※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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235話 欲しい気持ち

 夜。

 本邸の居間から戻る廊下は静かだった。湯気の匂いがまだ残っている。

 春雅の小さな重みと、菜桜の笑った顔が、頭から離れない。

 

 俺と命は並んで歩く。

 命はいつも通り丁寧な歩幅で、足音を立てない。

 腕は組んでいる。外より少し強い。家に戻ると、命はこうなる。

 

「……今日は、あっという間でしたね」

 

「早かったな」

 

「はい」

 

 短い会話。

 でも、命の声は少し柔らかい。家の温度に馴染んでいる。

 

 部屋に入ると、空気が一段落ち着く。

 明るすぎない灯り。静かな匂い。

 俺は上着を脱いで椅子にかけた。

 

 命は鞄を置いてから、机の上を片付ける。

 何も散らかっていないのに、整える。命の癖だ。

 

「お茶、飲むか」

 

「はい。飲みたいです」

 

 命が言い切った。珍しい。

 喉が渇いてるというより、落ち着きたいんだと思う。

 

 俺は台所に行って湯を沸かす。

 ケトルの音が静かに増えて、部屋の中に小さな“生活”が戻る。

 

 命はその間、ソファの端に座った。

 背筋は伸びたまま。でも肩が少し落ちている。

 今日は頑張った日だ。

 

「疲れた?」

 

「疲れていません」

 

 即答。

 でもその後、少しだけ間ができる。

 

「……少しだけ、温まりたいです」

 

「分かった」

 

 ケトルが止まる。

 俺は湯を注いで、湯呑みを2つ持って戻る。

 

 命は受け取る時、両手で湯呑みを包んだ。

 さっき菜桜を抱いた手と同じ形だ。

 無意識にそうなるのが分かる。

 

「熱いです」

 

「冷めるまで待て」

 

「はい」

 

 命は素直に頷いて、湯気を見ている。

 目が落ち着いていく。

 

 俺も一口飲む。

 熱が喉を通ると、今日一日の余分がゆっくり抜ける。

 

 しばらく、話さない。

 沈黙が気まずくない。家の沈黙だ。

 

 命が湯呑みを置いて、ぽつりと言った。

 

「……菜桜、嬉しそうでした」

 

「そうだったな」

 

「ハヤトさんに抱かれて……顔が、変わりました」

 

 命は言い切ってから、少しだけ目を伏せる。

 言葉を選ぶ癖が出る。

 でも今日は、逃げない。

 

「春雅も、指を握りました」

 

「握った」

 

「はい。……小さいのに、強いです」

 

 命は自分の指先を見る。

 赤ちゃんの重みが、まだ残っているみたいな見方だ。

 

 俺は命を見る。

 

「抱っこ、上手かった」

 

「……慣れました」

 

 淡々と言う。

 でも口元が少しだけ緩む。

 

 命は湯呑みをもう一度持ち上げて、一口飲んだ。

 湯気に隠れるみたいに、呼吸を整える。

 

 それから、湯呑みを静かに置いて言った。

 

「……赤ちゃん、可愛いですね」

 

「可愛い」

 

 俺が返すと、命は小さく頷いた。

 その頷きが、いつもよりゆっくりだった。

 

 命は一拍置いて、まだ言葉になっていないものを口の中で整えるみたいに息を吸う。

 そして、言い切る直前で止めた。

 

 命は俺の袖を、指先で少しだけつまんだ。

 離さないけど、引かない。

 

「……欲しくなりました」

 

 声は丁寧で、落ち着いている。

 なのに、その一言だけ温度が違う。

 

 俺は命を見る。

 

「今は無理だ」

 

「はい。分かっています」

 

 即答だった。

 分かっているのに、気持ちは消えていない顔だ。

 

 命は視線を落として、すぐ上げる。

 逃げない。今日はそういう日だ。

 

「だから……代わりに」

 

「代わりに?」

 

 命は一度だけ喉を鳴らして、言い切った。

 

「甘えたいです」

 

 言った直後、頬が少しだけ赤くなる。

 

 俺は湯呑みを置いて、手を出した。

 

「おいで」

 

 命は迷わず近づいてきた。

 腕を組むんじゃない。今日は、そのまま胸に寄ってくる。

 頭が俺の肩に触れて、体重が少しだけ預けられる。

 

 俺は抱き締めた。強くはしない。離れない程度に。

 

 命が小さく息を吐く。

 

「……落ち着きます」

 

「それでいい」

 

 命は頷いて、俺の服を指先でつまむ。

 離れないための仕草だ。

 

「今日、菜桜が……ハヤトさんに抱かれて、嬉しそうでした」

 

「そうだったな」

 

「……ああいう顔、好きです」

 

 命は言い切って、少しだけ間を置いた。

 それから、また真っ直ぐ言う。

 

「私も、ああいう顔を見たいです」

 

 俺は命の髪に指を通して、軽く撫でた。

 

「今は、命の番だ」

 

 命が一瞬だけ止まる。

 それから、上を見上げてくる。目が揺れてる。

 

「……番」

 

「赤ちゃんの代わりに、今は命を大事にする」

 

 俺が言い切ると、命は小さく頷いた。

 そのまま、さらに近づいてくる。距離がゼロになる。

 

「……ハヤトさん」

 

「ん」

 

「もう少しだけ」

 

「分かった」

 

 俺は命の額に、短くキスを落とした。

 それだけで命の肩の力が抜ける。

 

 命は言葉を増やさない。

 代わりに、腕を絡めてくる。いつもの癖じゃない。今日は離れたくない動きだ。

 

 しばらく、そのまま立っていた。

 家の音が遠い。時計の針だけが静かに進む。

 

 命が小さく言った。

 

「……焦りません」

 

「焦らなくていい」

 

「はい。でも……欲しい気持ちは、消しません」

 

「消さなくていい」

 

 俺が返すと、命は少しだけ笑った。

 上手く隠せない笑い方だ。

 

「……ありがとうございます」

 

 俺は命の背中を一度だけ撫でた。

 

「寝るか」

 

「はい」

 

 命が頷いた瞬間、俺は腰に手を回して抱え上げた。

 いわゆる、お姫様抱っこだ。

 

 命の目が一度だけ大きくなる。

 

「……っ」

 

 声にならない。

 腕が反射で俺の肩を掴む。力は弱いのに、離さない。

 

 頬が熱を持っていくのが分かる。表情は整えようとしてるのに、間に合ってない。

 

「……恥ずかしいです」

 

「嫌か」

 

「嫌では……ありません」

 

 命はそう言い切って、目を逸らした。

 逸らしたのに、指先の力が強くなる。心臓が速いのも伝わる。

 

 俺はそのままベッドまで運ぶ。

 揺れないように、ゆっくり。確実に。

 

 命を下ろす時、命が一瞬だけ俺を見る。

 嬉しいのに恥ずかしい。そういう目だ。

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 俺がそう返すと、命は小さく息を吐いて、布団を握った。

 落ち着こうとしてるのに、まだ落ち着けてない。

 

 俺は灯りを落として、隣に入る。

 

「おやすみ」

 

「……おやすみなさい」

 

 命の声が、少しだけ震えたままだった。

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