朝。
廊下は静かだった。昨日の席が嘘みたいに、家が普段の顔に戻っている。
それでも、空気の底に余韻が残っている。
畳の匂いがいつもより落ち着いて感じる。
俺はネクタイじゃなく、制服の襟を整えた。
居間に行くと、命が先にいた。
今日は腕を組んでこない。学校へ行く朝は、いつも通りの距離だ。
「おはようございます」
命が丁寧に言う。
「おはよう」
俺が返すと、命は頷いた。
「昨日……お疲れさまでした」
「命も」
「はい」
そこへ恵が入ってきた。
髪も服も整っている。いつも通り。
でも目だけが少し柔らかい。昨日の夜が残ってる。
「おはようございますわ。寝不足ではありませんわね」
「大丈夫」
俺が答えると、恵は満足そうに頷く。
「結構ですわ。今日は学校。崩しません」
恵が上品に笑って言った。
玄関で靴を履く。
外に出ると、空気が冷たくて、頭が冴える。
昨日の緊張がやっと抜けた。
☆
登校の道。
いつもの景色。いつもの音。
でも、俺の中だけが少し違う。
命が隣を歩く。
「……学校に戻りますね」
「戻る」
「はい」
命はそれだけ言って、前を見た。
校門が見えて、人が増える。
噂の速度が上がる場所だ。
俺は短く決めておく。今日は余計なことは言わない。
昼休み。
茶会部の部室に入ると、空気が一気に緩んだ。
「おかえりー!」
日和が先に叫ぶ。
「ただいま」
「休み、短かったね」
日和はそう言って笑った。
軽い言い方なのに、こっちの疲れも分かってる声だ。
ゆきが机の上にメモ帳を置いて言う。
「連休明けは、体調が落ちやすいです。無理しないでください」
「まず自分の心配しろ」
俺が言うと、ゆきは淡々と頷いた。
「はい。僕も無理しません」
レンが袋を抱えたまま言う。
「でも、ちょっと楽しかった分、戻るのが早いね」
「分かる」
日和が頷く。
結陽が勢いよく入ってきた。女の子の勢いで、扉が軽く鳴る。
「先輩たち! もう普通に授業っすよ! 早すぎっす!」
「声でかい」
「元気っす!」
止まらない。
恵が上品に言った。
「休みは短い方が、日常に戻りやすいですわ」
命は椅子に座ってから、静かに言った。
「……今日は、眠いです」
「珍しい」
日和が笑う。
「昨日、遅かった?」
「……少し」
命はそれ以上言わない。
言わないまま、ちゃんと頑張って座ってる。
俺は鞄を置いて言った。
「茶、淹れる」
「それがいい」
日和が即答する。
ゆきが立ち上がって、手際よく湯を用意する。
恵が茶葉を選ぶ。
命が湯呑みを並べる。
結陽は何もしない代わりに、ずっと喋ってる。
「今日、授業長く感じるっすよね! 絶対長いっす!」
「気のせいだろ」
「絶対長いっす!」
日和が笑って、結陽の肩を軽く叩いた。
「はいはい。とりあえず飲んで落ち着こ」
恵が茶葉の缶を軽く振って、蓋を開ける。
香りが立っただけで、部室の空気が一段落ち着いた。
「今日はこれですわ」
「いつものやつ?」
日和が聞く。
「いつものですわ」
恵が言い切ると、ゆきが湯を注ぐ。
手際がいい。無駄がない。
命がティーカップを並べて、俺の前にも置く。
「ありがとう」
「はい」
短い返事。けど目は柔らかい。
結陽が湯気を覗き込んで言う。
「これ飲んだら目覚めるっすか?」
「目は覚める。元気も戻る」
「やったっす!」
日和が笑う。
「単純だね」
「単純が最強っす!」
レンが一口飲んで、息を吐いた。
「落ち着く」
「落ち着くな」
俺が言うと、レンは小さく笑った。
恵はティーカップを持ったまま、全員を見た。
「では、今週の確認ですわ。休みが終わったので、戻します」
「段取り」
日和が笑う。
「段取りですわ」
恵は上品に頷いた。
「まず部の記録。次にテスト。次に――」
「待って。テスト、あるの?」
日和が顔をしかめる。
レンが小さく頷いた。
「あるよ。英語と理科。週末まで」
「うわ」
日和が小さく呻く。
結陽が手を挙げる。
「それ、1年もあるっすか?」
ゆきが結陽を見る。淡々と答える。
「あります。1年もあります。内容は学年で違います」
「あるんすね……」
結陽が一瞬だけ真顔になる。すぐ胸を張った。
「余裕っす! 私、気合でいけるっす!」
「気合だけでいくな」
俺が言うと、結陽は即答する。
「気合とノリっす!」
「絶対足りない」
「ひどいっす!」
命が湯呑みを置いて言った。
「……帰ったら、やります」
「命、えらい」
日和が言うと、命は頷くだけだった。
恵が扇子を軽く揺らす。
「結陽さんは、今日の放課後に少しやっておきましょう。先に済ませれば安心ですわ」
「やるっす!」
結陽は素直だ。勢いだけで返事するけど、やる時はやる。
レンが袋を指で押さえた。
「僕、今日は早めに宿題やる」
「偉い」
日和が頷く。
俺は湯呑みを一口飲んで、言った。
「じゃあ今日、放課後は軽く勉強会にするか。部室で」
日和が目を見開く。
「え、ハヤトが言うの珍しい」
「戻さないとだるい」
「確かに」
日和が笑って頷いた。
ゆきがすぐまとめる。
「時間は30分で十分です。やる範囲を決めましょう」
「そうだな」
俺が言うと、恵が満足そうに口元を緩めた。
「よろしいですわ」
命が俺の腕に少しだけ力を入れる。
何も言わない。けど同意だ。
窓の外で、昼休み終了の気配が近づく。
部室の空気が落ち着いたところで、日常がまた動き出す。
「行くぞ」
俺が言うと、結陽が元気に立ち上がった。
「午後、がんばるっす!」
「声、下げろ」
「下げるっす!」
下がってない。
日和が笑って、ドアを開けた。
「はいはい。午後ねー」
俺たちは教室へ戻った。