食べ終えた弁当箱を閉じながら、私はまだ少しだけ落ち着いていませんでした。
──下の名前で呼んでよろしい、ですって?
あれを、あんなにも自然に口にする男子など、存じ上げません。
気軽で、無防備で、それでいて軽薄ではない。
天城様……いいえ、ハヤト様。
名家の集まりでも、社交の場でも、
男子というものは距離を測りますの。とても慎重に。
呼び名ひとつで立場が変わることを、よく理解していらっしゃるから。
それなのに。
「俺の事も下の名前で呼んでくれて構わない」
まるで、当然のことのように。
胸の奥が、ひどくざわつきました。
驚き。困惑。
そして、それ以上に──好都合、という感覚。
距離を縮める許可を、あちらから差し出してくださった。
でしたら、使わない理由などございませんわ。
私は弁当箱を片付け、ハンカチでそっと口元を押さえます。
「……本当に、不思議なお方ですわね」
小さく呟くと、視線の先ではハヤト様が佐久間さんと何やらお話をなさっています。
肩の力が抜けていて、どなたに対しても同じ距離感。
──だからこそ、危険ですわ。
視線を横にやると、御堂さんが立ち上がっていらっしゃいました。
無言で弁当箱を鞄にしまい、特別な感情を表に出すこともなく。
あの方は、何をお考えなのかしら。
日和さんがそれに気づき、柔らかく声をかけます。
「少し歩きませんか? まだ時間、ございますし」
「そうですわね」
御堂さんは、短くそうお答えになりました。
全員で席を立ちます。
ごく自然な流れ。けれど、配置は変わりません。
私は、迷うことなくハヤト様のお隣へ。
「午後、眠くなったりなさいません?」
何気ない会話を装いながら、そっとお顔を覗き込みます。
「まあ、たまに」
「私が同じ教室でしたら、起こして差し上げますのに」
冗談めかして申し上げると、ハヤト様は少しだけ困ったように微笑まれました。
──この反応。
やはり、この方は、落とす価値がございます。
御堂さんは、少し前を歩いていらっしゃいます。
背筋は伸び、振り返ることもなさらない。
私と違って、焦りも、押しも、見せない。
だからこそ──譲るつもりはございませんわ。
男子は希少。
好意は、早い者勝ちですもの。
昼休みは、まだ終わりませんわ。
席を立ってから、私たちはそのまま校舎内を歩くことになりました。
特別な目的はございません。昼休みの残り時間を、穏やかに使うためですわ。
私はごく自然に、ハヤトさんのお隣へ。
歩幅を合わせるのも、距離を保つのも、意識する必要はございません。
御堂さんは、半歩ほど前。
日和と佐久間さんが、その後ろを並んで歩いていらっしゃいます。
廊下を進むにつれて、視線が増えていくのが分かります。
隠す気もない、分かりやすい興味。
──当然ですわね。
男子が二人。
それも、あれほど整った容姿の方ですもの。
私は横目でハヤト様を見やります。
ご本人は、どうやら気づいていないご様子。
「こちら、中庭につながっておりますのね」
日和が、柔らかく場をつなぐ。
「風が気持ちよろしいですわ」
中庭へ出た瞬間、空気が変わりました。
開けた場所は、どうしても目立ちます。
──参りましたわ。
「ねえ、ちょっといい?」
予想通り、先輩方のお声がかかります。
複数名。視線は一直線に、ハヤト様へ。
「一年生の男子よね?」
「部活、もう決めた?」
距離が詰まる。
意図は明白ですわ。
私は一歩、前に出ました。
「申し訳ございません」
微笑みは崩さず、声ははっきり。
「今はご一緒に校内を拝見している最中ですの」
一瞬、先輩方の視線がこちらに向きます。
それでも、引きません。
「部活のお話でしたら、後日、改めて伺いますわ」
──“後日”。
可能性は残しつつ、主導権はこちら。
短い沈黙のあと。
「あ、そう……」
「またね」
先輩方は、素直に引いていかれました。
私は何事もなかったかのように、歩き出します。
「……助かったよ」
ハヤト様が、少し困ったようにおっしゃいました。
「当然ですわ」
即答です。
迷う理由など、ございませんもの。
ふと視線を感じて横を見ると、御堂さんがこちらをご覧になっていました。
一瞬だけ。感情は読めません。
それでも──見ていました。
それで、十分ですわ。
「人気者でいらっしゃいますのね、ハヤト様」
日和さんが、後ろから穏やかにおっしゃる。
「まぁたぶん?」
そのお答えに、思わず笑いそうになりました。
──本当に、不思議なお方。
何も分かっていないからこそ、
すべてをさらっていく。
私は歩きながら、ほんの少しだけ距離を詰めます。
肩が触れるほどではありません。
けれど、意識すれば簡単に離れられる距離。
それでも、ハヤト様は歩調を変えませんでした。
避けることも、間を取ることもなさらない。
──受け入れていらっしゃる。
そう判断するには、十分でしたわ。
視線を上げると、少し前を歩く御堂さんの背中が目に入ります。
振り返ることもなく、まっすぐ前だけを見て歩いている。
なのに、不思議ですわね。
視界に入っていなくても、その存在だけは消えない。
静かで、目立たず、何も主張しない。
けれど、こちらの動きだけは、すべて見透かしているような気配。
……無視できない相手、ということですわ。
私は、もう一歩だけ距離を詰めました。
それ以上は、なさらない。
今は、この程度で十分ですもの。