夕方の家は静かだった。
学校の音が抜けて、残るのは小さな気配だけだ。
本邸の居間に入ると、綾乃母さんが座っていた。
腕の中に春雅。近くに菜桜。
赤ちゃんが2人いるだけで、部屋が柔らかくなる。
澄乃さんもいた。
姿勢は軽いのに、目がよく動く。笑顔は上品で、声は落ち着いている。
「おかえり、坊や」
「ただいま戻りました」
俺が言うと、澄乃さんは満足そうに頷いた。
「いい子。今日も来たね」
綾乃母さんが言う。
「ハヤト君、菜桜がね。さっきから落ち着かないの。あなたの気配がすると変わるのよ」
菜桜が小さく声を出す。
泣き声じゃない。呼ぶみたいな音だ。
俺は座布団に座って、手を伸ばした。
菜桜の指が俺の指を掴む。弱いのに、離さない。
「強いな」
澄乃さんが上品に笑う。
「可愛いでしょう。坊やのこと、分かってる顔だよ」
綾乃母さんが少しだけ体を寄せて言った。
「抱っこ、してみる? 嫌がらないと思う」
「します」
俺が言うと、綾乃母さんと澄乃さんの表情が変わった。
嬉しそうに、はっきりと。
この家でも、男が赤ちゃんを抱くのは珍しい。
だからこそ、2人の目が温かくなる。
「まあ」
澄乃さんが声を落として笑った。
「坊やが抱くの、私は好き」
「ハヤト君、ゆっくりね」
綾乃母さんが菜桜を渡してくる。
小さい体。軽いのに、怖いほど大事だ。
俺は腕を作って受け取った。
菜桜は一瞬きょとんとして――次の瞬間、顔が明るくなる。
声が出た。
嬉しい時のやつだ。
「……喜んでる」
俺が言うと、綾乃母さんが口元を柔らかくした。
「そう。ハヤト君に抱かれるとね、嬉しそうにするの」
菜桜は俺の胸元に頬を寄せて、手で服を掴む。
小さく足を動かして、落ち着く場所を探して、見つけたら止まった。
澄乃さんが、少しだけ身を乗り出す。
「ほら。顔が違う。安心してる」
「……可愛い」
俺が言うと、澄乃さんは上品に笑った。
「可愛いって言えるのが、もう偉いよ」
綾乃母さんも頷く。
「うん。嬉しい」
喜んでいるのを隠さない。
綾乃母さんも澄乃さんも、今日の俺をちゃんと喜んでいる。
☆
春雅が小さく動いた。
綾乃母さんの腕の中で、手がふわっと開く。
「春雅も起きた」
綾乃母さんが言う。
澄乃さんが俺を見る。
「坊や、次は春雅もやる?」
「やります」
俺が言い切ると、澄乃さんは満足そうに頷いた。
「うん。いい子」
綾乃母さんが春雅を渡す準備をする。
俺は菜桜をそっと綾乃母さんに戻した。菜桜は名残惜しそうに小さく声を出す。
「すぐ戻すわ。大丈夫」
綾乃母さんがそう言って、菜桜を落ち着かせる。
春雅が俺の腕に渡される。
菜桜より少しだけ重い。
でも同じくらい小さい。
春雅は目を開けたまま、ぼんやり俺を見る。
それから、指を一度だけ動かした。
俺は指を出す。
春雅が握る。弱いのに、確かに掴んでくる。
「……握った」
澄乃さんが上品に笑った。
「ね。坊や、自然に出来てる」
綾乃母さんも、目を細める。
「ありがとう。ハヤト君」
言われて、胸の奥が静かに熱くなる。
俺は短く頷いた。
「当然です」
澄乃さんが声を落として言う。
「その当然が嬉しいのよ」
こひなが居間の入口で待っていた。
尻尾だけが揺れている。近づきたいけど、許可を待ってる。
「こひな」
俺が呼ぶと、こひなが一歩だけ入ってくる。
匂いを嗅ごうとして止まる。
澄乃さんが指を立てた。
「そこまで。見守り」
こひなは不満そうに鼻を鳴らして、でも座った。偉い。
命が台所の方から来て、湯呑みを置いた。
いつもの手つき。余計な音を立てない。
「お茶です」
「ありがとう」
命は頷いて、菜桜の横に座った。
それから綾乃母さんを見て、短く言う。
「抱っこします」
「お願い」
綾乃母さんが菜桜を命に渡す。
命は受け取った瞬間、動きが丁寧になる。慎重なのに迷いはない。
菜桜は命の胸元に収まって、すぐ落ち着いた。
命が小さく息を吐く。
「……落ち着きました」
綾乃母さんが言う。
「命も上手ね」
「……慣れました」
命が淡々と返すと、澄乃さんが上品に笑った。
「みんな、ちゃんと家だね」
湯気が上がる。
赤ちゃんの小さな声が混じる。
こひなの尻尾が床を軽く叩く。
春雅が俺の腕の中で、ふっと口を開いた。
泣く前の顔。息を吸う気配。
俺は焦らず、腕を少しだけ揺らした。
大きくは動かさない。一定に。落ち着く揺れ。
春雅の眉の力が抜けて、口が閉じる。
泣かない。
綾乃母さんが目を丸くした。
「ハヤト君……上手い」
「たまたまです」
「たまたまじゃないわ」
澄乃さんが上品に笑った。
「坊や、こういうのは“慣れ”じゃない。向いてるの」
俺は何も言わずに、春雅の背中を軽く支える。
小さな体の温度が手に残る。
菜桜の方が、綾乃母さんの腕の中でむずむずし始めた。
口が尖って、声が出そうになる。
「菜桜も来るわね」
綾乃母さんが言う。
澄乃さんが俺を見る。
目が笑っている。けど、押しつけない。
「坊や。菜桜も抱く?」
「抱きます」
俺が言うと、綾乃母さんが嬉しそうに息を吐いた。
「じゃあ、春雅を一度こちらに」
「はい」
俺は春雅を綾乃母さんに戻した。
綾乃母さんの腕に戻った瞬間、春雅は安心したみたいに目を細めた。
代わりに菜桜が俺の腕に渡される。
菜桜は受け取った瞬間、声を止めた。
顔が変わる。目が丸くなる。
そして、小さく笑ったみたいに口元が動く。
嬉しい時の顔だ。
「……やっぱり」
綾乃母さんが小さく言う。
「ね。分かるんだね」
澄乃さんも、柔らかい声で言った。
菜桜が俺の服をぎゅっと掴んで、頬を寄せる。
落ち着く場所を見つけたら、動きが止まる。
俺はそのまま、菜桜の背中に手を置いた。
小さく、一定に。温度を伝えるだけ。
命が菜桜の足元を見て、淡々と言った。
「落ち着きました」
「落ち着いたな」
俺が言うと、命は頷いた。
「はい」
澄乃さんが湯呑みを持って、俺の手元を見た。
「坊や。抱っこしながらでも、飲める?」
「飲めます」
俺は湯呑みを受け取って、一口だけ飲んだ。
熱が喉を通って、体が落ち着く。
綾乃母さんがぽつりと言う。
「こういう時間、嬉しいです」
言い切ったあと、綾乃母さんは少しだけ目を伏せた。
澄乃さんが上品に笑う。
「綾乃。素直でいいわね」
「……嬉しいものは嬉しいのです」
綾乃母さんがそう言って、春雅をあやす。
春雅は小さく手を動かして、また落ち着く。
こひながじっと見ている。
吠えない。近づかない。
尻尾だけが、床を軽く叩いている。
家の中が、ゆっくり温まっていく。
今日の疲れが、音もなくほどけていく。
俺は菜桜の重みを受け止めながら、短く思った。
こういう時間は、守る価値がある。