玄関の鍵を開けた瞬間、低く短い鳴き声がした。
「……ただいま」
返事をするより早く、黒柴のこひなが床を滑るように走ってくる。
尻尾をぶんぶん振りながら、足元に体を擦りつけてきた。
「お前は相変わらずだな」
頭を撫でると、満足そうに一声鳴く。
その少し後ろ。
廊下の影から、三毛猫のココが静かにこちらを見ていた。
近づいては来ないが、視線だけは外さない。
「……はいはい、帰ってきたぞー」
靴を脱ぎ、鞄を置く。
こひなはようやく落ち着いたのか、座布団の上に丸くなり、
ココはその様子を確認してから、窓際へ移動した。
ようやく家の空気に戻ったところで、端末が震えた。
──水瀬遥香。
表示された名前を見ただけで、肩の力が少し抜けた。
最初のパートナー。
変に構えなくていい、数少ない相手だ。
遥香
『隼人さん今時間いいですか?』
短いメッセージ。
それだけで、どこか落ち着く。
隼人
『大丈夫だよ。今日はどうした?』
すぐに既読がつき、少し間を置いてから次の通知が来た。
遥香
『今度の土日、空いてるかしら』
用件は分かりやすい。
隼人
『今のところは大丈夫だよ。何かある?』
返すと、今度は少し長めの文章。
遥香
『よかった。もしよろしければ、一泊で旅館に行きませんか』
旅館、という単語に、思わず画面を見直す。
遥香
『急でごめんなさい。でも、たまには外でゆっくりするのもいいかなって思って』
控えめだけど遥香らしい。
パートナーとして、距離が近すぎるわけでも、遠いわけでもない。
その線を、彼女はちゃんと分かっている。
少し考えてから、返信する。
隼人
『いいね。もう場所は決めてるの?』
数秒後。
遥香
『ええ。静かなところ。隼人が嫌じゃなければ、だけど』
嫌なはずがない。
隼人
『大丈夫。行こう。土日は空けておくよ』
送信すると、すぐに返事が来た。
遥香
『ありがとう。じゃあ、詳しいことはまた連絡するね』
文末に、小さな花の絵文字。
端末を伏せて、天井を見る。
──旅館、か。
学校の空気や、昼休みの視線から、少し距離を置ける。
それは、悪くない。
週末か、楽しみだ。
母さんに言っておかないとな。
端末を置いて、立ち上がる。
考え事をするには、体を動かすのが一番だ。
「行くか、こひな」
声をかけると、黒柴のこひながすぐに反応した。
尻尾を大きく振りながら、玄関の方へ駆けていく。
リードを手に取ると、足元では三毛猫のココが伸びをしている。
見送りなのか、ただ邪魔したいだけなのかは分からない。
「すぐ戻る」
返事はないが、ココは当然のようにあくびをした。
外に出ると、夕方の空気は少し冷えていた。
こひなは最初から走る気満々で、自然とペースが上がる。
散歩、というよりランニング。
いつものことだ。
一定のリズムで足を動かしながら、頭を空にする。
学校のこと。
命のこと。
遥香からの誘い。
考えすぎないようにしても、浮かんでは消える。
こひなは楽しそうだ。
一定の速度で並走し、時々こちらを確認する。
「元気だな」
そう声をかけると、さらに速度を上げた。
容赦がない。
一周して、少し遠回りをしてから家に戻る。
汗をかいて、呼吸が整う頃には、頭も少し静かになっていた。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
「おかえり、隼人」
母の声だった。
靴を脱いで顔を上げると、母がリビングの方から出てくる。
買い物袋を手にしている。
「今日は早かったんだな」
「ええ仕事が順調に終わってね」
こひなが母の足元にすり寄る。
当然のように撫でられていた。
「散歩なの?」
「ランニングも兼ねて」
「相変わらずだわ」
軽く笑ってから、母は俺を見る。
「……土日、と泊まり込みで」
「週末、何か予定あるの?」
「デート」
「……遥香さん?」
一拍だけ、間があった。
母は探るような目はしない。ただ、確認するだけの声音。
「まあ、そんなところ」
「そう」
それだけで、話は終わった。
深掘りもしないし、茶化しもしない。
リビングの隣にある小さな部屋は、簡単なトレーニング器具が並んでいる。
母が俳優業を続ける中で、自然と増えていったものだ。
ジャージに着替え、軽くストレッチをしてから器具に向かう。
負荷は軽め。走った後だから、整える程度でいい。
一定のリズムで体を動かしていると、扉の向こうから足音がした。
「ちゃんとクールダウンしてる?」
「してるよ」
母はドア枠にもたれながら、様子を見る。
仕事の顔ではなく、完全に家の中の人だ。
「無理しすぎると、後で響くのよ」
「分かってるって」
最後に軽く身体を伸ばして、息を整える。
汗を拭いていると、母が近づいてきた。
「お疲れさま」
肩に、ぽん、と手が置かれる。
力は入っていない。ただ触れているだけだ。
「……走って、トレーニングして、相変わらず真面目ね」
「習慣だからな」
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
肩を軽く揉まれる。
「もういいよ」
「あら、そう?」
言いながらも、すぐに手は離れた。
からかわれた、というより、気遣われた感覚に近い。
「週末、出かけるんでしょう?」
「まあな」
肩を揉んでくれたお礼に後ろから抱き着いておっぱいをもんであげよう
「ハヤト」
それだけで、母はすぐに女の顔になる。
「母さん久しぶりにどう?」
「そうね、時間もまだあるし」
そう言って、母は俺の手を握る。
「シャワー、先に浴びてきなさい」
「わかった」
立ち上がると、少し体が軽い。
気力が充実してるからだろう。
その日の夕飯は少し遅くなってしまった。