夜。
本邸の居間から戻る廊下は静かだった。湯気の匂いがまだ残っている。
春雅の小さな重みと、菜桜の笑った顔が、頭から離れない。
俺と命は並んで歩く。
命はいつも通り丁寧な歩幅で、足音を立てない。
腕は組んでいる。外より少し強い。家に戻ると、命はこうなる。
「……今日は、あっという間でしたね」
「早かったな」
「はい」
短い会話。
でも、命の声は少し柔らかい。家の温度に馴染んでいる。
部屋に入ると、空気が一段落ち着く。
明るすぎない灯り。静かな匂い。
俺は上着を脱いで椅子にかけた。
命は鞄を置いてから、机の上を片付ける。
何も散らかっていないのに、整える。命の癖だ。
「お茶、飲むか」
「はい。飲みたいです」
命が言い切った。珍しい。
喉が渇いてるというより、落ち着きたいんだと思う。
俺は台所に行って湯を沸かす。
ケトルの音が静かに増えて、部屋の中に小さな“生活”が戻る。
命はその間、ソファの端に座った。
背筋は伸びたまま。でも肩が少し落ちている。
今日は頑張った日だ。
「疲れた?」
「疲れていません」
即答。
でもその後、少しだけ間ができる。
「……少しだけ、温まりたいです」
「分かった」
ケトルが止まる。
俺は湯を注いで、湯呑みを2つ持って戻る。
命は受け取る時、両手で湯呑みを包んだ。
さっき菜桜を抱いた手と同じ形だ。
無意識にそうなるのが分かる。
「熱いです」
「冷めるまで待て」
「はい」
命は素直に頷いて、湯気を見ている。
目が落ち着いていく。
俺も一口飲む。
熱が喉を通ると、今日一日の余分がゆっくり抜ける。
しばらく、話さない。
沈黙が気まずくない。家の沈黙だ。
命が湯呑みを置いて、ぽつりと言った。
「……菜桜、嬉しそうでした」
「そうだったな」
「ハヤトさんに抱かれて……顔が、変わりました」
命は言い切ってから、少しだけ目を伏せる。
言葉を選ぶ癖が出る。
でも今日は、逃げない。
「春雅も、指を握りました」
「握った」
「はい。……小さいのに、強いです」
命は自分の指先を見る。
赤ちゃんの重みが、まだ残っているみたいな見方だ。
俺は命を見る。
「抱っこ、上手かった」
「……慣れました」
淡々と言う。
でも口元が少しだけ緩む。
命は湯呑みをもう一度持ち上げて、一口飲んだ。
湯気に隠れるみたいに、呼吸を整える。
それから、湯呑みを静かに置いて言った。
「……赤ちゃん、可愛いですね」
「可愛い」
俺が返すと、命は小さく頷いた。
その頷きが、いつもよりゆっくりだった。
命は一拍置いて、まだ言葉になっていないものを口の中で整えるみたいに息を吸う。
そして、言い切る直前で止めた。
命は俺の袖を、指先で少しだけつまんだ。
離さないけど、引かない。
「……欲しくなりました」
声は丁寧で、落ち着いている。
なのに、その一言だけ温度が違う。
俺は命を見る。
「今は無理だ」
「はい。分かっています」
即答だった。
分かっているのに、気持ちは消えていない顔だ。
命は視線を落として、すぐ上げる。
逃げない。今日はそういう日だ。
「だから……代わりに」
「代わりに?」
命は一度だけ喉を鳴らして、言い切った。
「甘えたいです」
言った直後、頬が少しだけ赤くなる。
俺は湯呑みを置いて、手を出した。
「おいで」
命は迷わず近づいてきた。
腕を組むんじゃない。今日は、そのまま胸に寄ってくる。
頭が俺の肩に触れて、体重が少しだけ預けられる。
俺は抱き締めた。強くはしない。離れない程度に。
命が小さく息を吐く。
「……落ち着きます」
「それでいい」
命は頷いて、俺の服を指先でつまむ。
離れないための仕草だ。
「今日、菜桜が……ハヤトさんに抱かれて、嬉しそうでした」
「そうだったな」
「……ああいう顔、好きです」
命は言い切って、少しだけ間を置いた。
それから、また真っ直ぐ言う。
「私も、ああいう顔を見たいです」
俺は命の髪に指を通して、軽く撫でた。
「今は、命の番だ」
命が一瞬だけ止まる。
それから、上を見上げてくる。目が揺れてる。
「……番」
「赤ちゃんの代わりに、今は命を大事にする」
俺が言い切ると、命は小さく頷いた。
そのまま、さらに近づいてくる。距離がゼロになる。
「……ハヤトさん」
「ん」
「もう少しだけ」
「分かった」
俺は命の額に、短くキスを落とした。
それだけで命の肩の力が抜ける。
命は言葉を増やさない。
代わりに、腕を絡めてくる。いつもの癖じゃない。今日は離れたくない動きだ。
しばらく、そのまま立っていた。
家の音が遠い。時計の針だけが静かに進む。
命が小さく言った。
「……焦りません」
「焦らなくていい」
「はい。でも……欲しい気持ちは、消しません」
「消さなくていい」
俺が返すと、命は少しだけ笑った。
上手く隠せない笑い方だ。
「……ありがとうございます」
俺は命の背中を一度だけ撫でた。
「寝るか」
「はい」
命が頷いた瞬間、俺は腰に手を回して抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこだ。
命の目が一度だけ大きくなる。
「……っ」
声にならない。
腕が反射で俺の肩を掴む。力は弱いのに、離さない。
頬が熱を持っていくのが分かる。表情は整えようとしてるのに、間に合ってない。
「……恥ずかしいです」
「嫌か」
「嫌では……ありません」
命はそう言い切って、目を逸らした。
逸らしたのに、指先の力が強くなる。心臓が速いのも伝わる。
俺はそのままベッドまで運ぶ。
揺れないように、ゆっくり。確実に。
命を下ろす時、命が一瞬だけ俺を見る。
嬉しいのに恥ずかしい。そういう目だ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
俺がそう返すと、命は小さく息を吐いて、布団を握った。
落ち着こうとしてるのに、まだ落ち着けてない。
俺は灯りを落として、隣に入る。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
命の声が、少しだけ震えたままだった。