入学から数日が経った。
校舎の匂いも、教室のざわめきも、少しずつ当たり前になってきた。
俺は自分の席に腰を下ろし、鞄からノートを出す。廊下側の前の席は、思ったより落ち着く。
「おはよう、ハヤト」
柔らかい声でレンが来る。
俺の隣の席に、いつものように腰を下ろした。
「今日、数学あるんだよね」
「あるな」
「うわ……ちゃんと聞かないと」
本気で困った顔をするあたり、相変わらずだ。
その少し前、命が席に着くのが見えた。
真ん中あたりの席。背筋はまっすぐで、鞄の置き方も無駄がない。
目が合うと、命は一拍だけ置いてから小さく会釈した。
それだけなのに、妙に意識に残る。
「相変わらずだね」
レンが小声で言った。
「何がだ」
「視線」
そう言われて、初めて自分が命の方を見ていたことに気づく。
「無意識だよ、それ」
「……そうか?」
レンは苦笑して、教科書を開いた。
授業が始まると、教室は一気に静かになる。
ノートを取る音、黒板にチョークが当たる音。普通の中学の授業だ。
ただ、普通じゃないのは、時折感じる視線だった。
前から、斜めから、後ろから。
慣れないわけじゃないが、完全に無視できるほどでもない。
昼休みになると、俺たちは自然に集まった。
弁当を広げる位置も、もう決まっている。
俺の隣に恵、向かいに命。
レンと日和が、その間を埋める。
恵はよく話す。
声も表情も、隠す気がない。
「ハヤトさん、今日は午後も眠くなりそうですわね」
「そうか?」
「ええ。昨日より暖かいですもの」
距離が近い。
肘が触れないぎりぎり。
命は、何も言わない。
箸を動かし、弁当箱から視線を上げない。
いつも通り、と言えばそうだ。
だが、完全に同じでもなかった。
恵が話すたび、命の箸が一瞬だけ止まる。
止まって、また動く。
俺はそれに気づいていたが、口には出さなかった。
「恵も今日は弁当なんだな」
「ええ。御堂さんと同じですわ」
わざと名前を出す。
恵はそういうことをする。
命は顔を上げない。
ただ、「そうですね」とだけ返した。
レンが間に入る。
「命さんの弁当、今日もきれいだよね」
「……ありがとうございます」
声は平坦。
でも、返事は遅れなかった。
日和が続ける。
「最近、学校どうです?」
「どう、って言われてもな」
俺がそう答えると、レンが頷く。
「でも、落ち着いてきたよね」
「最初よりは」
命が小さく頷いたのが見えた。
その仕草一つで、なぜか空気が整う。
不思議なやつだ、と改めて思う。
「ねえ、ハヤトさん」
命が俺を呼ぶ。
名前だけ。さん付けだが、それでも最初より近い。
「放課後、少し時間はありますか」
「あるけど」
「でしたら、帰り道で少しお話を」
理由は言わない。
でも、それで十分だった。
「分かった」
短く答えると、命はそれ以上何も言わず、弁当に視線を戻した。
レンが俺の方をちらりと見て、何も言わずに肩をすくめる。
ほんと、無自覚だよね。
さっきの言葉が、頭のどこかに残っていた。
自覚があるかどうかは分からない。
ただ、俺はもう一歩踏み込むつもりでいた。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
椅子が引かれ、鞄が持ち上がり、廊下に向かう流れができる。
「命」
俺が名前を呼ぶと、命はすぐに顔を上げた。
断る素振りはない。少し間を置いてから、頷く。
「はい」
それだけで十分だった。
校舎を出て、正門の方へ向かう。
まだ人は多いが、昼よりは落ち着いている。
「話って、何だ?」
俺がそう聞くと、命は少しだけ歩調を落とした。
「大したことではありません」
「でも、呼び止めた」
「……はい」
沈黙が挟まる。
命は前を見たまま、言葉を選んでいるようだった。
「昼のことです」
「昼?」
「九条さんのこと」
具体的な名前が出た。
「気にしてたのか」
「気にしていない、とは言えません」
否定はしない。
そこが命らしい。
「九条さんは、はっきりしている方です」
「そうだな」
「……天城さんも」
そこで、命は一度立ち止まった。
「いえ。ハヤトさんは、人との距離を決めるのが、少しだけ独特です」
責める口調ではない。
事実を並べるだけ。
「そうか?」
「はい。下の名前で呼ぶことも、呼ばせることも」
「嫌だったか」
「いいえ」
即答だった。
「嫌ではありません。ただ……」
言葉が止まる。
「慣れていないだけです」
それ以上は続かなかった。
校門が近づく。
桜はもう散りかけている。
「俺は、命が嫌ならやめる」
「嫌ではありません」
「では」
「……はい」
短い会話だった。
だが、必要なことは伝わっている。
命は一礼して、別の道へ向かう。
振り返らない。
俺はその背中を見送りながら思う。
命は、話したいことがいくつもある。
ただ、それを一度に出さないだけだ。
そして、誘えば来る。
断らない。
それが偶然なのか、性分なのか。
今はまだ分からない。