。けど外さない。姉妹の距離だ。
☆
乾杯のタイミングが来る。
綾乃母さんが立ち上がった。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。陽菜乃の婚約の席として、皆さまに見届けていただけたことを嬉しく思います」
言葉は丁寧で、落ち着いている。
この人がいると場が整う。
「乾杯」
杯が上がる。
音が小さく重なって、宴が始まった。
陽菜乃が俺を見る。
俺は小さく頷く。
陽菜乃はそれだけで十分みたいに、視線を戻した。
今日の陽菜乃は強い。
☆
宴が進むにつれて、会話が増える。
親族の言葉は丁寧で、探るようで、でも悪意はない。
俺は聞かれたことにだけ答えて、余計なことは言わない。
「学校はどう?」
「問題ありません」
「部活は」
「続けています」
短く答えると、相手も頷く。
智代さんが、また俺の横に来た。
「ハヤト君。さっきの『契り』、軽く見ないでね」
「軽く見ません」
「ならいい」
智代さんは笑って、それ以上言わなかった。
☆
宴の終わりが見える頃、陽菜乃が少しだけ席を外した。
控室へ向かうためだ。
その時、命が静かに立った。
陽菜乃を追うんじゃない。
俺の横に来て、短く言う。
「……お疲れさまです」
「おう」
命は頷いて、また一歩引いた位置に戻る。
それだけなのに、支えになる。
宴は静かに終わっていく。
今日の席は成功だった。
この家の中に、また一つ“形”が増えた。
最後の挨拶が済むと、客は少しずつ引いていった。
玄関へ向かう足音が重ならないように、家の人間が間を作る。ここでも慌てない。
俺は杯を置いて、息を整える。
終わった、じゃない。終わったのは“席”だけだ。
ここからは、家の中の時間になる。
千鶴さんが陽菜乃の控室の前で止まって、扉を見ていた。
手を伸ばしそうで伸ばさない。
俺が近くを通ると、千鶴さんが小さく言う。
「ハヤトさん」
「はい」
「陽菜乃姉……大丈夫ですよね」
「大丈夫です。陽菜乃は強いです」
俺がそう言うと、千鶴さんは頷いた。
「はい。……私も、そう思います」
言い切って、千鶴さんはようやく扉から視線を外した。
☆
廊下の曲がり角で、智代さんに呼び止められた。
「ハヤト君」
「はい」
智代さんは上品に笑って、でも言葉はまっすぐだった。
「今日みたいに、必要なことだけ言えばいい。余計な飾りは要らない」
「分かりました」
俺が答えると、智代さんは満足そうに頷いた。
「よろしい。……倒れる前に休みなさい」
「承知しました」
短く返すと、智代さんは笑った。上品に。
「素直で良いわ」
智代さんはそのまま本邸の奥へ消えていった。
場を締めるだけ締めて、余計に残らない。そういう人だ。
☆
控室の前。
俺は扉の前で、呼吸を整えてからノックした。
「陽菜乃」
返事はすぐだった。
「どうぞ」
扉を開けると、陽菜乃がいた。
訪問着のまま座っている。姿勢は崩していない。
でも肩が少しだけ落ちている。張っていたものが解けた証拠だ。
「……お疲れさまでございます」
陽菜乃が丁寧に言う。
「陽菜乃も。大丈夫か」
「大丈夫でございます」
即答。
でも指先が帯の端を一度だけ強く握って、すぐ離した。
緊張していたのは事実だ。今も余韻が残っている。
俺は扉を閉めて、陽菜乃の前まで歩く。
距離を詰めるのはここだけだ。席の外だ。二人きりだ。
「よくやった」
俺が言うと、陽菜乃のまばたきが一度だけ遅れる。
それでも姿勢は崩さない。
「……高ぶりました」
陽菜乃が、はっきり言う。
表情は整っているのに、声の端だけが熱い。
「嬉しかったです。……珍しく、自分でも抑えにくいほどに」
「でも崩れなかった」
「はい。崩しませんでした」
陽菜乃は言い切って、少しだけ息を吐いた。
それから、視線を上げる。
「『契り』を渡した瞬間……胸の奥が、静かになりました」
「俺もだ」
短く返すと、陽菜乃の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
「あなた」
「ん」
「今日の言葉、忘れないでくださいませ」
「忘れない」
俺が即答すると、陽菜乃は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
声が、さっきより柔らかい。
俺は言うべきことを言う。
「明日からも普通にする。無理はさせない。ちゃんと休め」
「はい」
陽菜乃は頷いて、少しだけ目を伏せた。
そして顔を上げる。逃げない。
「……今だけ、少しだけ」
言い切る前に、言い訳しない。
俺は近づいて、陽菜乃の額に軽く触れる程度に距離を詰めた。
「分かった」
短く、確かなキスを落とす。
すぐ離れる。長くはしない。
席の後の確認として、十分だ。
陽菜乃は息を整えて、はっきり言った。
「……はい」
俺は扉の方を見て、最後に言う。
「千鶴さん、心配してる。顔だけ見せてやれ」
「はい。すぐ参ります」
陽菜乃が立ち上がる。
裾を整える動きが丁寧だ。もう大丈夫だ。
俺は扉を開ける前に、一言だけ落とした。
「お疲れ」
「お疲れさまでございます」
その返事で、十分だった。