※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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234話 抱っこの時間

 夕方の家は静かだった。

 学校の音が抜けて、残るのは小さな気配だけだ。

 

 本邸の居間に入ると、綾乃母さんが座っていた。

 腕の中に春雅。近くに菜桜。

 赤ちゃんが2人いるだけで、部屋が柔らかくなる。

 

 澄乃さんもいた。

 姿勢は軽いのに、目がよく動く。笑顔は上品で、声は落ち着いている。

 

「おかえり、坊や」

 

「ただいま戻りました」

 

 俺が言うと、澄乃さんは満足そうに頷いた。

 

「いい子。今日も来たね」

 

 綾乃母さんが言う。

 

「ハヤト君、菜桜がね。さっきから落ち着かないの。あなたの気配がすると変わるのよ」

 

 菜桜が小さく声を出す。

 泣き声じゃない。呼ぶみたいな音だ。

 

 俺は座布団に座って、手を伸ばした。

 菜桜の指が俺の指を掴む。弱いのに、離さない。

 

「強いな」

 

 澄乃さんが上品に笑う。

 

「可愛いでしょう。坊やのこと、分かってる顔だよ」

 

 綾乃母さんが少しだけ体を寄せて言った。

 

「抱っこ、してみる? 嫌がらないと思う」

 

「します」

 

 俺が言うと、綾乃母さんと澄乃さんの表情が変わった。

 嬉しそうに、はっきりと。

 

 この家でも、男が赤ちゃんを抱くのは珍しい。

 だからこそ、2人の目が温かくなる。

 

「まあ」

 

 澄乃さんが声を落として笑った。

 

「坊やが抱くの、私は好き」

 

「ハヤト君、ゆっくりね」

 

 綾乃母さんが菜桜を渡してくる。

 小さい体。軽いのに、怖いほど大事だ。

 

 俺は腕を作って受け取った。

 菜桜は一瞬きょとんとして――次の瞬間、顔が明るくなる。

 

 声が出た。

 嬉しい時のやつだ。

 

「……喜んでる」

 

 俺が言うと、綾乃母さんが口元を柔らかくした。

 

「そう。ハヤト君に抱かれるとね、嬉しそうにするの」

 

 菜桜は俺の胸元に頬を寄せて、手で服を掴む。

 小さく足を動かして、落ち着く場所を探して、見つけたら止まった。

 

 澄乃さんが、少しだけ身を乗り出す。

 

「ほら。顔が違う。安心してる」

 

「……可愛い」

 

 俺が言うと、澄乃さんは上品に笑った。

 

「可愛いって言えるのが、もう偉いよ」

 

 綾乃母さんも頷く。

 

「うん。嬉しい」

 

 喜んでいるのを隠さない。

 綾乃母さんも澄乃さんも、今日の俺をちゃんと喜んでいる。

 

☆

 

 春雅が小さく動いた。

 綾乃母さんの腕の中で、手がふわっと開く。

 

「春雅も起きた」

 

 綾乃母さんが言う。

 澄乃さんが俺を見る。

 

「坊や、次は春雅もやる?」

 

「やります」

 

 俺が言い切ると、澄乃さんは満足そうに頷いた。

 

「うん。いい子」

 

 綾乃母さんが春雅を渡す準備をする。

 俺は菜桜をそっと綾乃母さんに戻した。菜桜は名残惜しそうに小さく声を出す。

 

「すぐ戻すわ。大丈夫」

 

 綾乃母さんがそう言って、菜桜を落ち着かせる。

 

 春雅が俺の腕に渡される。

 菜桜より少しだけ重い。

 でも同じくらい小さい。

 

 春雅は目を開けたまま、ぼんやり俺を見る。

 それから、指を一度だけ動かした。

 

 俺は指を出す。

 春雅が握る。弱いのに、確かに掴んでくる。

 

「……握った」

 

 澄乃さんが上品に笑った。

 

「ね。坊や、自然に出来てる」

 

 綾乃母さんも、目を細める。

 

「ありがとう。ハヤト君」

 

 言われて、胸の奥が静かに熱くなる。

 俺は短く頷いた。

 

「当然です」

 

 澄乃さんが声を落として言う。

 

「その当然が嬉しいのよ」

 

 こひなが居間の入口で待っていた。

 尻尾だけが揺れている。近づきたいけど、許可を待ってる。

 

「こひな」

 

 俺が呼ぶと、こひなが一歩だけ入ってくる。

 匂いを嗅ごうとして止まる。

 澄乃さんが指を立てた。

 

「そこまで。見守り」

 

 こひなは不満そうに鼻を鳴らして、でも座った。偉い。

 

 命が台所の方から来て、湯呑みを置いた。

 いつもの手つき。余計な音を立てない。

 

「お茶です」

 

「ありがとう」

 

 命は頷いて、菜桜の横に座った。

 それから綾乃母さんを見て、短く言う。

 

「抱っこします」

 

「お願い」

 

 綾乃母さんが菜桜を命に渡す。

 命は受け取った瞬間、動きが丁寧になる。慎重なのに迷いはない。

 

 菜桜は命の胸元に収まって、すぐ落ち着いた。

 命が小さく息を吐く。

 

「……落ち着きました」

 

 綾乃母さんが言う。

 

「命も上手ね」

 

「……慣れました」

 

 命が淡々と返すと、澄乃さんが上品に笑った。

 

「みんな、ちゃんと家だね」

 

 湯気が上がる。

 赤ちゃんの小さな声が混じる。

 こひなの尻尾が床を軽く叩く。

 

 春雅が俺の腕の中で、ふっと口を開いた。

 泣く前の顔。息を吸う気配。

 

 俺は焦らず、腕を少しだけ揺らした。

 大きくは動かさない。一定に。落ち着く揺れ。

 

 春雅の眉の力が抜けて、口が閉じる。

 泣かない。

 

 綾乃母さんが目を丸くした。

 

「ハヤト君……上手い」

 

「たまたまです」

 

「たまたまじゃないわ」

 

 澄乃さんが上品に笑った。

 

「坊や、こういうのは“慣れ”じゃない。向いてるの」

 

 俺は何も言わずに、春雅の背中を軽く支える。

 小さな体の温度が手に残る。

 

 菜桜の方が、綾乃母さんの腕の中でむずむずし始めた。

 口が尖って、声が出そうになる。

 

「菜桜も来るわね」

 

 綾乃母さんが言う。

 

 澄乃さんが俺を見る。

 目が笑っている。けど、押しつけない。

 

「坊や。菜桜も抱く?」

 

「抱きます」

 

 俺が言うと、綾乃母さんが嬉しそうに息を吐いた。

 

「じゃあ、春雅を一度こちらに」

 

「はい」

 

 俺は春雅を綾乃母さんに戻した。

 綾乃母さんの腕に戻った瞬間、春雅は安心したみたいに目を細めた。

 

 代わりに菜桜が俺の腕に渡される。

 菜桜は受け取った瞬間、声を止めた。

 顔が変わる。目が丸くなる。

 

 そして、小さく笑ったみたいに口元が動く。

 嬉しい時の顔だ。

 

「……やっぱり」

 

 綾乃母さんが小さく言う。

 

「ね。分かるんだね」

 

 澄乃さんも、柔らかい声で言った。

 

 菜桜が俺の服をぎゅっと掴んで、頬を寄せる。

 落ち着く場所を見つけたら、動きが止まる。

 

 俺はそのまま、菜桜の背中に手を置いた。

 小さく、一定に。温度を伝えるだけ。

 

 命が菜桜の足元を見て、淡々と言った。

 

「落ち着きました」

 

「落ち着いたな」

 

 俺が言うと、命は頷いた。

 

「はい」

 

 澄乃さんが湯呑みを持って、俺の手元を見た。

 

「坊や。抱っこしながらでも、飲める?」

 

「飲めます」

 

 俺は湯呑みを受け取って、一口だけ飲んだ。

 熱が喉を通って、体が落ち着く。

 

 綾乃母さんがぽつりと言う。

 

「こういう時間、嬉しいです」

 

 言い切ったあと、綾乃母さんは少しだけ目を伏せた。

 

 澄乃さんが上品に笑う。

 

「綾乃。素直でいいわね」

 

「……嬉しいものは嬉しいのです」

 

 綾乃母さんがそう言って、春雅をあやす。

 春雅は小さく手を動かして、また落ち着く。

 

 こひながじっと見ている。

 吠えない。近づかない。

 尻尾だけが、床を軽く叩いている。

 

 家の中が、ゆっくり温まっていく。

 今日の疲れが、音もなくほどけていく。

 

 俺は菜桜の重みを受け止めながら、短く思った。

 こういう時間は、守る価値がある。

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